【論人】橋詰 武宏 仁愛大学人間学部教授(元福井新聞論説委員長) 「坂の上」に雲はあるか

NHKが3年がかりでドラマ化する司馬遼太郎作「坂の上の雲」。昨年12月に放送された5回分をみた。見ごたえがあった。主人公の秋山好古、真之兄弟に扮した阿部寛、本木雅弘、そして正岡子規役の香川照之が好演し、その周辺を固める配役がそれぞれ持ち味を発揮して厚みのあるドラマにしている。個人的には子規の妹、律を演じる菅野美穂がとてもいい。

小説は明治維新を経て近代国家を作り上げた若い群像のエネルギッシュな活動を描いたものである。古い封建的な体制を脱ぎ捨て新しい国家へ生まれ変わる様を伊予松山で生まれ育った3人の若者を舞台回しに書き上げた長編小説だ。

「まことに小さな国が開花期をむかえようとしている」で始まるこの小説を読んだのは随分前のことである。もともと司馬遼太郎の小説が好きで、「坂の上の雲」も読んだ。今回NHKがドラマ化するとあって、久しぶりに松山市を訪ねたくなった。昨年9月の連休を利用して妻と二人、ぶらりと行ってきた。広島から船で松山港に着けた。

港は秋山兄弟、正岡子規が松山を後にする際の出発地である。彼らが抱いたであろうそのときの感慨を体験したかった。好奇心の旺盛さは、永年、新聞記者稼業をしてきた名残であろうか。まあ、野次馬根性みたいなものである。そんな気分で伊予の海をながめた。秋晴れのもと、広がる海の青さは格別気持がよかった。

妻は松山市を訪ねるのは初めて、私は2回目である。道後温泉に泊まり、「坂の上の雲」ミュージアム、松山城、子規記念博物館などを見学した。まち全体が「坂の上の雲」一色に染まっていた。このドラマに熱い期待を寄せていることが分かった。のどかな感じのまちだったはずだが、熱いものがたぎっていた。小説、ドラマが果たす効果は大きく、「坂の上の雲」を目指した秋山兄弟、正岡子規らを輩出した松山市に羨望を覚えた。

福井県内にも戦国時代から幕末にいたる歴史、ロマンに満ちたところが多い。越前・一乗谷に花開いた朝倉三代、柴田勝家、お市の方の「北の庄」の悲劇。これらの史実は、織田信長、羽柴秀吉の脇に置かれてしまう。橋本左内、由利公正らが活躍した幕末の福井藩もある。しかし、残念ながらまだ大型ドラマの主舞台に立てないでいる。坂本竜馬の土佐・高知、伊予・松山市のようにはいかない。

さてNHKのドラマが始まり、1回目放送のとき、気になるフレーズを聴いた。兄、秋山好古が、弟の真之少年に語りかけたことばだ。「一身独立して一国独立する」。これは明治初期のベストセラーになった福沢諭吉の「学問のすすめ」からとったもので、「独立自尊」の精神である。好古は「今一番偉いのは福沢諭吉だ」と真之に話し、大きな世界に踏み出す決意を言い聞かせる。

司馬遼太郎が小説のタイトルにした「坂の上の雲」と、福沢諭吉の「学問のすすめ」で訴えた「独立自尊」の精神性は同じ内容のもののように感じる。今の日本社会に一番求められる心の持ちようではないか。明治、大正、昭和を経て平成期に入った日本。明治期と今の社会を比較検討するのは難しいが、心の置きどころ、精神の拠り所は考えてみてもよい。「坂の上の雲」を大型ドラマとして採用した背景はこのあたりにあるような気がする。

食糧の自給率が40%を割り込みながら、飽食を続ける食生活、石油などエネルギー源のほとんどを外国にゆだねながら意識がそこに向かない実情。それでいて外に出ては車社会、内にあっては冷暖房の快適な生活を求めてやまない。食料、エネルギー、国の安全保障を含め、「一身独立して一国独立する」気概がこの国にあるのかと、小説「坂の上の雲」は問うているようだ。

現状に甘んじたままで本当に「坂の上」に雲(希望)はあるのだろうか。経済も社会もずるずる衰退をたどるのではないだろうか。正直、心配である。年末の次回放送まで待ち遠しいが、その間、テーマの意味を考えていきたい。


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