[原子力産業新聞] 2008年2月14日 第2416号 <4面>

首長らの地震発生「その時」

中越沖地震――07年7月16日、月曜日だったが「海の日」の祝日、午前10時13分ごろ――東京電力の柏崎刈羽原子力発電所の立地する新潟県の柏崎市、刈羽村などを震度6強の強い地震が襲った。その発生時の状況について、地元自治体の首長らが自らの体験を生々しく語った記録(資源エネルギー庁主催、1月18日の東京での新潟復興フォーラム「新潟のあしたを考える――私ができること」から)。

泉田裕彦・新潟県知事 原子力発電所の本来、対策本部になるところが使えず、発電所長とも連絡が取れなかった。携帯電話も回線が混んでいたのか、互いにかけ合っていたりして通じず、当初は東京経由で情報を取らざるを得なかった。

会田洋・柏崎市長 自宅にいた。自分の体が自由にならない状態だった。着替えをして、すぐに市役所に行ったが、途中では家が倒壊しており、これはたいへんなことになったと直感した。市庁舎は停電していた。

市の消防は人が出払って、緊急通報を受けて消防署員が集まってきたが、発電所には通報から1時間かかって現場に着いた。防災無線は3回流した。(原子力発電所が)大丈夫だったから3回だった。たいへんなことになっていたら、もっと出したと思う。

品田宏夫・刈羽村長 村長になって7年目、中越地震、能登地震と三度の大きな地震を経験した。三度とも家で横になってテレビを見ていたときだった。今回は縦揺れが大きく、地震ではないとさえ思った。災害対応をしなければならないことと原子力発電所は大丈夫かと最初に思った。車庫のシャッターが開かなかったのでバイクで村役場に向かったが、途中で「村長もたいへんだな」と村民から声をかけられ励まされたが、その人も額から血を流していた。役場には電気はきておりテレビも見られた。村民には放射能漏れは計測されていないこと、スクラム(自動停止)がかかったことは直ちに防災無線で知らせた。

望月晴文・資源エネ庁長官 内閣官房副長官から携帯電話があった。歩いているときに、「(所内変圧器の火災を)早く消せ」と言われた。テレビは見ていなかったが、文字情報ですでに情報は知っていた。原子力安全・保安院に電話したが、保安院にもすでにいやと言うほど伝わっていて、「最前線の人の邪魔をしないでほしい」と逆に言われた。その通りで、分かっていればいいと思った。


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