韓国と韓国から見た日本 東芝原子力事業部 技監 飯田式彦 勢いに乗る韓国の原子力 「日本は欲をなくした」と論評

40年前、船旅で釜山に上陸

1970年10月、下関から釜山までの船旅。今は学割往復で1万4400円、私が渡ったときは3000円だったと記憶する。行きは、当日の午前中に下関で乗船希望を申し出て、夕方から出国審査、釜山には朝早く着くけれど船で待機して陸地に上がれるのは、韓国役人の仕事が始まる8時からというのは今でも同じようだ。

初めて見る釜山は、小さな埠頭からまだ舗装されていない土の道が市街に続き、道の両側にはハングルと漢字が入り交じった2階だての建物が並ぶ懐かしさを感じさせる町だった。道路が舗装されていなかった昔の日本の路地と同じ風景が重なる。そのまま山のほうに続く道では、ブリキのバケツ一杯にリンゴを入れ、しゃがみこんでリンゴを売るチマを着た女性達が売り声をかけてくる。

私が渡った1970年当時、韓国はベトナムに多くの兵士を送っていた。釜山の町ではベトナム帰りの兵士を山盛りにのせた大型トラックが何台も行きかい、町の喧騒に一役かっていた。

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高速バスでソウルにいく。途中一面のコスモス畑が日本の田舎を思い出させた。ソウルには数本だけれど舗装された道路があった。ソウルから鉄道でイムジン川に沿う国境の町を訪ねた。車内では見知らぬ人からその当時の日本での、毛をむしる前のニワトリ1匹の値段を聞かれた。とてもぜいたく品の値段を聞くように。北朝鮮との国境を警備する米兵がたむろするその町に泊まり、喫茶店では、町の人がたのむ生卵入りのコーヒーを飲み、リンゴを食べた。

ソウルに戻り、当時できたという恐ろしく大きなビアホールに入る。ベトナム帰りの多くの兵士達が軍服姿で興にのりそろって歌いだす。私にはサラゲと聞こえた少し前に日本でもとてもはやった歌謡曲サランヘを何十人の兵士とともに市民が皆合唱している。金銀姫と書くフォーク歌手のせつない愛国歌が続く。そして「いしだ・あゆみ」の1969年の大ヒット作ブルー・ライト・ヨコハマの大合唱。

当時宿泊した宿は1泊と朝食のようなものがついて500円。町をでたらめに歩き、ハングル統制令はでたものの、まだ漢字で表記された宿を、勝手にその日の宿場と決めていた。

原発受注にわく韓国社会

2009年12月28日、サッカーのワールドカップでの勝利かと見間違うほどの歓喜の写真が韓国紙面を飾った。アラブ首長国連邦(UAE)の原子力建設契約締結の勝利に大きく貢献したとされるイ・ミョンバク大統領の支持率は翌1月4日には10%台から57%に跳ね上がる。国家的慶事、アブダビ感動、世界最高に登りつめた技術、などの文字が紙面をにぎわした。韓国の建設能力の優秀さを誇る記事が踊る。

引き続き、2010年1月14日には韓国がヨルダンの研究炉輸出の最終事業者に選定される。1月15日にはトルコの第2基目の建設契約をその週にも締結すると報道された。25日には、一度落札に失敗したオランダのアイソトープ生産施設の契約に向けて再挑戦を開始する。

24日からインドを訪問したイ・ミョンバク大統領は、IT分野での協力、科学技術協力プログラム、宇宙の平和的利用産業協力および製鉄産業への投資のほかに、原子炉輸出の協力に力を入れた。26日には、同行した韓電社長が、数か月で韓印原子力開発協力を締結できると自信を示したことが報じられている。

1月13日には担当省から、2030年までに80基の原子炉を輸出するとした原子力ビジョン(知識経済部:原子力発電輸出産業化戦略)が策定されるとともに、その実現のために7年間に406億円の研究開発投資を行うことを決めたことが報じられた。2月になると、原子力輸出に寄与する企業に対して韓国輸出入銀行は低利の融資を受けられるよう金融支援策を策定した。総額は90億ドルに上る。

一方、米中への進出も視野に入れ、原子力規制委員会NRCへの設計審査申請も決めた。事前審査を経て、2011年10月に設計審査のための全図書をNRCに提出するとしている。米電力Alternative Energy Holdings は中小電力ながらも1月6日に韓国の米国設計審査への支援を表明した。

この勢いに乗り、2014年に満期がくる韓米原子力協定の改定が韓国内で公然と議論されはじめた。濃縮や再処理が国内でできない韓国の原子力開発は手足をもがれている、と主張する言論は強く、韓国国内での乾式再処理の実用化に向けた協定改定を望む声が米国に届いている。

コストと運転主体がカギ

敗退した仏連合(AREVA、GDF、Suez SA、(EdFは土壇場で参加))は、敗因の分析を進め、自国EPRのコスト低減を課題としている。過剰とも言われる安全施設の位置づけなどが改めて反省材料として上がっている。仏大統領は1月22日に、今後二度と負けないように仏国内の原子力体制を立て直しする、と述べている。

関係者によると、技術評価を含む諸評価条件のうち、建設コストと、運転を担当するUAEが望む電力会社(KEPCO、仏の他の電力ではなくEdF、米の電力会社ではなく日本の電力)の関与の程度が、優先されたという。実際11月にはUAEより仏連合に対して、それまで応札に参加していなかったEdFの積極的参加とEPR建設費の10%削減を求める通知が行われた。ちなみに、韓国が提案した140万kW・APR1400の建設コストは2300ドル/kWと報道されている。

3月8日になり、仏大統領は自ら招集した原子力導入に関心を持つ60か国以上の国々に対して、「原子力導入を目指す国を支援する」という演説を行った。同時に、(1) 国際原子力機関(IAEA)で独立的な評価機構を作って原発市場に出ている発電所の安全性を比較し順位を発表すべきだ、(2)原発建設専門人材を養成する国際機関の設立、(3)国際金融機関が発展途上国に原発建設費用を貸さなければならない――とも主張した。

米国WH社との関係は微妙

韓国の突然の躍進で、米国は微妙な立場に立たされた。韓国のAPR1400は、米国で1997年に設計認証を得たCombustion Engineering(2000年にWestinghouse に併合)のSystem80+をもとに改良したものであり、冷却ポンプ、炉内構造物、計測制御機器、などの機器は、ライセンス契約に基づき米国が提供している。

このため韓国の躍進は現時点では米国に利益をもたらす。UAEと韓国の契約では契約全体の5%が米国の仕事になると報じられている。米国は、韓国の原子炉がライセンス下にあるとみなしており、結果としてUAEプロジェクトは米国の輸出規制を受ける。しかしながら、韓国は米国技術ライセンスに縛られない自立化を目指している。米国ライセンスにとらわれない新技術を投入するとしている。

2012年を米国ライセンスから完全に自立するそのターゲット・デイトと韓国内では報道された。韓国が、米国が狙う世界市場での競合相手になりうるのは避けられそうもない、との分析が米国から報告されている。

日本社会との比較論が盛ん

2009年の韓国は1970年の町の面影はないものの、当時、軍民あげてベトナム戦争に参加し、ビアホールで帰省を祝い、歓喜と愛国の歌をみなで合唱する、こうした、官民をあげて国家的課題に団結して取り組む姿勢は今も変らない。

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ところで、1月の中旬までの韓国メディアには、今回の勝利に関して解説、論説がいくつも報道されている。結局は長期的な観点と相手の文化を尊重し人間関係を重視する価値観の勝利、経済力ではなく今こそ国の品格を高めるときだ、韓国特有の団結力と協同精神の検証、世界でもっとも熱心とされる教育熱が源泉だ――など。

その中には日本社会の現状との比較を文化面や社会面から論じたものが散見される。

「今年、韓国は経済成長という面では明るいスタートを切ったが、やがてくる挑戦を韓国の耐力で乗り越えられるか?」という自問を朝鮮日報の東京特派員が投げかけているコラムがある。

この自省の前に、日本の現状についての率直な印象が述べられている。「経済成長が止まった1995年以降、(日本は)欲をなくしたとでも言うべきだろうか。激しい葛藤はほとんどみられない。韓国はこうした日本を、『停滞している』と評する」。また、「日本人が好きなのは日本一であり、世界一ではありません。一方で、韓国企業は世界一をずっと叫んでいます。……日本は負けても仕方がないと笑っているように見える」。けれども、「韓国は日本の15年前の状態にある。……将来は今の日本のような状態に陥るかもしれません」、と述べるのは韓国の大学関係者だ。

高度成長からバブル崩壊

かつて日本の高度成長期(1955年から74年までの20年間)の到達点を象徴するかのように、中流意識、選択消費、という言葉が使われてきた。成長初期の頃、富裕層しか持てなかった三種の神器(テレビ、冷蔵庫、洗濯機)はどこの家庭にも普及し、所得格差が縮小するとともに、新しい神器、自動車、カラーテレビ、冷暖房機の普及により生活様式の均質化、すなわち国民の中流意識が進む。

他方で、産業発展を支える勤労、節約などの倫理的規範はゆるみ、かわりに私生活志向などの自己実現の価値観が追及されるようになった。生活の充足性を求め、消費が多様化した。選択消費の時代に入った、と解説される。隣の人とは違う差別化、個性化を目的とした消費が現れるようになるのは高度成長期の後半からである。

1960年代後半には選択消費黎明期の象徴ともいえるキャラクター・グッズが登場する。水道水のかわりに単位あたりガソリンよりも高い水割り用のミネラルウォータが登場するのが1967年。ウィスキー水割り業務用での消費が本格化したのが70年代前半。私達が、中級ウィスキーのボトルを店にキープし始めたのもこのころだ。

同じころ、製品の寿命を待たずして新しい商品を購入し始める。寿命を待たず数年で新車を乗り変えた結果、中古車の大市場が登場した。やがて、高度成長期は第1次石油ショックとともに終焉を迎えるが、1980年代後半にはいわゆるバブル景気が始まる。家庭用のミネラルウォータが普及するのが84年からだ。90年には家庭用の水需要が業務用を超える。選択消費の割合が、生活必需消費の割合をはっきりと超えるのが90年だ。社会は成熟した。そして、バブル景気は終了する。その終了時期は90年代初期とされている。

バブルの崩壊とともに私達の個人の消費活動が低迷を始めたことは過去のことではない。個人所得が激減したのか。それとも欲求がなくなったのか、欲望を刺激する商品がなくなったのか。

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韓国の特派員は「日本は欲をなくした」と報告した。


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