[原子力産業新聞] 2002年4月25日 第2134号 <6面>

[わたしの軌跡] 渡辺 卓嗣 (3)

美浜1号機で研修1か月

花見が終わった頃、運転課長から原船団組に、「毎日なにもしないでいるのも退屈してきたやろ。ガス系統のサンプリングラインの夏空ポンプが安定せんのや。何とかならんやろか?」と声がかかった。

渡りに船と飛びついた、機械屋、電気屋、制御計装屋、物理屋が揃っていたので早速検討を開始した。

図面を調べ、現場のサンプリング室や真空ポンプ配管系統を見て回る。現状を担当者や当直員に聞いてまわった。2日後に見当がついてきた、原因、結果、対策等をまとめて提出した。

その結果、「お荷物やなあ」が「あいつら使えるよ」に変わったのだと思っている。

ある日、技術課の女子職員が大量のコピーを焼いていたが、それはその日、WH社から届いたばかりの運転マニュアルらしい事がわかった。

早速、技術課に参上し、入手かたをお願いした。「これはだめ。大金で購入したから」と剣もほろろ。原船組組長と宮本美浜原子力発電所長のデスクに向かった。

対応頂いたのが、藤井源太郎副所長 (平成2年まで関西電力の専務取締役 故人)「一冊一週間だけ貸そう」。そのかわり和文抄訳を出せと言われた。

A4、300頁になる資料である。2人で顔を見合せたが何とかなるさと借用証を提出した。それぞれの専門分野別に分担を定め、5日で予稿を上げることで作業に取りかかった。

朝8時から夕方4時迄は運転課の机で、下宿に帰ってからは夜中の2〜3時まで、青焼きの酸っぱい様な臭いと格闘した。7日目に抄訳といっても全訳に近い100頁強の和文と引換えに借用証を返却してもらった。

この事があってから、それまで貸してもらえなかった技術文献も適宜借用出来るようになり、現場の直長や直員の方々と打ち解けて話が出来るようになった。

「むつ」に乗船

1972年2月に、大湊母港で原子炉の艤装工事が終わった「むつ」に、運転担当三席一等機関土で乗船した。

家族達は住宅の裏山をゲレンデと呼び、スキーを楽しんでいたが、新米一等機関士は、原子炉に核燃料や中性子源装荷作業に立ち会ったり、冷態 (常温常圧) での機能試験や温態 (原子炉内の冷却水の圧力・温度を、加圧器内の電気ヒーターと主冷却水ポンプを運転して運転中と同じ110kg/平方cm・278度にした状態) での機能試験を、船内に泊り込みながら実施していた。

初めての原子炉冷却水の昇温昇圧の時には3日連続の徹夜になり、当直長や直員は4時間毎に交代するが、運転担当一等機関士は交代がいない。自分で作った操作手引書を片手に緊張の連続だった。温態維持状態になった日の朝、船内の士官サロン (当時は食堂として使っていた) で食事をした後、ソファの上でダウンしていた。

機関長で再乗船した時に、この作業から始まるとは、神のみぞ知る事だったし、士官サロンは応接間に模様替えされ、船長以下乗組員全員が第二甲板の食堂で食事をとる様になっていた。

1973年、出向期間が造船部技師、運航準備室主任技師、一等機関士と9年にもなっていた。

本業である船員教育の仕事に支障がでると復帰命令が出て、大湊母港に係岸している「むり」に背を向けた。

後任の運転担当一等機関士は、同じ航海訓練所から原子炉部に出向していた富山栄一さん (故人) が乗船した。初臨界、放射線漏れ、漂流を経験し、その後原船団での仕事を続ける道を選び、「むつ」に情熱を傾けた方だった。

ナショナルプロジェクトと呼ばれながら期限立法という制約のために、原船団は外部団体企業等からの出向者が主軸になって運営されていた。

原子力船「むつ」が悼尾を飾れたのは、若くして団職員に転職した人、学卒と同時に就職した技師や船舶機関士、地元むつ工業高校出身の人達のお陰だと思っている。

この人達が、次々に交代出向してくる上司のもとで、逆風をものともせずに懸命に努力を続け、「むつ」について高い技術力と経験を積み技術を伝承していた。

(5月16日号につづく)

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