【論人】 後藤 茂 元衆議院議員 (社)エネルギー・情報工学研究会議理事長 秘剣の芸術

年配者がふたり、三人集まると、きまって藤沢周平の小説が話題になる。年寄りばかりではない。この春上映された『花のあと』は若者にも好評だそうだ。夕雲流の女剣士以登(いと)、それが祖母じゃ。

「話は祖母(ばば)の若き日の恋物語りかとな、よう、見破った。おとなしく聞きなされ」。

藤沢作品には息をのむ。劇作家の井上ひさしさんは「御作に盛り込まれている事柄を手作りの地図に書き入れた。海坂藩の地図は十枚をこえている」と告別式で追悼している。

作家の宮城谷昌光さんは、『鱗雲』好み、まるで「ピアノ・ソナタ」を聴く想いだと賛嘆、全文原稿用紙に書き写したという。ドイツ文学者の西義之さんにいたっては、作品に出てくる流派を『武芸流派大辞典』とつき合わせたほど惚れこんだ。

こんな藤沢ファンに刺激された私は、春の1日、藤沢作品にどんな流派が出ているのか全作品を読み直す仕儀とあいなって、われながら可笑しかった。

『蝉しぐれ』の牧文四郎は空鈍流だ。一刀流も登場する。鐘捲流、直心流、井哇(せいあ)流、念流、微塵流、直心影流、心形刀(しんぎょうとう)流など、さらに小太刀の心極流、槍の無辺無極流、縄術の笹井流、弓の日置(へき)流、柔術の起倒流、鉄砲の外記流、馬術の大坪流等々、おびただしい数であった。

こうした流派からは、秘剣が編み出されるのだ。

柳生流でいう霞の太刀の構えから繰り出す攻撃的な刀法「花車」(かしゃ)とか、無外流の秘伝「風籟」(ふうらい)、動けば必ず先を取る「雷刀」、吹く風を待つように相手の仕掛けを待ち後の先を取る「風刀」。陰流に伝わる刀法で、燕飛、遠廻,山陰、月影、浦波、浮舟の六つの太刀からなる「燕飛の太刀」。秘伝「竜尾返し」、秘太刀「石切り」、秘剣「流水」、極意「小車」、秘剣「雷(いかづち)切り」、一人相伝の隠し剣「鬼の爪」、秘剣「鬼走り」、秘太刀「馬の骨」、盲目の剣士が創剣した「谺(こだま)返し」、敵の剣の中に隙があらわれるのを「寝モヤラズ待ツ」秘剣「残月」、後の太刀に必殺の技を秘めるだまし剣「かげろう」、座ったまま斬る秘剣「蟇(ひき)の舌」、直立した剣の陰に、己が片眼の光を隠す秘太刀「隻眼崩し」、「闇夜ニ刀ヲ振ルウコト白昼ノ如シ」という暗殺剣「虎の眼」、厳冬の道場で七夜にわたって伝授される秘剣「芦刈り」、眉のあたりに光芒をはなつ上弦に構えた「弦月剣」など。秘剣「村雨」のなかの闇夜一寸という受け技は、「眼をつむっていても一寸の闇を切る」。小説の筋が立ち上がってくるのである。

瓜生新兵衛のもとに嫁入った満江は、地震にうろたえる夫をみて、「剣の達人と聞かされていたのにこのざまはなんでしょう」、と疑いをもつ。海坂藩のお家騒動で若殿の護衛を命ぜられると、「顫(ふる)えて、しばらくは、声も出なんだ」、と嗤(わら)われていたほど。斬り合いは、渡り廊下の中ほどで起こった。

新兵衛は、「二人の刺客の攻撃にさらされて、右に左によろめくように動いていたが、よくみると、斬り合いがはじまった場所から一歩も退いていないのだった。新兵衛は躱(かわ)し、受け流し、弾ねかえし、ことごとく受けていた。はてしのない防禦が続くかとみえたとき、二人の撃ち込みをはずした新兵衛の身体が、するりと二人の構えの内側に入った。はじめて新兵衛が短い気合いを発した。斬りさげた二人の刃の下で、新兵衛の身体がひるがえるように動き、刀身が二度きら、きらと光った」 (『臆病剣松風』)。新兵衛の技は秘伝「松風」、「松の枝が風を受けて鳴るように、相手の剣気を受けて冴えを増す」のである。

藤沢周平は、『隠し剣弧影抄』のあとがきに、「ひとつひとつの秘剣の型を考えるのは、概して言えばたのしい作業だったが、締め切り近くなっても何の工夫もうかばないときは、地獄のくるしみを味わった」と書いている。

周平の剣は無であり、寂である。空を切る音さえ聞こえない。


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