[原子力産業新聞] 2003年10月2日 第2204号 <3面>

[シリーズ] 日米再処理交渉の舞台裏(上)

【ワシントン9月23日共同】1977年当時、核不拡散政策の一環として、動力炉・核燃料開発事業団の東海再処理工場の稼働に待ったをかけたカーター米大統領が決意を翻したのは、着任したばかりのマンスフィールド駐日大使(故人)が「日米関係の将来に深刻な悪影響が出る」と説得した結果だったことが、このほど秘密解除された米政府文書などから明らかになった。

 「妥協を急げ」という大使からの機密公電を大統領自身が直ちに検討。「サイ(バンス国務長官)へ。マンスフィールドには、わたしが個人的に妥協決定を急ぐと伝えよ。急いで選択肢を示すよう、彼から福田(赳夫首相)に言ってもよい」との大統領の走り書きが公電の余白に残り、当時の生々しいやりとりが初めて公になった。

 ドン・オーバードーファー元ワシントン・ポスト紙東京支局長が、このほど出版した伝記「マンスフィールド上院議員」の執筆に際し、情報公開申請して秘密解除された米政府文書や、関係者インタビューから経緯の詳細が判明した。

 公開された多くの対日関係文書からは、経済大国として力をつけた日本を、カーター、レーガン両政権が、親日家の大使の助言を受けて、政治、安全保障も含め極めて重要な同盟国として扱い出していく様子が浮き彫りとなっている。

 77年に発足したカーター政権は同年4月、軍事転用の恐れのない核燃料サイクル研究促進など、不拡散を重視する7項目の新原子力政策を発表。地元の反対などに遭いながら完成間近だった動燃の再処理工場にも、核兵器の原料となるプルトニウムが抽出されることから、表向きは「非経済的」との理由で反対した。

 大使はこれに対し、問題は日米関係の将来を揺るがしかねないとみて着任翌月の同年7月、@英、フランス、西ドイツ(当時)には再処理を認めながら、日本を信頼しないような対応はまずいA日本が「死活的」と見るエネルギー事情に配慮すべきだ−−などと訴え、大統領に「妥協」を促した。

 大使のカーター大統領への直言がなければ、その後の日本の核燃料再処理を含むエネルギー政策の展開は大きく変わっていたか、または遅れていた可能性もある。

 再処理工場問題が起きた翌年の1978年10月に大使が帰国、カーター大統領と懇談した際の米国家安全保障会議(NSC)の速記録も秘密解除されたが、その中で大使は「(核)爆弾を欲しがらない国が1つだけあるとすれば、日本だ」と断言、日本への信頼を強調している。

 大使の説得の背景には、石油危機を受け「死活的」と見なすほど深刻だった当時の日本のエネルギー不安と、それに同情する大使の心情があったことが公開文書からはっきりと読み取れる。(次号に機密公開された文書の概要を掲載予定)


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