原子力産業新聞

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Messages from Overseas 十年後の今も残る コミュニケーションについての多くの教訓 米国アルゴンヌ国立研究所 シニア政策フェロー ポール T. ディックマン

憶測が事実にとって代わった

「福島第一事故では数多くの規制機関をはじめとする様々な組織が事故情報の入手を渇望していることが明らかだった。しかし残念ながらそうした組織が示した関心事についての情報の多くは入手が叶わず、その結果、しばしば憶測が事実にとって代わることが起きた。」

国際安全グループ(“INSAG”)からIAEA事務局長宛て2011年7月26日付書簡

10年前、福島第一で起きた事故では世界中の人々が注視する中で事象が進展していった。そしてそこでは日本政府や原子力産業界が事故を注視する人々はじめ世界のコミュニティと効果的なコミュニケーションをとることに失敗した姿も同時に見せつけることとなった。

多くの国際機関が福島で進展する事故の評価とその公表に関与することになった。我々は事故の進展を推測し、それら情報を意思決定者や影響を受ける人達、そして関係者などに提供する必要に迫られた。しかし同時に我々はそれに引き続いて発生した混乱や不信の一因を作り出すことにも寄与してしまった。

工学者、理学者、環境専門家、あるいは政策決定者として、我々はこの事故や事故への対処がもたらす結果について分析を行うのに必要となるようなまさに適切な道具立てを持っていた。しかしながらデータ量があまりに膨大であったことがしばしば我々が情報提供する際の障害となり、何が起こっているのかを理解する上で必要となる前後関係を一般に対してうまく伝えることができなかった。危機が発生した最中に放射線や原子力についての教科書的知識を準備して示すようなことはやるべきことではない。しかし当時、我々のほとんど誰もがそれまで経験したことがないような全く異なる事態が発生していた。すなわち、効果的にコミュニケーションを取ることについて我々自身の力が及ばず情報の真空状態が生じたこともあって、複数の情報源が圧倒的な量の誤情報や憶測を垂れ流すことになっていた。そのことが危機に立ち向かってそれをコントロールすべき政府機関の信頼を崩壊させてしまった。

このことが米国原子力学会(ANS)理事会が福島第一事故に関する特別調査1を立ち上げる背景となった。私がその研究管理者を務め、報告書は事故から丁度1年後に公表することができた。本稿はその報告書の内容も踏まえそれ以降の年月を通じて学び取った教訓を示すものである。

コミュニケーションの失敗

今となれば効果的なコミュニケーションに失敗したことが福島の危機を大きく悪化させてしまったということがわかっている。このことは日本政府や原子力産業界の評判を大きく損ねたことに止まらず、事故を起こした原子炉の周辺地域から無用な避難を強いられた人々に対して実際の被害をもたらし、その命を落とさせることになった。このコミュニケーションの失敗の後遺症は今も残っていて福島サイトでの廃炉作業の妨げになっている。福島サイトで貯蔵されている処理水の放出問題はその最も顕著な事例である。

福島第一は全世界にとって重大な意味を持つ産業事故で、かつインターネットや主要メディアを舞台にリアルタイムで事象が進展したはじめての事故であった。東京電力、そして多分世界中の原子力コミュニティの全体誰もが、そんなレベルで起きる危機に際してのコミュニケーションに対応する準備はしていなかった。理想を言うなら、東京電力が福島第一サイトで緊急事態を宣言した際、直ちに日本政府は「ステーション・ブラックアウト事象」がどのような結末に至るのかについて明確に理解をした上で、それに対処することができたはずであった。そうであるならば、政府は炉心溶融が起きる可能性とそのリスクを社会に対して伝え、整然と避難を実施し、あるいは屋内退避の命令を発することになったであろう。また大規模自然災害で発生した危機を乗り越えるために政府が様々な努力を払っていることを社会一般が今一度確認できるようにしたであろう。また政府は社会や国際コミュニティに対する情報提供についても事前の準備をすることになったであろう。予め役割が定められた組織が十分調整をとりながら適時適切に情報を提供しながらこうしたこと全てを実施することになったはずであった。
しかし勿論、現実にはこのどれ一つとして行われることはなかったし、またそれが可能だったと考えること自体が非現実的なことである。しかし、それは一体何故なのだろうか?

10年経った今、それが危機管理の誤り、文化的バイアス、そしてある場合は単なる誤訳などからなる複雑な話であったことを我々は理解している。メディアや国際コミュニティによる飽くことがなく厳しい即時の情報提供要求を日本政府と東京電力が大きく過小評価していたことについてはほとんど疑う余地はない。また発電所の管理職や運転要員が、自分の家族も大きな影響を受けている地域の惨状に対処しつつ、事故炉を何とか安全停止状態に移行させようと苦闘して疲れ果てている中で、そんな風に情報提供が要求されたことが作業の妨げになっていたということも今や我々は理解している。

政府ならびに東京電力が情報を提供しようと試みる度ごとに、答えようもない無数の追加の質問が群れとなって襲ってくることとなった。メディアのフラストレーションは高まり、コメントや意見を他の情報源に求めたが、それはしばしば誤情報や単なる憶測を生むことになった。そうしたコメンテータの多くは原子力の運転や放射線防護についてほとんど知識を持ち合わせていなかったが、彼らは自分の意見を科学的なファクトとして提供していた。このことは米国原子力学会員にとって苛立たしいもので、学会はそうした誤情報の濁流に対して何らかの対処をすべきだと米国原子力学会本部や学会ウェブサイトは集中砲火を浴びることとなった。

こうして福島はニュースで扱うべき事象からサーカスのようなメディアの見世物に変化してしまった。我々のリスクコミュニケーション小委員会のメンバーであるダン・ヤーマン氏は以下の通りコメントしている。
「メディア各社にとって、複雑な原子力事故のファクトよりは、一体原子炉が吹き飛ぶのかどうかを見るためにニュースを追いかける方がより重要な課題だ。TV局が仕事をするのは広告スポンサーがその話しに乗り続ける場合に限られ、またそれでTV局は利益を上げている、ということは頭に入れておく必要がある。ショッキングなことが売れるのだ。」 
福島で進行している危機の実況に世界中が引き込まれている状況はメディアにとってみれば広告収入を増す絶好の機会であって、情報の濁流を何とかしようとするいかなる努力もすぐに消滅するほかはなかった。こうしたことは当時は理解も認識もされていなかったし、現時点においてもそれは依然として課題として残ったままである。

しかしこの危機の中で効果的なコミュニケーションの例もいくつかあった。私の意見では、最も優れたものの一つは米国電力会社や主要メーカからなる業界団体である原子力エネルギー協会(NEI)が行ったものである。福島第一が事故で損壊したというニュースが報道されるや否や、NEIは危機コミュニケーションプログラムを立ち上げ、メディアや政府関係者に対しその評価をタイムリーに提供し、また原子力の一般的安全性や、米国原子力発電所の安全性を改めて確認できるようにした。NEIが払った努力は一般社会を対象としたものではなく、タイムリーに情報を提供しながらリーダーシップを取ってくれるであろうと一般社会が期待を向けている人達に対して情報を提供するものであった。それは過去、スリーマイルアイランド事故の経験から米国が学んだ教訓の一つでもあった。

またNEIは事故を巡って不確実性があることや様々に明確ではない点があることを常に強調していた。その記者会見では、常に冒頭「これが現時点で我々に分かっていることだが、その内容は変わるかもしれず、またもしもそうなったら別途お知らせする」と言って会見が始められた。プロセスの透明性と不確実性の明確化を積み重ねることで信頼性は高まる。メディアや社会も危機がまだ進展している最中には答えられない多くの疑問があり得るということはわかっている。NEIのやり方は、何が起きているのか分析するには情報量がまだ足りない点を明確に示してメディアの眼をそこに向けさせるというものである。NEIは不確定性から逃げることをせず、むしろそうした問題や不確定性について語ることができる専門家を紹介するようにしていた。それは誤情報を防ぐ上で有効なやり方であった。

1
福島第一事故に関する米国原子力学会特別報告書(2012年3月)(FUKUSHIMA DAIICHI : ANS Committee Report A Report by The American Nuclear Society Special Committee on Fukushima)

コミュニケーション失敗の根本原因

「原子力緊急事態宣言が発せられた。繰り返すが放射能漏れはない、またそうした事態に至らないように万全の措置対応をしている。」 

2011年3月11日午後7時45分 官房長官

コミュニケーションと誤情報

コミュニケーションの質が悪ければ不信と怒りが生み出され、恐怖やストレスは増大し、それらの影響は長期にわたって継続し得る。10年前、我々はリスクについて効果的にコミュニケーションを取ることに失敗すれば、その結果としてあたかもパンデミックのように誤情報が不可避的に拡散していくことになるということを認識した。しかしこの誤情報の根本原因は時として文化的なものでもあり得る。

福島の事故について世界中のコミュニティがその評価を行っていたが、そこで我々がそれまで気付いていなかったような事実が立ちはだかった。長年にわたって日本政府と原子力を保有する電力会社はリスクについて議論することを避けてきた。日本の一般公衆は完璧な安全性が確保されていることを期待し、またそれは確約され、さらに追加で安全性を確かなものとするように冗長なシステムを設置することに大きな努力が払われていた。しかしながら世の中には常にそれを「知らないことすら知らないような事柄」が存在しており、どのようなシステムも完璧ではなく、ゼロリスクでもない。

この危機を通じて、管理者たちが誤情報や憶測に対処することに忙殺され、それによって本当に重要な事柄への注意がそらされてしまっていたことがわかっている。誤情報をもたらす情報源は多数あり得て、あるものは無知、それも特に技術的情報に関する無知に起因したものであった。また誤情報には翻訳やプレゼンテーションの単なるミス、あるいは外部からはうかがい知れないような文化的な問題に起因したものもあった。また注意を引いて経済的支援を得る目的で、いかがわしくまたショッキングな見解を示し、福島の危機、そして――メディアの眼――を利用しようとする個人や組織があったことも目の当たりにした。

こうしたこと全ては、一般公衆の安全確保につき負託を受けた政府組織やその他の政府外の組織に対する一般公衆や政治のリーダー達の信認がないならば、危機におけるコミュニケーションを効果的に成し遂げる手法は到底存在し得ない、というごく単純な事実を指し示している。

福島のタンク

福島第一サイトにある1,000基以上の処理水貯蔵タンクにもこのコミュニケーションの失敗を見ることができる。これらのタンクは危機の初期段階で社会の信認を得ることに失敗したモニュメントであり、将来とも困難な道が続くことを常に思い起こさせている。社会の信認を得るには透明性が鍵である。福島の処理水への対処にあたって日本政府は常に全てにつき透明性を確保しては来なかった。日本政府はデータ公表や貯蔵量や処理量に関する詳細な情報を提供することについては大変にオープンであったが、サイトから水をなくすために取り得る実際的な選択肢を示すようになったのはついごく最近のことである。

福島には約860テラ・ベクレルのトリチウムを含む約120万トンの水が貯蔵されている。この放射能量は大量に聞こえるかもしれないが、米国の全原子力発電所からはこの2倍近くの放射能が毎年放出されている2 。韓国の6基の重水炉を含む合計24基の原子炉からは福島で貯蔵されている総トリチウム量の約40%に相当する量が毎年放出されている3 。世界中あらゆる原子力発電所は規制当局の監視の下、トリチウム廃棄物やトリチウム水を多量に希釈して安全に放出していることは極めて単純な事実である。

過去、福島第一が運転中であった頃は長年にわたりトリチウムは安全に気中あるいは海中に放出されていた。処理水は海に放出するのが最も実際的で、安全でかつ環境的にも確実な廃棄方法である。原子力安全や健康に関与する主な国際機関の全てが処理水は海に放出することを推奨しているが、依然として信認はなく行動はなされていない。

日本の原子力規制庁(NRA)は強力かつ独立で技術的にも有能な原子力安全当局だと国際的にも見做されている。東京電力の処理水の放出を監視し、それが規制や手順に適合するものであることを確認し、全ての操作に関して一般社会に対して透明性を確保していくのもNRAの責任となる。しかしながらNRAが一般社会の信認を獲得するまでは、何にせよそうした議論を呼ぶような決断について前に進めることは困難である。

危機におけるリーダーシップ

我々は米国政界のみならず原子力の歴史においても偉大であった方のご逝去を追悼するべきである。2020年12月31日、元ペンシルバニア州知事のリチャード(ディック)・L・ソーンバーグ氏が享年88で亡くなった。ソーンバーグ元知事はスリーマイルアイランド(TMI)事故時とその後の危機を通して同州知事を務められた。氏は我々原子力界に身を置く多くの者にとってのヒーローであった。

危機に際しては、一般公衆は国のリーダーに対して直接復旧作業の指揮を取ることを期待はしない。リーダーには救援、復旧作業に従事する人達にタイムリーにあらゆるリソースが確実に行きわたるよう指図することを一般公衆は期待している。そうしたメッセージを発することが危機におけるコミュニケーションの基本の一つである。

ソーンバーグ知事に何度かお会いする機会を持てたのは自分にとって栄誉あることだった。2012年にオーストリア・ウイーンのIAEAで開催された福島第一事故に関する会議でお会いしたのが最後だった。知事も私も原子力非常時におけるコミュニケーションに関する専門家会議で論文発表を行った。1979年の夏の間、我々2人はどちらもTMIに居た。彼は知事として、また私は事故炉からのヨウ素漏洩を追いかける駆け出しの原子力科学者としてそこに居た。

世代は離れてはいたが、スリーマイルアイランドは原子力の歴史の中のみならず、我々のキャリアの中でも鍵となる出来事であり続けた。私は復旧作業の中でほんの小さな役割を担っただけだったが、ディック・ソーンバーグは偉大な巨人だった。彼がやったことはまさに危機の最中にリーダーはかく振る舞うべきだと考えられていることそのものであった。彼は人々に対して、自分は透明性と説明責任を保ち続ける、そしてそれが皆の政府に対する信認を構築する上で必須のことなのだ、と語りかけた。彼は科学に基づき、そして人々の健康と環境を保護する責任を担っている政府機関に対する信認を基に意思決定を行う政治家だった。

TMIの危機
TMIの危機は1979年3月28日、水曜日の朝に始まった。しかし1979年4月2日の日曜日までのわずか4日間で一般社会の受け止め方は大きく変化し、その危機はほとんど終わったに等しかった。その間、水素ガス爆発の可能性に関し荒れ狂うような技術的論議がメディアにあふれ返った。放射能大量放出を恐れ、多くが地域全域の緊急退避を声高に要求した。溢れかえるメディアと恐れおののく人々を恐怖に陥れたこの世間の議論を変化させたものは一体何だったのか。日曜日、ジミー・カーター大統領と同夫人はディック・ソーンバーグ・ペンシルバニア州知事と一緒に黄色いスクールバスに乗って国中のメディアを引き連れて損傷した発電所に乗り込んだ。米国大統領とペンシルバニア州知事が発電所内を視察する姿には人々を沈静化させる効果があった。人々の興奮とメディアの憶測はしぼんでいった。メッセージは単純なものだった。つまりそこには社会に対する透明性が存在していること、そして大統領と州知事が持つ責任とその権限が明確に示されていたことだ。現地には連邦ならびに州政府当局、そして放射線や原子力に関する専門家が居て、公衆の安全確保に当たっていることが示された。 危機に際しては、タイムリーな指示、リーダーシップに対する信認、そしてオープンで透明性高いコミュニケーション・スキルが必要である。そして福島の危機の初期においてはそれら全てが不足していた。

おわりに

TMI事故が起きた1979年3月28日の朝、ディック・ソーンバーグ知事は原子力発電や放射能についてはほとんど何も知らなかったはずだが、彼はどうしたら政府機関がきちんと機能するかについてはよく理解していた。米国においては如何なる緊急事態への対処であれ、電力会社の従業員が最前線に立って対処することを我々の安全規制当局である原子力規制委員会(NRC)が期待しており、またそれを電力会社に要求している、ということを知事はよく理解していた。NRCの役割は直接、現場を監督管理することではない。NRCの役割は連邦政府としての対応を調整しながら、電力会社が適切な防護措置を実施できる状態を常に維持していくことにある。ソーンバーグ知事が助言を求めた相手はNRCであり、州の原子力や放射線安全の担当部署であった。それらの組織のミッションは社会の人々を保護することであって、そのことを社会の人々が確信できるようにすることが自分自身のミッションになっているということをソーンバーグ知事はよく理解していた4

福島第一の廃炉を前に進め原子力を推進していくには、日本は一般公衆ならびに環境の安全性確保の責任を負っている組織に対する人々の信認を再構築しなければならない。すでに多くのことがなされてはいるが、依然として多くの課題も残っている。日本の安全規制当局を再構築したことは大きな、そして必要不可欠な第一歩だった。原子力損害賠償・廃炉等支援機構(NDF)が設立されたことももう一つの進展だ。

しかし新組織を作っただけで人々の信認を獲得できる訳ではない。むしろ政治・社会のリーダー達は一般公衆と環境の安全性確保に責任を負っている機関・組織が持つ機能とその限界を理解することにもっと時間を割かねばならない。そうしたリーダー達は、世界には常に不確定性が存在していること、そしてそのリスクを減じるためにはどのような手段を取り得るのか、についてよく理解しなければならない。そして最も重要なことは政治・社会のリーダー達がそうした安全性確保に責任を負う組織を信認しなければならない、ということである。リーダー達はそれら組織のミッションと、その組織が任務を全うする上で必要となる組織内リーダーシップの双方の観点から、それら組織を信認しなければならない。

COVID-19のパンデミックに国家レベルで闘い、それを封じ込めるに際してこのことは更に重要なこととなっている。

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福島第一事故に関する2012年版米国原子力学会報告書は、首相が危機管理に際して取った行動に対して大変に厳しい批判を行った。詳細にわたる同報告書の公表から10年近くが経過し、事故についてより広範な知見が得られているが、我々の当時の意見を変えるべき理由は何一つ見つけることはできていない。

リチャード・ソーンバーグ元知事(左)と著者(右)
2012年6月19日IAEAにて

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