[原子力産業新聞] 2001年11月22日 第2113号 <4面>

[わたしの軌跡] 佐々木史郎 (4)

福島に見えた希望

原子力の基礎研究とともに、日本原子力研究所では沸騰水型実験動力炉 JPDR の建設が進められ、民間では東海1号炉の建設が行われるようになった。東京電力からも多くの人達がこれらの工事に参加した。しかし、原子力のスローダウンのため、東京電力で何時、1号機の建設が始まるのか全くわからなくなってしまった。

このような状況のなか、通産省の原子力発電所安全基準委員会は、安全基準のほか原子炉の安全評価と立地にかかわる問題についても議論を行い、1961年、第1次報告書にこれらを取りまとめた。この報告書の原子炉立地の安全についての考え方は、アメリカの立地基準とともに、1964年に原子力委員会決定となった原子炉立地審査指針の基盤となっている。

当時の議論では、リスク/ベネフィット、災害期待値、確率論等原子炉安全に関する考え方が取り上げられ、原子炉の安全のフィロゾフィーを求めて真摯な努力が重ねられた。このプロセスと成果が指針の具体化にあずかって力あったことは言うまでもない。

現在、高レベル放射性廃棄物の処分地の立地について、いろいろな角度からの手立てが講じられつつあるが、原子炉立地の例にならい、納得の得られる廃棄物処分の安全のフィロゾフィーを最初に固め、次に具体的安全基準を作成していくことが望ましい。

1963年、日本原子力産業会議 (翌年からは原子力安全研究協会) が科学技術庁より委託を受け、軽水炉の後備安全防護装置 (炉心スプレーおよび格納容器スプレー) の小規模模型による3年間の実験研究を行うことになった。脇坂清一 (故人) 原子力発電課長は、「軽水炉を日本に導入する時、事故時の安全確保のため後備安全防護装置の機能の実証が必要である」として、東芝、日立に炉心スプレー、三菱に格納容器スプレーの実験を引き受けてくれるよう説明し、内田秀雄東京大学教授 (当時、現原子力安全研究協会理事長) を委員長とするSAFE (Safety Assesment for Facility Establishment) プロジェクトを発足させ、その運営に努力した。私は事務局幹事として東奔西走の日々を送ったが、3年後には研究成果として「軽水型動力炉の後備安全防護装置の研究」 (1966年6月) という報告書がまとめられた。この数年後に日本原子力研究所の ROSA 計画が発足した。

後に「アメリカの LOFT で高圧注水がうまくいかなかった」とのニュースで、「軽水炉は欠陥炉」の報道騒ぎが1971年に起こり、ECCS の重要性が一般にも認識されるようになった。

社内では、夫沢地点をモデルの1つにした発電所建設計画等を検討した第4期研究を最後に、東電原子力発電協同研究会が1962年に解散し、夫沢地点関係業務を除くと、火力にいる先輩が言った「本ばかり読んで」が主な仕事になってしまった。放射線管理、防災など原子力発電所で必須の業務も関係部課から「原子力は研究段階だから」と準備作業への協力を断られるなど、先の見えない暗澹たる日々が続いた。

長い暗いトンネルの出口の光が見えてきたのは、アメリカのオイスタークリーク原子力発電所計画の発電原価4ミル/kWh が発表された1963年頃からであった。1964年、東京電力は夫沢地点を取得、原子力発電準備委員会および福島調査所を設置し、準備作業を開始した。翌年設置された原子力部で福島1号炉 (沸騰水炉) の設置許可申請の準備が始まった。

当時のことを回想するたびに次の言葉を思い出す。

「希望というものはあるとも言えるし、ないとも言える。それは地上の道のようなものだ。もともと地上には道はない。歩く人が多ければ、そこが道になるのだ」 (魯迅)

(おわり)

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