[原子力産業新聞] 2007年1月5日 第2361号 <12面>

日本核武装論と日米原子力協定 遠藤 哲也・元原子力委員長代理 「核武装論は現実的な政策オプションでない」

北朝鮮の核実験に触発されて、日本核武装論が盛んに取りあげられているが、これは古くて新しい問題である。古いところでは、米ソ英仏中の5か国が核兵器国になって以降、次に来るのは日独ではないかとの疑惑が強く、国際原子力機関(IAEA)の創設(1957)も核不拡散条約(NPT)の採択(1968)も背景の一つにはこの両国が念頭にあった。実際にIAEAの保障措置は、査察官、予算の点で日独に大きなウェイトが置かれて来た。

このように、日本核武装論への懸念はかねてから抱かれていたが、最近一層強くなって来たように思われる。その背景として例えば次のような諸点があげられる。一つは、日本は自前の核燃料サイクルを積極的に進めているが、再処理は経済的にも割高で、かつプルトニウムはプルサーマルで利用するといっても思うように進んでおらずプルトニウムは六ヶ所村の再処理工場が本格運転に入ればますます貯まる。日本の本音は、将来の核開発に備えてではないかという見方である。二つ目は、日本は安全保障上、米国の「核の傘」の下にあるが、これは本当に信頼できるものだろうか。行動が予測困難な北朝鮮の核保有という現実に直面して、自主防衛のため日本としては核武装の必要性を痛感しているのではないかとの見方である。三つ目は日本のような経済大国が軍事大国になり、軍事大国が核を持ちたくなるのは至極当然との「決定論」的な見方である。

また、最近日本国内では要人の間から核武装論が盛んに取りあげられている。その多くはまずは核武装の是非をしっかりと論ずることが大切であるとの建前をとっているが、本音の方は核武装論推進という衣の下から鎧がのぞいているのではないかとの見方である。

海外からの疑惑はともかく、日本の核武装は現実的なオプションなのだろうか。日本は、若干の時間をかければ核開発は技術的には可能であろう。ただ、国民の間に核アレルギーが非常に強く、民主的な日本では秘密裡に核開発を行うことは到底不可能で、公然たる核開発しかない。そのためには非核三原則、原子力基本法など現在の基本政策および法体制を根本的に変える必要がある。

日本の核開発は国内的には以上の通りとしても国際的に可能であろうか。わが国の原子力利用は国際的な核不拡散体制にしっかりと組込まれていて、日本が核開発に踏出すためにはNPTからの脱退(NPT第10条)、二国間については日米原子力協定をはじめ加、豪、英、仏等との協定から離脱することが必要である。何故ならば、これらの協定はいずれも名実共に平和利用を目的としているからである。日本がNPTから脱退するようなことがあれば、その影響は北朝鮮の場合どころでなく、NPT体制の崩壊を招きかねない。

二国間協定については事態がもっとはっきりしている。ウランの供給は完全に途絶される。日本の原子力活動と切っても切れない関係を持つ日米原子力協定は効力が停止され(協定第12条および実施取極第2条)、日本の原子力活動はほぼ中止に追込まれる。

米国の一部には、日本の核武装容認論者がいるかも知れないが、米国政府、米国全体としては日本の核武装はおろか、日本の再処理、濃縮に対しても極めて神経質である。かつての東海再処理工場の運転開始の経緯や現行の日米原子力協定交渉、および批准の際の経緯を振り返ってみればよい。当時筆者は日本側の代表として米国の厳しさを身をもって体験している。その日米協定も遠からず期限(2017)がくるが、せっかく手に入れた事前包括同意が引続いて認められるよう、また、日本国内での核武装論が日米原子力関係に悪影響を与えないよう、心から望んでいる。日本の核武装は、原子力分野に限っても破滅的なインパクトを及ぼす。核武装論は現実的なオプションではなく、空しい政治的願望である。

日本核武装論に対して、国内の原子力関係者から声が挙がらないのは不思議である。原子力平和利用の番人といわれる原子力委員会からのコメントも、筆者は聞いていない。この話はすでに議論済みで決着がついているというのかもしれないが、沈黙は決して金ではない。原子力界ははっきりと科学的、技術的に基づいて物を申すべきであろう。


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