[原子力産業新聞] 2002年2月7日 第2123号 <2面>

[寄稿] わたしの軌跡 原禮之助(4)

大学と原子力の分野で仕事をしたお陰で、指導的立場の方々に親しく接し、その教えを受けることができ、大きな影響を受けた。

木村健二郎、斎藤信房両先生の下で人生スタート

1946年大学を卒業した。家業が製薬なので薬学科に学んだが、科学機器の勉強のため卒業後理学部無機化学の研究室にお世話になった。教授は木村健二郎先生、助教授は斎藤信房先生。木村先生は戦前コペンハーゲンのボアーの下で研究され、仁科芳雄先生と親しい、文字通り放射性元素、稀元素の権威であった。終戦直後の大学の研究室、苦労して入手したアトミックパイルの論文−フェルミがシカゴ大学で行った最初のウラン連鎖反応−、いつかこうした仕事をしたい。貧しい中でも希望に燃えていた。

1950年、戦後初のアイソトープ・アンチモン125が米国より仁科先生に寄贈され、木村研で研究に使うことになった。当時の理研に赴き、仁科先生からこのアイソトープを受け取り、化学教室の内庭で斎藤先生の指導の下、缶を空けアイソトープを硝酸に溶かした。放射性同位体を扱う初の体験だった。実際の作業は斎藤先生と私が行ったが、作業終了後当時の分析化学の助手、垣花秀武教授が全工程を再現、これが正式な記録として写真に残っている。

人生の出発点を木村、斎藤両先生の下で送ったことは、学問の面のみでなく、人生観においても私の一生に決定的な影縛を与えた。

再び向坊先生と仕事

5年間の米国生活を終え1956年、原研に就職、コールダーホール調査団の雑用係、JRR-1の臨界の仕事を経て、物理化学研究室の設立に参加した。その後、名大、京大、筑波大等に教授として転出された錚々たるメンバーが集まった。「向坊先生を室長に、大島恵一先生にもお出でいただこう」お二人に東大と兼任で来ていただいた。研究指噂は、内藤圭爾(名大名誉教授)、辻本重男の両博士に全面的に依存した。

それから半世紀近く、今でも向坊先生を囲み、時折集まる。集まる度に、旧物化の方々は言う。「原さんのたった一つの功績は、将来の東大総長、原子力委員長代理を室長として連れて来たことだ。それ以外は何もない」これほど的を射た評はない。

嵯峨根先生より学ぶ

1957年当時の原研副理事長、嵯峨根遼吉先生には鍛えられた。「君たちが作った原子炉、誰が買う。実績のない物、誰も買いませんよ」自主開発論者をカッとさせる先生の現実論だ。先生の持論はどこから来たのか?先生の東大時代の愛弟子に(株)アルバック(旧日本新空技術(株))を終戦直後設立、世界企業に育てられた林主税博士がおられる。林博士と初期の日本真空技術の経験が先生の意見に大きな影響を与えたに違いない。林先輩に訊ねてみた。「嵯峨根先生と私は、お互い大きく影響し合いました」

橋本学校−現代経営の原点

原研に入所してすぐ日本原子力の「生みの親」の1人、橋本清之助先生に紹介された。先生は若い人を集め、議論するのが好きだった。反対派の意見も聞かれる。「ジイさんのところに集まろう」が若い人の合言葉となった。こうして森一久原産副会長はじめ多くの有能な人材が橋本学校から育った。

現在の経営は、現場と若い人の意見を聞く、批判的な顧客の声に耳を傾ける、人材を育てる−。橋本学校に現在の経営の原点を見る。

忘れられない講演−リーゼ・マイトナーのウランの核分裂

IAEAには1959年から1969年まで10年間勤務した。事務総長はエクランド博士。「原子力は科学に基礎をおく。科学を忘れてはならない」と物理学者らしいエクランド博士。同氏から受けた数々の指導のうち、一流科学者の講演の事務全般を任された。その中で、印象的な1件を記す。

ウランの核分裂の発見で、ノーベル賞を受賞したハーンとシュトラスマン、この他もう一人、スウェーデンに移住した実験助手リーゼ・マイトナーの存在があった。「なんとか元気なうちに彼女の話を聞かせたい」姪に付き添われ車椅子でウィーンのIAEAの講堂に現れたマイトナー女史、「エクランド博士のたってのお願いで参りました」最後の力を振り絞っての講演は、ウランの核分裂を体験した者のみが知る真実に溢れ、聴衆に深い感銘を与えた。そしてこれが彼女のこの世における最後の旅となった。

結語

以上指導を受けた恩師、先輩には、洋の東西を問わず、共通点が見られる。高い理想、包容力、公平さと清廉な人格、こうした方々の教えを受けたことと、自分自身こうした人格の持ち主になったかということは全く別間題だ。残された人生少しでも恩師・先輩に近づくよう努力したい。(おわり)


Copyright (C) 2002 JAPAN ATOMIC INDUSTRIAL FORUM, INC. All rights Reserved.