[原子力産業新聞] 2002年1月31日 第2122号 <2面>

[寄稿] わたしの軌跡 原 禮之助(3)

バーナード・オキーフ、一般的知名度は皆無である。しかしその一生は、核兵器の開発と共に歩み、核実験に参加した企業イージーアンドジー社の創立者の1人として歴史に残る人物だ。

腕時計の会社の多角化を担う

1969年、長年お世話になった原子力分野を去り、腕時計を中核事業とする会社に就職し、多角化を担当した。アメリシウム241を線源とした"ケイ光X線メッキ厚測定機器"を開発、この事業化のため1971年に「科学機器事業部」が発足した。

X線のエネルギー分光なら是非、半導体検出器の技術を導入したい。同分野のリーダー、オークリッジの"オルテック社"を1972年に訪問した。かつての厳重な雰囲気はなく、普通のアメリカの街になっていた。

当時の社長のトム・ヨーント--「ライセンスはしたくない。契約切れの後、日本企業は強力なライバルになる。合併なら考える。親会社の"イージーアンドジー社"とやったらどうだ」

イージーアンドジー社--相互理解・信頼はビジネスの基礎

マサチューセッツ工科大学の3人の教授、エジャートン、グリア、ジャームスハウゼンが、原爆の瞬間撮影に使われたストロボを開発、そのための製造会社が1947年に設立された。"イージーアンドジー(3人の頭文字)社"である。その後同社は、核実験に参加、政府のコントラクトを主体に発展した。

1973年、ボストン郊外ウェルズレイの本社を訪問し、社長のフリードと会長のオキーフに会った。私の説明に耳を傾けた後、「御社の事業計画は良く分かった。ただ時計事業と放射線計測器事業は、本質的に異なる。先ず製品の販売から入ったらどうだ」「当社は、短期的な付き合いはしたくない。双方の会社の相互理解・信頼が基礎となる。先ずそれを作ることだ」。こうして1974年4月からオルテック社製品を科学機器事業部が扱うことになった。そして1983年には合併会社「セイコー・イージーアンドジー社」の設立にこぎつけた。販売契約からほぼ10年の月日が流れていた。以来20年、同社は放射線計測の中堅企業に成長した。

バーナード・オキーフ--核兵器との半生

会長オキーフと親しくなって数年、ボストンのクラブで2人きりの昼食の際、「広島、長崎の原爆は私がテニヤンで組み立てた。広島は濃縮ウラン、長崎はプルトニウムだ」とオキーフ。

「日本が降伏文書に調印した日、テニヤンから厚木に飛んだ。東京は一面焼け野原だ。広島、長崎も空から視察した。その惨状、当時の心境を表す言葉は無い。仁科博士にも会った。誰もが疲れ切っていた」。

オキーフは核兵器開発と核実験の詳細を記した著書"核の人質たち"(日本語訳は絶版)の中で、広島、長崎に関し、「たった数週間前、テニヤンで私が手にした一片の金属片と、この悲惨極まりない現実の間に密接な関係がある。このことにどうしても実感がわかなかった」と述べている。

"核の人質たち"の邦訳にあたり、核兵器開発の詳細を語ってくれた。

オキーフの逝去とイージーアンドジー社の再出発

1989年オキーフはこの世を去った。その前年1988年6月、セイコー・イージーアンドジー社の総会の折来日。パレスホテルでの昼食会の後、皇居広場を眺め、しみじみと「ここにテントを張って生活し、ジープで焼け野原の東京を走り回った」と語ったのが印象的であった。これが最後の訪日となった。

1995年の核実験の禁止は、イージーアンドジー社に大きな影響を与えた。旧経営陣に代わって新しい経営陣は成長分野に進出、積極的に企業買収(M&A)を行った。計測・分析機器の名門パーキンエルマーの分析部門を買収し、社名もパーキンエルマーに変えてしまった。オキーフの逝去から10年、"イージーアンドジー"の名前も消滅し、会社は新しい出発へと踏み出した。

オキーフに源を持つ旧イージーアンドジー社とセイコー・イージーアンドジー社、今後この2社がどのような発展を遂げるか、興味は尽きない。(つづく)


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