[原子力産業新聞] 2002年4月18日 第2133号 <6面>

[わたしの軌跡] 渡辺 卓嗣 (2)

「むつ」研造から進水へ

神奈川県の横浜市に断られて、核燃料の交換施設等を備えた原子力第一船の母港を何処にするのか、建造契約を前に決定をせまられていた。

1967年の秋、母港建設候補地の1つになっていた下北半島に出張した。旧日本海軍の社交クラブ水交社だった木造二階建ての大湊ホテル (保存措置がとられた) に約2か月滞在し、「原子力第一船の母港を大湊に」とPR活動 (当時はPAとはいわなかった) をした。

原船団の西堀栄三郎理事 (第一次南極越冬隊隊長で有名、故人) と原子炉部主任技帥の阿部進さん (元東芝専務) と一緒に、地元の公民館や集会所等に赴き、映写機とサバンナ号の8ミリ映画を持参し、原子力船や原子炉の説明会を開いた。

青森駅前のメインストリートに面した自治会館の2階で、県知事受け入れ発表があった日も参会していて、その質疑応答を必死に記録していた。暗がりでのメモに、何か書いてあるのか本人は読めず、翌日の東奥日報の紙面に納得していた。

1967年11月、原船団は船体部を石川島播磨重工業 (IHI) と、原子炉部を三菱原子力工業 (MAPl) と原子力第一船の建造契約を締結した。

契約と同時に IHI と MAPI 両社から提出される多数の図面と打合せ覚書等の承認返却作業に苦労した。当時躍進する花形産業の1つであった造船所。優秀な設計技師達が最新の情報と、経験に裏付けされた知識と技術を持って説明にきた。

現場育ちの機関士は冷や汗をかき続けていかが、機関長で「むつ」に乗船して運転の総指揮を執る時、非常に役立った。

起工式も終わり、建造工事中は機関と電気の建造監督も兼任していた。IHI 以外の造船所等から出向していた、品質管理を専門にする検査技師の識見や技能にいつも感心して付いて回っていた。この後、鉱石運搬船ボリバー丸の海難事故が発生したが、「むつ」の建造検査をした時のことを考えて信じられなかった。

格納容器の下の格子状に組まれた耐座礁構造の溶接線の検査にも立ち会ったが、小さな狭いマンホールを体をくねらせながらの仕事になり、工事施工者側の苦労もすごかったが、検査をする側も閉所恐怖症に悩まされた。

1969年、「むつ」の進水式には、皇太子、皇太子妃をお迎えした。美智子妃殿下の支綱切断した船体が、東京湾に浮かぶのを船台の片隅から見つめていた。

美浜1号機で研修

造船部から運航準備室に配置替えになり、福井県の関西電力美浜原子カ発電所1号機 (日本で最初の PWR 型の原子力発電所) の機能試験に原船団から参加した。

1970年、IHI 東京第二工場で SNo-2107番船が艤装の最終段階に入り、「むつ」には、艤装船員が着任していた。予備船員候補者も含め各船会社から優秀な人達が出向してきていた。

原船団と原子炉 (一次系機器、核燃料等) を製作する MAPI の上層部の考えが一致した結果だと思うが、WH 社が主契約、三菱重工業 (MHI) が副契約社で建設中の、美浜発電所1号機の研修生になった。

臨界前の温態機能試験が近づいている殺気だった現場に、50代の何でも見てやろう、聞いてみようと、右も左もわからない6人の研修生が飛び込んだ。そのうち3名が船舶機関士で乗船予定の者で、その中の1名は原子炉主任技術者の資格を持っていた。

我々に与えられていた命題は、「むつ」の燃料装荷、機能試験、臨界試験、保健物理、放射線管理、放射性水ガスの管理、出力上昇試験、核燃料管理等をそれぞれの専門分野の視線で捉え、実力と実践力を培ってくることだった。

最初の2週間は、文献、図面、配管系統図等を借用し運転課の机を占領して基礎知識を頭に詰め込んだり、制御室や格納容器内の見学で時間が過ぎた。運転課の人達は昼飯以外、朝早くから夜中まで自分の席を温める暇はなかった。

既に当直体制を組んでいたので、直長と直次長の何人かは入直前にちょっと顔をだすが質問を聞いてもらえる様な雰囲気になく情報収集ができない状態だった。

(つづく)

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