[原子力産業新聞] 2008年1月7日 第2410号 <13面>

事故からの「長い戦い」 越えてきた幾多のハードル、そして今後は

「本日、燃料装荷168体−−」

1994年のある日、当時、日本原子力産業会議(原産協会の前身)に置かれていた「原子動力研究会」高速増殖炉WGのY氏が会議の席でこう述べた。

93年10月に燃料装荷を開始した「もんじゅ」は94年4月5日、初臨界を達成、その時の炉心燃料集合体装荷体数は168体であった。臨界後、初期炉心構成を完了、反応度特性、出力分布等、各種評価を実施する炉物理試験に、翌95年2月には系統昇温、水蒸気系設備調整を行う核加熱試験へ移り、8月に電力系統初併入となり、これで「もんじゅ」は発電設備として立ち上がる。しかしその後、出力上昇試験を経て、96年11月に本格運転開始となる運びだったが、95年12月8日、40%出力試験実施中に二次冷却系ナトリウム漏えいにより停止。その後、「ビデオ隠し問題」などから法人改革問題にまで発展、「もんじゅ」は「長い戦い」に入ることとなる。

「安全審査に1年、工事に2年…。それまで若い人の士気を維持しないと」

99年の弊紙2000号企画で「もんじゅ」を訪れた際、インタビューに応じた所長が述べた。実際、改造工事の安全審査は、準備段階で約3年、その間に地元自治体への事前了解願い提出、地元了承を得、国への許可申請(01年6月、02年12月)から工事認可(04年1月)までは約2年半を要した。

「事故後10年、プラントはそのままだが人が全く入れ替わってしまった」

05年の改造工事開始の日、現地で対応に当たった広報担当は言った。事故当時、高速増殖炉開発の中核にあった顔ぶれも、既にOBとして着工を見守っていた。


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