[原子力産業新聞] 2004年2月5日 第2221号 <3面>

[レポート] KEDOでの経験から学ぶ(上) 遠藤哲也氏(前原子力委員長代理)

 昨年11月21日、朝鮮半島エネルギー開発機構(KEDO)理事会は、北朝鮮での軽水炉建設プロジェクトを、12月から1年間、「停止」することを決めた。2002年10月、米国が北朝鮮によるウラン濃縮計画を公表し、同年12月にはKEDO枠組みでの重油供給を停止、昨年夏頃からは軽水炉建設も滞っていた。このような事態に至った背景と得られた教訓を、KEDO創設以来、外交官としてこの問題に深く関わってきた遠藤哲也・前原子力委員長代理に、2週にわたって解説していただく。

はじめに

 KEDOは、2003年12月1日より1年間その活動が凍結されている。1年後にKEDOがどうなるかは6者協議の帰すうに大きくかかっており現時点では予測し難いが、少なくとも目下は仮死状態にある。

 言うまでもなく、KEDOは北朝鮮の核開発をめぐる「第1次危機」への対応として締結された1994年の「米朝枠組み合意」に基づいて、日米韓3か国を原加盟国として設立された国際コンソーシアムである。私事になるが、私はこのKEDOの設立の頃からこれに直接関与しており、KEDOのいわゆるfounding fathersの1人である。従って、KEDOに対する評価にはいささか甘くなる嫌いがあるが、以下にKEDOの評価およびKEDOの経験から何を学ぶかの2点について個人的な見方を述べてみたい。

KEDOの評価

 (1)KEDOに対しては、当初からいろいろと批判があった。その最たるものは核不拡散条約(NPT)に違反し、IAEAとの保障措置協定を守らなかった北朝鮮に対し、(もっとも北朝鮮の方は、保障措置協定を恣意的にかつ不公平に解釈しているのはIAEA側であるとしている)長期無利子・借款によって、100万キロワットの2基の原子炉を建設し、建設完了までの間、年間50万トンの重油を供給するのは、悪い者に飴を与えるようなもので、今後の悪い先例になるとの批判であった。確かに、KEDOにそういった点があったのは事実だと思う。

 (2)しかしながら、1992−94年のあの時点で、北朝鮮の核疑惑に対して他にどのような有効な対処方法があっただろうか。

 例えば、北朝鮮の原子力開発センターの寧辺(ニョンビョン)への空爆は可能であっただろうか。中国、ロシアの当時の消極的な態度に照らし、国連安保理での対北朝鮮制裁は可能であっただろうか。また、国連の枠外で「有志連合」による経済制裁というオプションにしても、北朝鮮と長い国境線を持つ中国が制裁に参加するのでなければ、実効を期しがたい。

 このような状況を考えると、あの時点では、この枠組み合意とそれに基くKEDOによる対応策が、現実には唯一の可能なオプションではなかったかと思う。(12日号に続く)


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