原子力産業新聞

二度と戦争の惨禍を経験しないために

20 May 2020

原子力産業協会よりリニュアルされる原子力産業新聞でコラムを書くよう依頼をいただいた際、正直なところ迷いがないわけではなかった。東日本大震災に伴う東京電力福島第一原子力発電所の事故より既に9年が過ぎようとしているものの、原子力発電への世の中の風当たりは極めて厳しい。批判のなかには実態にそぐわないものも多数見受けられるが、現実の問題として起こってはいけない事故が起こったことは誰にも否定できないだろう。

その後、政府は『電力・ガスシステム改革』を実行し、国家行政組織法第3条委員会として原子力規制委員会が設立されるなど、日本のエネルギーを取り巻く政策的な環境は当然ながら大きく変化した。また、福島第一の廃炉作業を含め、関係者の方々の真摯な努力に胸を打たれることも少なくない。しかしながら、原子力に関しては、いまだに耳を疑うような事実が白日の下に晒されていることも事実だ。そうした状況下、今更、原子力産業新聞にコラムを書かせていただくのは、正直なところかなりの勇気が必要と思う。

もっとも、関連する業界が依然として抱える悪弊と、原子力発電の必要性は全く別の問題でもある。特に日本固有の課題は、世界第3位の経済規模を誇る一方で、エネルギー資源に恵まれないことだ。それは、経済的なデメリット以上に、安全保障上の大きなリスクに他ならない。

そのように思いを巡らせ、蛮勇を奮ってこのコラムを担当させていただくことにした。関係する皆様には不快に感じられる部分も少なからずあると推測するが、業界外部の少数意見としてご容赦いただければ幸いだ。

1. 先の大戦が教える日本のアキレス腱

1941年8月1日、米国のフランクリン・デラノ・ルーズベルト大統領は、石油の対日全面禁輸措置を発動した。日本軍による仏領インドシナ(仏印:現在のベトナム、ラオス、カンボジア)南部への進駐に対する制裁措置である。当時の日本の主な石油輸入先は米国であり、1935年は全輸入量の67.0%、1937年は74.0%、備蓄を急増させた1939年には90.1%を依存していた。この米国の厳しい制裁措置が、無謀な対米開戦に踏み切る大きな動機となったことは間違いないだろう。

ここに至る道程は少々複雑だ。日中戦争が膠着状態を抜けられないなか、石油、ボーキサイト、ゴムなどの資源を求めて、日本はオランダ領東インド(蘭印)、現在のインドネシアと交渉に入った。しかしながら、蘭印会商と呼ばれたその協議は、日本側による一方的な要求の引き上げなどから事実上決裂したのである。そこで、武力による同地域獲得の足場として、1941年7月28日、航空・港湾基地の確保を目指し南部仏印への進駐が開始されたのだ。日本側の一連の動きを重く見て、米国は、7月25日に在米日本資産の凍結令を発し、8月1日には前述の通り石油の全面禁輸措置に踏み切った。

多くの歴史書が、こうした米国による対日制裁が、日本政府・軍部にとって予想を上回るものだったことを指摘している。しかしながら、米国の立場から見れば、日本軍による蘭印への侵攻を抑止するため、対日石油禁輸措置の発動を遅らせていた。日本軍の仏印進駐が蘭印占領への準備行動である以上、最早、躊躇う理由はなかったと言えるだろう。

その後の経過は改めて詳述するまでもない。日本政府は、同年12月8日、対米英蘭に宣戦布告すると同時に、東南アジア地域への侵攻を開始した。1942年1月11日に開始された蘭印作戦は破竹の勢いで進み、2月14日には有数の油田地帯であったパレンバン(スマトラ島)を占領、3月9日にジャワ島の連合軍が降伏して終結している。当時、同地域の石油生産量は日量8万1千バレルに達しており、米国からの輸入量に匹敵するものだった。

米国政府が戦後間もなくまとめた『戦略爆撃調査団報告(“U.S. Strategic Bombing Survey on Japanese War Economy”)』によれば、1940年にけるスマトラ、ジャワ、ボルネオの産油量は合計で年間6,510万バレルであり、日本軍が占領した1942年には連合軍による設備の破壊などから2,594万バレルへと低下していた(図表1)。その後、日本側が修復に努めた結果、翌1943年には4,962万バレルへと回復している。1942年から終戦の1945年までの生産量は累計で1億1,903万バレルだ。もっとも、このうち日本へ輸送されたのは、生産量の25.2%に相当する2,999万バレルに過ぎない。現地での消費分もあるが、大半は輸送途上において損失したのである。

図表1: 第2次大戦中における蘭印の石油の生産量と日本への輸送量

当時の日本政府・軍の致命的とも言える欠点は、輸送路の確保に関する明確な戦略が乏しく、南方からの輸送船団の防御が極めて不十分だったことだ。その航路は4,000キロメートルを越え極めて長い。輸送の途上、米国潜水艦の無制限攻撃により、開戦後のかなり早い段階から商船の損失が続いていた(図表2)。さらに、旧日本海軍は、1942年6月、ミッドウェー海戦で主力空母4隻と多数の艦載機、搭乗員を失った。結果として、1943年秋以降、態勢を立て直した連合軍による本格的な反攻作戦を受け、日本の制海権、制空権は完全に奪われるなか、石油などを積載した輸送船の被害が極度に大きくなっている。

図表2: 第2次大戦期における日本の商船の損失累計

1943年5月8日、米国統合参謀本部が決定した『日本打倒戦略計画(”Strategic Plan for the Defeat of Japan”)』は、対日作戦について、蘭印地域の油田及び他の戦略物資を運ぶ日本への補給路の切断が日本を無条件降伏に導く上での重要な手段であるとしている。これは、米国が日本の弱点を十分に研究していたことを示し、事態は正にその通りの経緯をたどって行った。

具体的には、対米開戦から終戦まで、総トン数337万2千トンの商船(輸送船)が建造され、一方で883万1千トンが失われている(図表3)。その結果、開戦時に638万4千トンだった日本の輸送船は、終戦時には137万9千トンへと激減していた。

図表3: 第2次大戦中における日本の商船建造、損失、年度末保有量

商船の喪失地域を見ると、フィリピン海16.2%、南シナ海11.8%、台湾海峡11.8%、ミクロネシア海域11.5%、蘭印海域10.7%、南太平洋6.3%など、圧倒的に南方からの物資輸送ルート、即ち当時のシーレーン上が占めている(図表4)。多くの輸送船が軍部によって徴発され、物資輸送中、米軍の攻撃により民間船員、物資と共に沈没したのだった。

ちなみに、開戦前の1941年6月、海軍軍令部が作成した『現下ノ情勢ニ於イテ帝国海軍ノ執ルベキ態度』は、船舶被害について、戦争第1年目に80~100万トン、第2年目60~80万トン、第3年目70万トンとしていた。つまり、3年間の最大損失想定は250万トンだったのである。実際は、第3年目だけで411万6千トンを失い、3年目までの累計喪失は732万9千トンに達していた。

図表4: 第2次大戦中における日本の商船の喪失地域

石油を求めて仏印、蘭印へ進駐、米国から禁輸措置を発動されて無計画な戦争に突入したものの、シーレーンが日本の弱点であることを熟知する米国により、徹底して輸送船への攻撃を受けたわけだ。その結果、深刻な戦略物資の不足に陥り、国力は日に日に衰えて無条件降伏へと至った。このあまりに悲惨な経験は、無謀な戦争を日本に戒め、民主主義と平和主義をこの国に根付かせると同時に、国の構造的なアキレス腱がどこにあるのか、多大なる犠牲によって明確に示したと言えるだろう。

2. シーレーンの重要性

第2次大戦の終結から2020年で75年目を迎える。この間の日本は、「アジアの奇跡」と呼ばれる復興を遂げ、経済規模では依然として世界第3位を維持している。1990年代初頭のバブル崩壊期以降、「失われた20年」を経たとしても、国際的に見て国民生活が相対的に豊かであることは間違いない。

ただし、天然資源の多くについては、戦前同様、海外に依存せざるを得ない状況だ。例えば、石油、LNG共にほぼ100%が輸入であり、原子力発電所が稼動していた2010年でも、エネルギー自給率はわずか4.4%(原子力を自前のエネルギーとした場合は19.5%)に過ぎなかった。

2018年度の総合エネルギー統計によれば、一次エネルギー供給において、最もウェートが高かった石油が全体の37.6%を占めている。以下、石炭25.1%、天然ガス22.8%の順で、化石燃料比率は85.5%に達していた。一方、非化石燃料を見ると、再生可能エネルギー5.2%、水力3.5%、原子力2.8%である。バッテリー技術の開発、電力送電網の整備などが進むことで、再生可能エネルギーのノビシロは大きいとしても、依然として安定供給に課題があることも事実だ。

一方、地球温暖化抑止の観点から、国際社会において化石燃料、特に石炭の活用は非常に厳しい批判を受けるようになった。企業への投資に関しても、ESG(Environment=環境・Social=社会・Governance=企業統治)が極めて重視され、石炭を大量に使う企業は年金などの投資対象から外されるケースが急増している。日本は石炭火力発電において極めて高度な技術力を持ち、温室効果ガスの抑制に貢献していると説明しても、簡単に受け入れられる状況ではなくなった。

とは言え、当面、日本はエネルギーにおいて化石燃料に依存せざるを得ない。2018年度の調達先を見ると、石油の場合、サウジアラビアの38.2%を筆頭に中東への依存度が88.3%に達していた。石炭はオーストラリアが71.6%、インドネシアが11.4%、ロシアが11.1%である。また、天然ガスはオーストラリア36.6%、マレーシア12.4%、カタール12.0%、ロシア7.9%、インドネシア5.9%などだ。直ぐに気付くのは地域的な偏りだろう。ロシアを除けば、石油、石炭、天然ガスのいずれもが南シナ海を通り、東シナ海から日本へ至る航路をたどる(図表5)。天然ガスの場合、今後は米国のシェールガスのウェートが高まり、太平洋ルートからの輸入が期待できるものの、実は化石燃料の最重要シーレーンは、第2次大戦の頃と大きく変化していないのである。

図表5: 原油・LNGのシーレーン

ちなみに、日本が世界に先行する再生可能エネルギーの技術として、水素が挙げられるだろう。既にトヨタの「MIRAI」に続き、ホンダも「クラリティ」で燃料電池車を商業ベースに乗せた。最も、肝心の水素については、今のところ日本国内において低コストで大量に生産することは困難だ。当面、オーストリアの褐炭を利用するのが現実的な方法だろう。つまり、燃料電池を実用化するに当たっても、水素はシーレーン上を航行するタンカーにより日本に運び込まれなければならない。

こうした状況を把握すれば、南シナ海、東シナ海の戦略的重要性が浮き彫りになるのではないか。日本にとって避けて通れないこの海域は、中国、そして韓国にとっても同様の重要性を持つのである。マラッカ海峡ルートとセレベス海ルートが合流する辺りに広がる南沙諸島を巡り、中国、ベトナム、フィリピン、マレーシアなどが領有権を争っているのは、周辺の漁業資源の獲得だけがその理由ではないだろう。

昨今、中東情勢が不安定化していることから、石油資源の安定確保の観点において、ペルシャ湾、特にホルムズ海峡が注目を集めている。しかしながら、日本にとっては、ペルシャ湾だけでなく、インド洋、マラッカ海峡、南シナ海、東シナ海上の航路の安定と安全の確保は経済及び国家安全保障の上で極めて重視すべき課題と言える。それは、既に見てきたように、第2次大戦中、南シナ海周辺海域において日本の輸送船が大量に沈められ、国力が大きく傾いた経験により明らかなことだ。

もちろん、大戦の惨禍を経て、日本は侵略のための戦争を放棄し、寸分たりとも領土的野心を持つことはない。従って、自衛隊が保有する軍備は、専守防衛を原則とし、最小限の規模に抑制されてきた。第2次安倍政権は、2015年の平和安全法制により、集団的自衛権の行使を含めた憲法解釈の変更を行なったが、平和主義の基本が大きく変わることはないだろう。だからこそ、シーレーン上の安全定確保へ向け外交力が問われると同時に、万が一の有事に備え今から適切な準備を進めておく必要があるのだ。

3. エネルギー安全保障を守るためには

日本で東日本大震災の余波がまだ色濃く残っていた2011年8月10日、中国人民解放軍海軍は大連港で建造していた空母の試験運転を行った。この空母は、そもそも旧ソ連が建造を中止したアドミラル・クズネッツォフ級重航空巡洋艦『ワリャーグ』だ。ウクライナが保有していたところ、1998年にマカオの中国系企業が購入したものである。当初は「船上カジノに利用する」と説明されていたが、結局、大連の造船所で空母として改修された。中国海軍はこの空母を『遼寧』と名付け、2012年9月25日から練習艦として正式に運用を開始している。2017年4月には遼寧型の国産空母『山東』が進水式を迎え、さらにカタパルトを備えた国産2隻目の空母が上海の江南造船所で建造されている模様だ。

また、中国は南沙諸島に人工島を建設し、軍事拠点を設けた。フィリピンなど領有を主張する周辺国との合意を得ることなく、強硬に既成事実化を図ったものだ。空母を中心とした機動部隊、そして南沙諸島の軍事基地は、中国が海洋強国を強く意識していると推測せざるを得ない。そして、インド洋から南シナ海、東シナ海の制海権を中国が握った場合、それは日本のシーレーンが大きなリスクに晒されたことを意味する。日本に資源を運ぶタンカーの航行が妨げられれば、第2次世界大戦期と同様、日本経済は甚大な打撃を受けかねないからだ。

そうした弱点を突かれないために、日本は自前のエネルギー源を確保しなければならない。シーレーン上で船舶の往来を妨害しても、日本が困らないのであれば、誰も敢えて行動を起しはしないだろう。

天然資源に恵まれない国にとっての自前のエネルギーは、原子力と再生可能エネルギーに他ならない。この2つを適切に組み合わせることにより、エネルギー自給率を高めることは、即ち安全保障上の極めて重要な抑止力だ。それは、第2次大戦の悲惨な体験を踏まえた必然的な結論と言える。また、化石燃料の使用を抑制することで貿易収支を改善させ、温室効果ガスを削減する有力な手段でもある。

原子力を不要とする厳しい世論を前にして、その必要性を説くのは極めて骨の折れる作業だ。しかし、官民を挙げて信頼回復に努め、原子力発電の維持に努めなければ、早晩、取り返しのつかない状況の下、後悔の念で臍を噬むことになりかねない。

市川眞一  Shinichi Ichikawa

株式会社ストラテジック・アソシエイツ・ジャパン 代表取締役
1963年東京都出身 明治大学卒。投資信託会社でファンドマネージャーなどを経て、1994年にクレディ・リヨネ証券にて調査部長兼ストラテジスト。2000年12月、クレディ・スイス・ファースト・ボストン証券(現クレディ・スイス証券)にてチーフ・ストラテジスト、2010年よりクレディ・スイス証券チーフ・マーケット・ストラテジスト。この間、小泉純一郎内閣にて初代の構造改革特区評価委員、民主党政権下で規制・制度改革推進委員会委員、行政刷新会議事業仕分け評価者(仕分け人)など公職を多数歴任。テレビ東京の「ワールド・ビジネス・サテライト」への出演で、お茶の間でも有名。
2019年9月、個人事務所として株式会社ストラテジック・アソシエイツ・ジャパンを設立した。

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