[原子力産業新聞] 2002年4月11日 第2132号 <4面>

[わたしの軌跡] 渡辺卓嗣(1)

プロローグ

2002年正月、横浜市の山下埠頭に停泊している海洋科学技術センター所属の大型海洋地球研究船「みらい」に、東機関長を訪ねた。原子力船[むつ」が原子炉出力100%で太平洋を全力航行していた時の原子炉主任技術者で、原子力船が最後にキラリと光った時の仲間の一人だった--。

ナショナル・プロジェクトの一つとして、産学官協同で取り組むことになった「むつ」。その建造と運転に参加し、「みらい」への改修に携わり、そして下北半島の関根浜の元母港の丘に建設された「むつ科学技術館」で原子炉と再会した彼女との40年に渉る航跡をたどる。

原子力船に直接係わったのは、原研での原子炉研修一般課程を修了した1964年10月に逆上る。東京霞が関の官庁街に近い港区琴平町の船舶振興ビル6階の日本原子力船開発事業団に、航海訓練所から造船部 造船課の機関担当技師として出向した。

事業団法のなかに、業務範囲が明示されていた。(1)原子力船の開発のために必要な研究および調査を行うこと(2)原子力船の設計、建造、運航を行うこと(3)原子力船の乗組員の養成訓練を行うこと--など。昭和30年代の意気込みが盛り込まれていた。

世界中で稼働する原子炉の中で数100にも及ぶ数の舶用炉が、日本に一基もない現状、アラビア海に出動の護衛艦の主機関の大半はガスタービンであろう。現地で長期に活動している先進国艦船の半数以上は原子力船なのに--。

原子力第一船の建造

1965年、既に原子力第一船の建造仕様書は作成されていた。それを基に建造の競争入札をしたが造船所の応札がなく、建造船価を低減するための仕様変更が初仕事になった。

仕様書から機関関係で最大の目玉だった制御用計算機を削除したが、後に三席一等機関士や機関長で乗船した時に、機関室の二次系機器(主機や主発電機、SGへの主給水ポンプ等)の操作の大部分が現場手動のため苦労した。

機関室内の機器操作は最後まで人力頼りの、「原子力船」ならぬ「原始力船」のままだった。格納容器内と原子炉補機室の機器を一次系機器と呼称し、機関室のSG給水加熱器は、二次系機器と呼んでいた、船・炉分離契約の遺産だ。

(その後海洋観測船が、特殊貨物船に変化し、船首部に2つの貨物倉と船尾部機関室補助ボイラーの上に第三船倉のある船になった。)

その頃の思い出の一つに船体色の決定がある。三菱重工横浜造船所から出向の大井造船部長から全課員に「船体の色は何色?」「明日迄に絵を描いて持ってこい」と声がかかった。

原子力船は、化石燃料を燃焼しないのが特質のため、基本設計の段階で外観上煙突をつけない計画だった。他の船との衝突を極力避けるため、昼夜・天候に関係なく識別しやすい色、整備保守に手間のかからない色、世界に一隻という色等考えれば考える程迷路に入っていた。翌日持参したのは、白地に企色のストライプ一本の絵と薄緑色に黄色のストライプの絵。もちろん即座に却下された。

結局、原子力船「むつ」は、独特なチェリーグレーの船体色にアンダーバストに白線一本の特色ある容姿になった。

上甲板より上の構造物は白で、船橋構造とレーダーマスト、原子炉室上部のハッチカバー、制御室と補助ボイラー用の煙突(外形的にはクレーン用のブーム塔を装う)が浮きだつ様に、上甲板と天板は濃緑色、彼女の斜め前上方からのカメラアングルが、最高の容姿になり、たとえ21世紀を航海していても恰好いい船になった。(つづく)

元原子力船「むつ」機関長、元航海訓練所次長。1957年運輸省航海訓練所入所、64年日本原子力船開発事業団に出向、72年「むつ」一等機関士、80年日本原子力研究所「むつ」機関長、93年航海訓練所次長、96年日本海洋科学振興財団「むつ科学技術館」副館長


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