[原子力産業新聞] 2007年2月15日 第2367号 <4面>

シス懇例会 大山彰氏が特別講演 歴史認識の重要性指摘

原子力委員長代理などを務めた大山彰氏が、原産協会の原子力システム研究懇話会(内藤奎爾・運営委員長)の1月定例懇談会で、「原子力ルネサンス雑感」と題して講演した(=写真)。

大山氏は東京大学助教授時代の55年に米国アルゴンヌ国立研究所が開校した“原子炉学校”に参加した経験や、旧動力炉・核燃料開発事業団の理事時代に、77年の米国カーター民主党政権誕生による我が国への影響などについて、歴史の順序に従って振り返った。

大山氏は以前、英国人の知人と話をしていたとき、英国の中央官僚の中には意外と歴史の専門家が多いという事実を聞き、“歴史を知らないと、国を危うくする”との思いを強く抱いたと述べ、今回、原子力開発の歴史を自らも振り返ってみた、と語った。

同氏は、米国が51年に実験用小型高速炉EBR―1で試験的ながら世界最初の原子力発電に成功したことについて、なぜ最初に高速炉だったのか、以前は「遠い将来を考えてのFBR開発」と思っていたが、いま改めて考えると「ウラン資源が少ないからだった」と思いを新たにするようになった、と述べた。

原子炉学校には、20か国39名の30代中心の若手科学技術者らが参加し、日本からは、その後、旧科学技術庁事務次官や大山氏の後任の原子力委員長代理を務めた伊原義徳氏の2人が参加したが、その当時、とても米国の真似はできないと話し合ったが、今日、米国のWH社を東芝が買収するなどという状況が来るとは、夢にも思わなかった、と振り返った。

また、その当時の新聞標語には「新聞は世界平和の原子力」などとあったことを考えると、隔世の感があるとした。

64年には米国でオイスター・クリーク原子力発電所の契約成立を契機に、同国で発注量が増加し、日本では原子力委員会・動力炉開発懇談会が発足、有沢広巳氏はそのころから、「原子力は天恵のエネルギー」と思っていたことを紹介した。

また77年には米国でカーター政権が誕生し、再処理凍結、高速増殖炉開発の無期限中止の政策が打ち出され、おりしも日本では高速増殖実験炉「常陽」の臨界を巡って、早期臨界を主張する人もいたが、その責任者だった同氏は「現場の技術者が納得するまで、慎重にことを運んだ」と振り返り、「その後、常陽ではいまに至るまで新聞ざたになるようなことは、幸い一度も起きていない」と語った。

95年のATR実証炉の中止、99年のJCO事故などは、後に続いた皆さんが苦労をされたことと思う、と述べた。


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