福島事故から1年 3・11=東京での24時間の記録 闇の中「電源車、ベント …」

東京電力・福島第一原子力発電所の事故発生から1年。この間、政府や東京電力、民間の事故調査に関わる中間報告書などが取りまとめられ、当時の菅直人首相をはじめ関係閣僚や関係者などへのヒアリングも実施された。一般紙や地方新聞社などからも事故直後の取材活動などを通じたルポルタージュも著されている。

今後、原子力安全・保安院も事故経過の情報発信などについて、様々な関係者やマスコミ、同保安院職員にもアンケート調査やヒアリングを行い、今後の教訓などに生かしていくことにしている。この際、原子力専門紙としての弊紙記者も個人的な取材活動の一端ではあるが、我が国の時代の“ターニング・ポイント”になるかも知れない昨年3月11日(金)の地震発生からの24時間を記録にとどめたい。(河野 清記者

昨年3・11の午後2時46分、東北地方太平洋沖地震で、福島第一原子力発電所が震度6強の揺れに耐えているとき、まもなく東京都内でも一部では震度5強の揺れを感じた。当時、原子力産業新聞の入っている事務所は、港区のJR新橋駅近くの築40年を超える比較的古いビルの5階にあった。当の記者の机は、資料が山積みになっており、一挙に崩れ落ちそうになり、必死で両手で押さえたものの、その手をすり抜けてかなりの資料が床に散らばってしまった。

かなりの長い揺れが収まってからは、エレベーターが止まり、階段を歩いてビルの外に出た。近くのビルも含め、窓ガラスなどの落下はなかった。

テレビのニュース速報では、宮城県沖の海底が震源で、大津波警報も出された。

しかし、福島第一原子力発電所をはじめ、福島第二、女川、東海第二原子力発電所などは自動停止し、炉内に制御棒が計画通りに挿入されて、順調に冷却がなされているということで、安心していた。

そうなると、心配になるのは自らの帰宅問題だ。金曜日だったので、翌日以降の仕事のことは、とりあえず土曜・日曜日があるので、様子が見られると比較的冷静だった。

テレビでは巨大津波で、多くの船や家屋、田畑などが流されている映像が絶え間なく流されていたが、東京での津波到達予想時間が過ぎてからは、正直少し気が楽になった。

多くの原子力発電所や首都圏の火力発電所も停止したものの、春は電力の端境期に当たり、東京の中心部では停電などはなかった。ただ、首都圏の鉄道網はいつ復旧するか皆目見当がつかない状態に陥り、会社からは歩いて帰宅できる人は早めに帰宅し、帰宅困難者は会社に泊まるよう指示が出された。

私は、遠距離通勤のため、すでに当日の帰宅は諦めており、床に落ちた資料の整理などを行い、会社から提供されたパンや弁当を食べた。

その後、テレビで枝野幸男官房長官(当時)の午後9時50分からの記者会見で、半径3キロメートル避難などのことを知り、首相官邸のホームページで緊急災害対策本部の発表資料などをフォローしていた。

昼の緊張もあってか眠気がさしてきたころに、役員から「今後、原子力安全・保安院が1時間ごとに記者会見を開く」との情報が伝わり、何が起きたかはさておき、慌てて、どこで記者会見を行うのか確認してから、非常用のペットボトルとパンを鞄につめて、午後11時ごろ経済産業省に向かった。車の交通量は通常より異常に多かったが、その頃には帰宅する人の数は少なくなっていた。同省までは徒歩十分程度で着く。

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急遽、定期的な記者会見が行われることになった原子力安全・保安院のある経産省別館の三階特別会議室は、その当時はまだ大きな混雑もなく、会見は淡々と行われた。その後、記者やテレビカメラの増設などでごった返すことになり、政府・東電による「福島原子力発電所事故対策統合本部」の合同記者会見が東電本店で行われるようになるまでは、相当の混乱が生じた。

私の取材ノートでは、日が改まり12日の午前0時50分からの記者会見に出席。原子力安全・保安院の地震被害情報【第8報】(12日0時30分現在)が配布され、中村幸一郎審議官(原子力安全基盤担当)、山田知穂・原子力発電安全審査課長が福島第一原子力発電所の事故現状を説明した。

中村審議官は、福島第一1〜3号機の格納容器内の圧力が上昇しており、圧力を抜くことを検討中だとした。

福島第一2号機の炉内水位は有効燃料頂部から上に350cmあり、前回22時の340cmとほとんど変化なし。ディーゼル電源車を各地から集めており、数台は現地に到着しているが、接続電源ケーブルを探していた状態で、やっと「電源車とケーブルは確保できた」としたものの、「専門的な作業員の確保中だ」として、ディーゼル電源車はまだ使用できる状態にはなっていないことを説明した。

半径3キロメートル圏内の避難指示では、大熊町は完了、双葉町は避難中と説明した。

0時14分現在の東電管内の停電は257万戸。

【第9報】(12日午前2時現在)の記者会見が2時20分から行われ、炉内水位は有効燃料頂部から福島第一1号機は130cm(23時44分には59cm)、同2号機では350cm(同値)、同3号機では450cmなどと発表。1号機の格納容器内圧(通常約1工学気圧、窒素ガス封入)が、設計値400キロパスカル(約4気圧)のところ、600キロパスカル(約6気圧)となっており、手順書では800キロパスカル(約8気圧)になると弁を解放し、排気筒から大気に放出することになる、と説明。「国内では過去に出したことはない」と付け加えた。

「東京電力からベント申入れ」経産相会見

午前3時からは急遽、海江田万里・経産相(当時)の記者会見が行われることになり、同5分から経産省本館で行われた。寺坂信昭・原子力安全・保安院長(当時)、小森明生・東電常務取締役らも同席した。

海江田経産相は、「格納容器からのベント弁開の旨を東京電力から報告を受けた。事前の環境への評価は微量とみられている。風は陸地から海側へ吹いている。3キロメートル以内の住民は避難しており、安全性は保たれている。落ち着いて対処していただきたい」と述べた後、「これから総理に報告に行く」として、会見場を後にした。

後に残った小森常務は、「非常用ディーゼル発電機は起動したが、15時20分頃津波が押し寄せ、海水ポンプ、非常用ディーゼルなどが停止し、非常用電源がなくなった」と状況を説明した。ベントについては「この会見が終了次第やりたい。ブラインド(データが不明)になっている時間が長い2号機からやる。1、3号機も準備を進める」とした。

午前6時5分からの会見では寺坂院長が、5時44分に総理から半径3キロメートル避難を同10キロメートルに拡大する指示が出された、と発表した。1、2号機共用の中央制御室の放射線量が上昇してきており、毎時0.16μSvが5時25分現在150μSvに達したことを明らかにした。また、福島第一の正門前で通常の8倍に当る毎時0.59μSvと上昇傾向を示しており、「空調が止まって、原子炉建屋が負圧になっていないので、外部に少しずつ放射能が漏れてきているとみている」と説明した。

この頃は、消火ポンプで水を1号機高圧注入スプレイ配管につなげて炉内の水位を上げて冷やす作業を開始している状況も説明した。

7時30分からの【第11報】(12日午前7時現在)の説明では、福島第一6号機での地震動を明らかにし、基礎盤での設計基準地震動は448ガルであったが、実際の地震動は東西方向で431ガルにとどまっていたことを示した。

その後、12日の朝に取材を同僚の記者と交代して、会社にもどったが、電車はいまだに復旧していなかった。当協会にも一般紙の記者などから、ひっきりなしに問い合せの電話が殺到した。事故をテレビなどで解説する専門家の紹介依頼や、日本の一般的な原子力情報などについての対応に追われた。

ちょうど服部拓也・日本原子力産業協会理事長が海外出張から戻ってきたのと入れ替えに、電車も途中までは動くようになったことから、千葉の自宅に戻ることにした。その後、午後3時36分に起こった福島第一1号機の水素爆発は、熟睡の中、全く知るよしもなかった。

文中のデータ等は、事故直後の混乱の中で発表されたままのものであり、その後修正されている可能性がある


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