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チェルノブイリ原子力発電所事故から30年――“世界の原子力安全のためのチェルノブイリの遺産”国際フォーラムに参加して(その3)

2016年6月10日

(「ゼムリャキ」代表タマラさんとの再会)
 チェルノブイリ事故炉見学の前日20日に、私はチェルノブイリ被災者市民団体「ゼムリャキ」の代表タマラ・クラシツカヤさんと面談した。今の活動について聞くためだ。キエフ駐在中にタマラさんとは何度も会って、被災者の様子やそれに対するゼムリャキの支援活動を聞く機会があった。ゼムリャキは「同郷人」という意味で、プリピャチの町からキエフ市内に避難してきた住民たちのグループが1987年に設立した。すべての避難民、事故処理作業者、子供も含む障害者、夫を亡くした女性、孤児、困窮家族などの支援をしている。事故から30年、被災者は健康を悪化させ、ゼムリャキのメンバーの多くが障害者になっていると言って、タマラさんは今の活動の中心が心身の医療支援プログラムであると述べていた。これには、日本の医師も検診や医療相談にのっている。長崎大学が原爆後障害医療研究所を中心に、長崎県や長崎市、さらに長崎県医師会の支援を得て、チェルノブイリ事故発生以降、ウクライナに延べ数百人規模の医師等専門家を派遣して被災者の健康調査をしたり、また、ウクライナの多くの医療関係者を日本に招へいして医療研修や共同研究などをしてきたことは、人道面での日本の素晴らしい貢献である。この長崎大学の経験は福島にも生きるはずだと思い、キエフ滞在中に一時帰国した際、長崎市と長崎大学を訪れ、是非、チェルノブイリ・長崎・福島の3者間協力で、チェルノブイリだけでなく、福島の被災者の健康対策も進めてほしいと依頼したこともあった。
 今年タマラさんたちは、チェルノブイリ30年・福島5年を機に、日本国内の南相馬、東京、大阪、京都、名古屋等7か所で両国の子供たちによる子供平和絵画展を開催した。東京では4月の中旬に3日間新宿の紀伊国屋書店ホールで開催され、私も家内と見に行った。チェルノブイリの子供たちの絵のテーマは「地球を救おう!」、福島の子供たちの絵のテーマは「わたしのゆめ」で、未来の地球へのメッセージだ。チェルノブイリ事故の絵の中には、ひどい火災や死と破壊を連想させるような酷さを表すものもあったが、概して子供たちの絵は色鮮やかで力強く、平和や幸せを希求するもののように思えた。タマラさんやその仲間の活動によって、チェルノブイリ被災者の子供と大人が少しでも心身の健康を回復し、未来への希望を持つことを願っている。

(チェルノブイリ事故との特別の“縁”)
 最後に、個人的なことに触れて恐縮だが、以下に述べるように私はチェルノブイリ事故とは特別に“縁”のある日本人の一人だと思っている。
2011年9月から3年余の駐ウクライナ大使の最初の重要なミッションが、福島とチェルノブイリの事故後対策の両国間協力を始めることだった。この政府間協力のための協定は、両国の政府関係者の尽力もあり、2012年4月には締結され、翌5月には発効し、その後積極的に様々な協力が進められている。我が国にとっては、チェルノブイリの事故後の措置について、いわば“成功も失敗”もすべて学び、それを福島対策に活かす必要があり、両国の協力を始めることは国家的に重要な政策課題だった。私はこのチェルノブイリ・福島協力のために、ウクライナに赴任したようなものだが、この赴任の話があったのは福島事故後数か月経った頃で、これには理由があると思われた。それは30年前に遡る。
 私は1980年代の後半にワシントンDCの日本大使館の科学アタッシェで、主に原子力を担当していた。チェルノブイリ事故が発生した1986年4月26日は、着任して10か月ほど経った頃だった。既に5月4日、5日に東京サミット開催が決まっていたことから、中曽根総理(当時)がチェルノブイリ事故に関心を寄せられ、大使館の幹部からしっかり情報収集するようにと直々に指示を受けた。きっかけは4月28日にスウェーデンの放射能測定センターが世界で初めて異常な放射能を検知したことだ。それは東側から流れてきたものと判断された。その後欧州のいくつかの地で同様に放射能が観測され、世界中が一挙に緊張状態に陥った。ソ連で“何か”が起こっている!?私はそのため、私は4月28日からサミット開始直前まで多忙を極め、頭の中は感度の高いアンテナが何本も立っているような感覚だった。当時はまだ旧ソ連の時代で、改革派のゴルバチョフ書記長が国家元首だったが、旧ソ連からはチェルノブイリ事故の情報が全く出てこなかった。このため、西側が頼れるのは米国のみと言ってもよいような状況だった。当時の米国の関係政府機関は、国務省、軍備管理軍縮庁、エネルギー省、環境保護庁、原子力規制委員会などである。大使館には私の同僚で動力炉・核燃料開発事業団(当時)から派遣されていた専門調査員がいた。彼と2人で毎日毎日、朝から夜までこれら省庁の異なる部署の担当官や上司を訪ねたり、電話をしたりして、彼らから聞き出した事故情報を電報にして東京に送った。多い時は一日10本の電報を出したこともある。当時はパソコンもなく、皆手書きなので大変だった。
 一番印象に残っているのは、ある日国務省が西側外交団を招いて、事故のブリーフィングを行ったことだ。集合場所が、国務省地下のオペレーション・センターと聞いて、ここは通常「国家的な危機」の時しか使わない場所なので、チェルノブイリ事故の深刻さを表していると思った。今でも覚えているのは、ブリーファーは7人、うち後半の4人は国務省、エネルギー省、環境保護庁、原子力規制委員会の各担当者だったが、最初の3人は何と中央情報局(CIA)の職員だった。3人のCIAブリーファーは、順に「事故の状況」、「ソ連国内のエネルギー供給への影響」、「ソ連の農業生産への影響」をテーマに説明をした。事故状況は最も基本となる情報なので当然と受け止めたが、早くもエネルギーや農業への影響を分析していることには、これが米国のインテリジェンスかと非常に驚いた。同時に米国独自の視点からの事故分析を一言も聞き漏らすまいと、かつてないほどの集中力でブリーファーを凝視したことを思い出す。私にとっては、オペレーション・センターに入ったのもCIA職員から直接話を聞いたのも、後にも先にもこれが最初で最後であった。当日のブリーフィングに日本大使館から出席したのも私一人だった。
 もう一つの我が国にとって重要な課題は、東京サミットでチェルノブイリ事故をどのように取り上げるかということだった。既に中曽根総理のご意向で、特別声明を出すことは決まっていたが、中味をどうするかである。事故を起こし、しかも事故情報を全く出さないソ連を強く非難する声明とするか、それとも別の取り上げ方があるのかという問題だった。それを左右する重要な要素が、米国がどう考えるかということだった。東京からはそれを「聞き出せ」と夜中でも電話がかかってくる。聞き出す相手は、国務省の核不拡散担当大使の首席補佐官である。東京サミットの直前に、レーガン大統領一行はインドネシアを訪れており、この首席補佐官と何度話しても、「今、ホワイトハウスはインドネシアにある。そこからの答えを待っている」と繰り返すのみであった。サミットの2日前くらいだっただろうか、この首席補佐官に呼び出されて言われたのは、「インドネシアから回答が届いた。サミットでは、ソ連を非難するだけでは何も建設的ではなく、むしろこの機会にソ連に国際社会に積極的に関与(engagement)するように呼びかけをするほうが良い。」というものだった。ワシントン時間の夜中の12時過ぎに、外務省の担当課長に電話し、米国の考えを伝えたところ、電話の向こうの声はいたく弾んでいた。2時間後に官邸で、総理を交えて特別声明の内容を検討するところだったからだ。まとめられた特別声明では、ソ連に対し、事故情報を緊急に提供することを強く求めるとともに、国際社会による事故後分析へのソ連の参加を期待すると強調し、ソ連が情報提供の責任を果たさなかったとは言及したが、それ以外に非難する言葉は一切なかった。
 その後、チェルノブイリ事故炉で6か月かけて石棺が建造され、事故沈静化のために現場で作業を余儀なくされた31名の消防士が急性放射線障害で亡くなり、また、コラム(その2)で述べたように2つの多国間条約が発効したことは承知の通りである。G7やロシアなど世界が今日までチェルノブイリ事故の安全対策、新シェルター建設、被災者支援に力を尽くしてきたことも過去30年の歴史である。30年前にワシントンDCの中をチェルノブイリ事故情報を求めて走り回っていた頃は、将来ウクライナに駐在し同発電所の現場を訪れることになるなどとは夢にも思わなかった。そのきっかけとなったのが福島事故である。振り返れば役所への就職に当たって、原子力の仕事をしたいとは思ったが、まさか2つの大きな事故に関わるとは思わなかった。しかしこれこそ“縁”というものだろう。

(ウクライナと日本は協力しながら目標の実現を!)
 チェルノブイリの今が福島の25年後というわけではない。両者は、事故の態様、事故処理対策、周辺環境、被災者の考え方、国力、政策等において違いがある。例えば、チェルノブイリは過去30年間、30km圏内が立ち入り禁止になっているのに対し、福島は時間の経過に伴い居住制限区域を計画的に解除し、福島事故炉周辺の町の復興実現を目指している。従って、今後の廃炉などへの取り組み方にも違いがあるだろう。しかし、事故による人々の生活やその周辺環境への影響を最小化し、人々の健康を守り、安全・安心で活力ある社会を創らねばならない目標は共通である。それが10年後なのか、20年後なのか、50年後なのか、今ははっきりとは分からない。望むことは、ウクライナと日本が協力しながら、早い時期に是非その目標を実現してほしいということである。
                                (2016年5月31日 記)