【追悼文】森一久さんを偲ぶ 原子力に「信念・誇り・情熱」

森一久さんが2月3日、急逝された。つい先日まで、仲間内の勉強会で熱心に議論をしていたのが、ウソのように思われる。

森さんは、若いころ中央公論社で原子力資料の翻訳と解説を担当し、批判する若手物理学者として活躍したが、「批判するより、中に入って来い」と橋本清之助さんに言われて、日本原子力産業会議設立に参画し、電源開発(株)に採用されて原産に出向し、橋本常任理事の信任を得て活躍の幅を広げられた。

丁度、コールダーホール原子力発電所導入の時期で、導入主体を民間会社とするか電源開発(株)とするかの「正力―河野論争」に巻き込まれかけ、電発出向の立場から板ばさみになるという苦労もされた。

そのころ、科学技術庁原子力局では官民の意思疎通を図るため、島村武久政策課長が橋本清之助さんと密接に接触しており、局員の私が島村さんの使い走りで原産に行くときは、森さんとの接触が多かった。当時は官も民も区別無く、如何にして日本の原子力開発を軌道に乗せるか、苦難と希望の時代であった。

仕事での接触のほか、森さんも私も囲碁が趣味で、「碁の天狗」の原子力関係若手を集めた通称「原天会」を森さんが立ち上げたので、そこでもご縁ができた。この会は今でも続いている。

私が外務省に出向してロンドンの大使館勤務時代に、森さんが企画して日本から漁業調査団が派遣された。全漁連の池尻文二常務(後に会長)が幹事長で、森さんが幹事役であった。久しぶりで碁盤を囲む機会があると期待したが、調査団は英国内の研究施設視察で移動し、私は中曽根康弘元大臣や民社党佐々木良作書記長のお世話で飛び回り、とうとう機会を逸してしまった。このとき調査団は、原子力発電所の温排水でヒラメが養殖されているのを視察し、それが帰国後の東海発電所温水養魚事業につながり、さらには漁業と電気事業の共立の道を開いた。森さんは長くこの事業を支えられた。

原産では、森さんは有澤会長、向坊会長を支えて長年に亘り実務を取り仕切っていた。私が原子力研究所理事長時代には、時々原産に顔を出してご意見を伺ったが、向坊先生の大らかさと森さんの厳しさは、絶妙のコンビであった。森さんは、物事を表からだけでなく常に裏からも見て、実態を掴もうとされた。そのためもあってか、発言が複雑で真意を捉えかねることもあった。しかし腹を割って話せば、必ず通じた。

森さんは、原子力の国際協力に当たっては、米欧のみでなく、旧ソ連との関係を重視し、韓国、中国とも接触を図るなど、幅広い活躍をされた。ご自身の広島での被爆については、自ら多くを語られなかったが、その経験が原子力平和利用に当たっての思考を複雑にしていた。長崎の原爆投下時にB―29爆撃機から落とされた嵯峨根遼吉さん(当時、理化学研究所の原子核物理研究者)宛ての「原爆ができたから、早く日本は降伏する方がいい」という手紙を、お嬢さんの仙石節子さんに頼んで、見せてもらったと話してもいた。

後に森さんはUCN会を主宰され、私も参加を勧められた。事務局の優れた秘書と整った資料、それに高性能プリンターの御蔭で、私は懸案の「原子力政策研究会資料」改訂保存版原稿を完成させることができた。奇しくも森さんの訃報のその日であった。

森さんは秘めた情熱を持つ信念の人であった。一旦思い込んだことは、決して変えられなかった。わが国の原子力開発の舞台裏を長年に亘って支えられた森一久さんの活動の一端をお伝えして、偲びの言葉と致します。

元原子力委員会委員長代理・伊原義徳

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故森一久氏(もり・かずひさ)1926年1月生まれ。48年京大物理学科(素粒子論専攻)卒。中央公論、東京12チャンネル(現テレビ東京)、電源開発を経て、56年原産会議創立とともに入社、96年〜04年同常任副会長。享年84歳。


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