住民の力で復興果たす V.ウドヴィチェンコ・スラヴチチ市長(ビデオメッセージ)

1986年4月のチェルノブイリ事故被災者500万人以上のうち、260万人がウクライナ人だった。同年発電所周辺から10万人以上の住民が避難し現在も30km圏内が立ち入り禁止区域である。しかし事故間もなくチェルノブイリ発電所1〜3号機は再開が決まり、同年10月14日、原子力発電所の街プリピャチに代わる従業員たちの新たな街として、ソ連全土をあげてのスラヴチチ市建設が決定した。

スラヴチチ市の最初の課題は除染作業で、表土除去などによる土壌の除染、線量が高い場合は樹木の皮まで除染し、許容できるレベルの環境を確保した。そして、完全な情報公開の原則のもと、スラヴチチ市に戻るかどうか住民が決められるよう情報提供が行われた。

1995年、ウクライナ政府はG7/EUとの合意文書調印により、チェルノブイリ原子力発電所の閉鎖を決定した。これによって発電所従業員1500人以上がこの地を去ることとなり大きな痛手となった。

ウクライナ政府は立派に健闘してきたが、国がどんなに頑張っても住民に自分たち自身で変えていこうという気持ちがなければ前進はあり得ない。スラヴチチ市民は厳しい経済状況の中、町の建設、新しい国の誕生、合意文書の調印とチェルノブイリ原子力発電所の閉鎖と、あらゆる改革とそれにともなう困難を乗り越えてきた。

スラヴチチ市の新たな発展のため、我々はまず法基盤づくりから始め、国の法律をベースとして必要な町の条例を作っていった。小冊子「スラヴチチ市の発展」では、法律や関連規則、省庁の規則文書など、我々が長期にわたり国に働きかけ獲得してきた成果が集められている。これが将来の行動計画としてスラヴチチがどのように発展していくべきか「道しるべ」となっている。

スラヴチチ市では先日、市の誕生から25周年の式典を迎え、49の民族出身者が仲良く暮らしている。1999年より経済特区として企業活動が推進され、1000以上の雇用が生み出され、最新技術の導入にも成功した。ウクライナの住みやすい町としても常に10位以内に名前が挙がり、生活レベルは国内トップクラスである。

チェルノブイリや福島での事故に関しては、世界中が力を合わせて問題を乗り越えていかねばならない。我々のこうした経験が少しでも福島の復興に役立てればと思う。


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