【論人】宅間正夫 日本原子力産業協会顧問 私の下落合風景

昭和の初期から下落合(東京都新宿区)に住んで3代80年になる。先ごろ新宿歴史博物館で、落合にアトリエを構えた洋画家佐伯祐三展「下落合の風景」が開かれ、そこには今では想像もつかないのどかな住宅地が描かれていた。神田川と妙正寺川が合流する落合一帯は、江戸時代から蛍狩りの名所だった平らな流域平野と、その南に盛り上がる「落合台地」からなる。前者は明治期田山花袋が「早稲田辺りから見ると緑が一面に広がる美しい田んぼ」と描き、後者は将軍家のお鷹場で庶民の入れなかった「御禁止山」で、いまは「乙女山公園」として都心には珍しくなった自然豊かな落合の秘境がある。

明治になって開放された御禁止山一帯は下落合といわれ南側は相馬家、北側は近衛家の敷地となったが、人口増加は都心の西にある山の手の開発に向かい、両家の敷地も1920年ごろから解放され西武系の箱根土地会社などにより分譲が進んで、下落合は新しい時代を迎えた。都市開発が進んだ下落合地域の特徴を私なりに挙げれば、1つは新興の企業家やサラリーマンの住宅の進出、なかでも流域平野と旧御禁止山に続く丘陵にまたがる文士・画家たちが住んだ「目白文化村」の形成、もう1つは都市化する隅田川辺などから、良質の水を求めて神田川流域に移った染色・めっき・印刷などの家内工業地帯であろう。

乙女山公園は、台地の湧水が沼や深い谷をつくり、幼い頃、昆虫を追って暗い森と底なし沼に探検に行ったもので、近衛家の回遊式の庭園「林泉園」だったところ。電力の鬼、名古屋の松永安左エ門が役員等とともにここに居を構えて東京電燈に殴り込みをかけた。「目白電力村」といわれ、今は電事連や電力会社の家族寮などになっている。谷は戦後、地下鉄丸の内線の掘削土砂で埋め立てられた。近くには皇太子(現天皇)の家庭教師だったヴァイニング夫人の屋敷もあり、かつての学習院の先生方の寮も戦後「日立クラブ」となり、ここから目白通りにでる道路は「近衛通り」と言われ、道の真ん中にある「二本榎(実際は欅)」は近衛家の玄関の馬車回しだったという。

「目白文化村」は文化人たちが1920〜30年代にハイカラな文化住宅を競って建てたところで、中でも上落合には70人以上の作家・文学者が居たので「落合文士村」とも言われた。水戸生まれの天才洋画家中村彝(ツネ)(1887〜1924)は1916年から文化村に住んだ。新宿中村屋の相馬愛蔵・黒光夫妻の後援を受け、文化人グループ「中村屋サロン」で中原悌二郎、戸張孤雁、荻原守衛ら多くの美術家や文学者、演劇家等と交流した。盲目のコスモポリタン、エロシェンコを描いた「エロシェンコ氏の像」は1920年第2回帝展に出品され、「明治以降の油絵の肖像画中最高の傑作」と賞賛された。現在、重要文化財として東京国立近代美術館にある。

しかしこの頃、重い結核に冒されていた彝は自分の絵を会場で見れないほど衰弱していた。彝の生きた明治末から大正にかけては、ヨーロッパの絵画技術と共に新しい思想が導入された時期。その中で彝は燦然と輝く天才画家であろう。初対面で100年の知己のように共鳴した柏崎(新潟県)の洲崎義郎は、孤独な彝の生涯の友として物心両面から彝を支え、彝は「元気なうちにどうしても描きたい人」として病をおして「洲崎義郎氏の肖像」を描いている。私の赴任した柏崎故に中村彝への思いが募る。

冒頭に触れた佐伯祐三(1898〜1928)は、関東ロームの赤土のコートでテニスに興じる人々を描いた「下落合風景」はじめ、下落合を題材に十数点を描いている。彝を慕って下落合に居を構え、画風も共通してフランス印象派の影響を受けているという。その旧宅は佐伯祐三アトリエ記念館として先ごろ新装開館された。

歴史をたどって土地からの声に耳をすます楽しみは、何物にも代えがたいものがある。


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