事故から現在までの軌跡 避難自治体=福島県・双葉町の場合 「2、3日で帰れる」から、1年が過ぎて

春とはいえ、小雪の舞い散る東北地方に、マグニチュード9の巨大地震が襲ってから1年──。季節はめぐり、またその季節だけはやってきた。1年前の3月11日、それは首都圏の電力需要を長年支えてきた東京電力の福島第一原子力発電所の地元周辺住民にとっても、ふるさとを離れなければならない過酷な運命の始まりだった。立地自治体の1つ福島県・双葉町の「その時から現在まで」を追った。 (河野 清記者)

3.11──東京電力の福島第一原子力発電所が立地する、正確に言えば5号機(BWR、出力78万4000kW)、6号機(同、110万kW)が立地する福島県双葉町。

2011年3月11日午後2時46分ごろ、宮城県三陸沖の海底で日本の観測史上でも最大の「東北地方太平洋沖地震」(M9、震源深さ24キロメートル、最大震度7)が発生し、双葉町でも震度6強の地震を観測した。「腹ばいになってもいられず、尻もちをついた状態を保つのがやっと」、「墓石が一瞬、宙に浮かんだ」、「古い家々が次々と倒壊していった」。

住民は「何をどうすればいいか分からない状態だったが、命からがら学校などに避難した」、「食料、水の確保を行い、かろうじて電気(東北電力管内)はきていた」──海の近くにいた人はたまたま津波を見た人もいたが、多くの人々は福島第一原子力発電所が地震発生から約51分後に、最大15メートルに及ぶ巨大津波に襲われていたことも知らなかった。まして、それが原因で全電源喪失に陥り、そこから、全ての長期にわたる苦難が始まろうとは……。

地震当日は町内の学校など公共施設に避難した。海沿いの地区は津波の被害にもあった。夕方からは食糧、飲料水の確保に奔走した。午後8時過ぎには、福島第一原発から2キロメートル、あるいは3キロメートルの避難指示が出された。井戸川克髓ャ長は「この程度で済めばいいが」と思いながら一夜を過ごしたという。

それが、翌12日早朝の5時44分には政府から10キロメートル圏外への避難指示が出されたことから、同町長は同6時過ぎにやっとつながった電話で、同町西方の川俣町長に避難民の受け入れを了解してもらい、同町の学校などに避難することになった。

町民には防災無線で知らせた。避難用のバスが手配された自治体もあったが、双葉町にはバスが来なかったため、各自が車でバラバラに避難するしかなかった。移動中の道路では大渋滞が発生した。その日の午後、移動途中に1号機で水素爆発が発生し、原子炉建屋の上部が吹き飛んだことを知った住民もいた。

途中でガソリンがなくなってしまった車は、他の車に乗せてもらって、やっと川俣町にたどり着いた。着の身着のままで避難した人達は、「2、3日で帰れる」と心に思い描きながら、苦難に耐えた。安定ヨウ素剤は川俣町に着いてから、13日ごろ投与してもらったという。

格納容器の圧力が次第に上昇し、破損を防ぐために大気に蒸気を放出するベント操作は、電気がなく暗闇の中で操作が遅れ、高まる放射線に遮られて遅延した。政府の記録では、12日午前2時前には半径3キロメートルの双葉町・大熊町民約6000人の避難は完了していることになっている。しかし1号機のベントが実際に行われたことが確認できたのは午後2時半。その1時間後の12日午後3時半過ぎには、1号機が最初の水素爆発を起してしまった。

井戸川町長によると、その時、敷地から2キロメートルしか離れていない双葉厚生病院前にいて、「ズン」という鈍い音を町長自身が聞いており、その数分後には断熱材のような破片が牡丹雪のように降ってきた光景を目の当たりにしている。そこにはまだ300人ほどの町職員、医師、看護師がいたという。

川俣町に移動してからは、事故の拡大が2号機、3号機、4号機と次第に広がりつつあったが、通信が途絶えたり、避難所に1本あった有線電話は安否確認の電話でふさがれ、緊急災害対策には使用できない状況となった。「事故情報はテレビの映像のみ」という状況が続いた。

その後、双葉町民は福島県が移転先を探し、ふるさとからさらに遠く埼玉県中央のイベント大規模施設「さいたまスーパーアリーナ」やリゾートホテル「リステル猪苗代」に、バス数十台を使って集団避難せざるをえない状況を強いられることになった。

人口約7000人の町民のうち、「さいたまスーパーアリーナ」などに一時避難した人達は、3月31日からは最大時1400人の町民が埼玉県加須市にある旧県立騎西高校に町役場(埼玉支所)ごと集団避難した。廃校になっていた同校を埼玉県が提供したもので、そこでやっと家族と合流できた人もいた。

1つの教室には数家族が入居し、生活スペースは低い仕切りが設けられだけで、床には畳やカーペットなどが持ち込まれ、お年寄りにはベッドも用意された。下水道工事や電気設備の増設が行われ、お風呂も急遽、増設された。今では、教室の窓にはカーテン、冷暖房なども入っている。町役場は外階段から近くの2階に設置された。井戸川町長はいまでも、町民と一緒に教室住まいを続けている。

昨年の夏には市民のボランティアなどが、教室の外にヘチマやゴーヤを育て、緑のカーテンを作って、少しでも涼しい快適な生活空間を避難者のために提供した。9月には、当地の営農生産組合が避難所の人達に土に親しみ畑作りを楽しんでもらおうと約千平方メートルの農地を提供し、「双葉町元気農園」と名付けた。冬でも、りっぱな大根や白菜が植わっていた(=写真上)。11月には日本ユニセフ協会の協力で旧騎西高校の体育館内に子ども向けの遊び場も整備され、「ふたばひろば」と名付けられた。子どもの遊び場を介して、避難者同士の交流の場になることも期待されている。

避難住民は仮設住宅の整備や借り上げアパートへの転居で、昨年秋ごろには福島県内に町民が戻り始め、町では町民の約半数が福島県内で避難生活を送るようになったことから、昨年10月末には郡山市内にも福島支所を設置した。埼玉支所に約80人いた役場職員から、福島支所に約20人を配置した。2月末には旧騎西高校の避難住民も約600人を割るまでに減少した。

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埼玉県立・旧騎西高校は東武伊勢崎線の加須駅から南西に約3キロメートルの距離。周囲は田畑に囲まれた静かな田園地帯。

いまでも5階建ての校舎の壁には、「埼玉県立騎西高等学校」の文字と校章が掲げられている。外階段を上がって2階玄関には「双葉町役場埼玉支所」「双葉町災害対策本部」の看板がある(=写真右上)。玄関を入るとすぐ左が双葉町役場事務所で、手前には1時間あたりの放射線量が表示されている放射線計測器が置かれていた。

廊下の壁には全国から送られた千羽鶴や励ましの言葉がいっぱい掲げられている(=写真左上)ほか、福島県内だけでなく、地元加須市を中心とした求人や住宅紹介票も所狭しと掲示されている(=写真左下)。

校舎の中には、昔学校であったがゆえに、いまは似つかわしくない布団などが干してあり、ここが3.11以降、原発事故で心ならずもふるさとを離れざるを得なくなり、そして1年を迎えようとしている人々の生活の場であることを、否が応でも認識させる(=写真右下)。校庭の空きスペースには、ふるさとからはるばる持ってきたと思われる多くの車が駐車してあった。周囲にはバス路線も通っておらず、買物などに行くには移動手段の車は必需品だ。

いまでは、仮設住宅などを除けば、福島事故で避難せざるをえなくなったすべての自治体の中で、「旧騎西高校」は最後の集団避難所となっている。

井戸川町長は、「避難指示は国からあったが、命からがら避難してまもなく1年が経とうとしているが、今日まで、そのあとは一切、指示・指導はなかった」と国の姿勢を批判した。

正月に発表した町長メッセージで、井戸川町長は、「『なぜこのような事故が起きたのか』『どうすれば復興できるのか』と、行政を預かる者としての試練を痛感している」といまの心境を吐露している。

原子力発電所の立地自治体でありながら、財政の健全化を求められる「早期健全化団体」に指定されていた同町は、去年の2011年には地方自治体として同団体指定から脱却し、「財政的にも今後の明るい見通しがつき」、同町長としても、住民と新たな一歩を踏み出せる年になるはずだった、と口惜しさをかみしめる。「避難生活が長引けば、生活基盤を失ったふるさとに戻る環境はますます厳しい状況となる」との危機感も募らせている。

井戸川町長は「仮の町」設置構想を持っているが、せめてもの福島県内への移転計画は、まだ立っていない。いまは、4月からの放射線量による住居制限区域などへの指定変更や、双葉地方町村会長として双葉郡8町村内への中間貯蔵施設の受け入れ問題などに頭を悩ませる日々が続く。


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