故町末男氏を偲ぶ

2015年9月16日

 原産協会の元常務理事(2000年6月~2004年3月)で、IAEA事務次長、原子力委員などを務めた町末男氏が8月15日、肝内胆管がんにより死去した。81歳だった。葬儀は18日に、同氏の遺志により近親者のみで執り行われているが、お別れ会が9月23日に高崎市内のホテルで行われることとなった。
 町氏は、1934年生まれ、静岡大学卒業、京都大学大学院工学研究科修士課程修了後、1959年に丸善石油入社、1963年に日本原子力研究所(現、日本原子力研究開発機構)に入所し、同年設立された高崎研究所で放射線重合の研究に従事した。高崎研究所長退任までの間では、国際活動として、1968~70年渡米し、メリーランド大学で客員助教授としてポリエチレンの放射線グラフト重合の研究に従事し、石油化学の産物である高分子材料の耐熱化など、放射線の工業分野での利用促進に貢献した。その後も1980~83年には、IAEA工業利用・化学課長として、主に途上国において、その国際的拡大に手腕を発揮した。
 また、町氏は、電子ビーム法による火力発電所排ガスの浄化に関する研究をリードするなど、放射線の環境保全分野での利用にも道を切り拓いた。この研究成果は、アンモニアを用いる技術だが、排ガス(亜硫酸ガスなど)の浄化とともに、副産物として肥料(硫酸アンモニウムなど)を製造するユニークな方法で、IAEAと日本政府の協力により、石炭が多くのエネルギーをまかなうポーランドで実用機が建設されている(2000年運転開始)。本功績により、同氏は2011年に、ポーランド原子力学会から名誉会員の称号が贈られた。

出展:「原子力のすべて」(町末男他編集)

電子ビームによる石炭燃焼排ガス処理の原理 (出展:「原子力のすべて」〈町末男他編集〉)

 1991年より町氏は、日本人では垣花秀武氏に次いで2人目となるIAEA事務次長を2000年まで務め、9年間にわたり放射線・アイソトープ利用の国際協力推進に尽力した。その後、帰国当時、1990年から続いていた原子力委員会主宰の近隣アジア諸国との協力枠組み「アジア地域原子力協力国際会議」(ICNCA)を発展的移行した「アジア原子力協力フォーラム」(FNCA)の立ち上げが合意されていた。同氏は、これまでの途上国協力に関する豊富な経験から、FNCA日本コーディネーターに選ばれ、以降、その傘下で行う協力プロジェクトをリードしてきた。町コーディネーターのもと、これまで15年間にわたるFNCA活動は、参加国を拡大し、現在、日本、オーストラリア、バングラデシュ、中国、インドネシア、カザフスタン、韓国、マレーシア、モンゴル、フィリピン、タイ、ベトナムの12か国となり、また、協力分野も当初の放射線・研究炉利用だけでなく、途上国におけるエネルギー需要増から、原子力発電導入に関する検討も行われるようになった。2004~07年には、FNCAコーディネーターと合わせ、原子力委員会委員を務めており、こうした国際関連における原子力政策推進や、研究協力活動などの貢献を称えるものとして、同氏は2008年に瑞宝中綬章を受章した。

 在りし日の町末男氏の姿を偲ぶ言葉を、遠藤哲也氏(元在ウィーン国際機関代表部大使、元原子力委員会委員長代理)と旭信昭氏(若狭湾エネルギー研究センター理事長)よりいただいた。

元在ウィーン国際機関代表部大使、元原子力委員会委員長代理 遠藤哲也 「国際人 町さんの思い出」
 町さんとの思い出には二つの局面がある。いずれも原子力を介してであったが、一つは町さんがIAEAの研究協力担当の事務次長で、筆者は在ウィーン国際機関日本代表部の大使であり、もう一つは筆者が原子力委員会委員、委員長代理、町さんがIAEAを辞した後、FNCA(Forum of Nuclear Cooperation in Asia)の日本の代表(正式にはコーディネーターとよぶ)の時であった。
 日本はIAEAに対して、米国に次ぐ巨額の分担金、拠出金を払っているにもかかわらず、人的貢献となると、甚だお寒い状態で、特に高級人事となるとせいぜい部長級が数名という有様であった。
 これには、日本側の人材不足といった事情もあったが、専門知識にも富み、かつ一肌脱ごうかという意欲のある人を見つけるのが、そう容易ではなかったことにもよる。
 筆者の在ウィーン大使時代に偶々、IAEAの研究協力の事務次長ポストに空席が生じ、町さんの専門、これまでの経歴に適合し、町さんが応募することとなった。ウィーン代表部としても得難い人物、日本のエースとして強力に推薦し、あの手、この手を使ってキャンペーンを行った。当時IAEA事務局長だったブリックス氏が、町キャンペーンはもう止めてくれと筆者に内々述べるほどであった。
 事務次長就任後の町さんの活動は、八面六臂で期待通りに国際貢献を果たすとともに、久しぶりのIAEAの日本人幹部として日本の存在感を高めた。
 今ひとつは、町さんが帰国された後のFNCAでの活躍である。FNCAはアジア諸国の原子力、特に放射線利用の協力を促進しようというもので、アジア諸国の現状にあっているのみならず、町個人にとっても放射線利用はまさに専門分野であった。FNCAは原子力委員会が主宰する活動であり、当時原子力委員会委員であった筆者の担当であり、実務的には町さんが持ち前の活動力を活かし、海外の知己を動員しての活躍であり、FNCAが目にみえる成果を挙げた。その後町さんが、筆者の後任として原子力委員に就任され、FNCAをフォローすることになったのが幸いであった。
 筆者は町さんとは、年齢的にも同時代に属し、共にウィーンに在勤、東京でもFNCAで共に働くという幸運に恵まれた。町さんの専門知識は当然のことながら、まれに見る国際人であり、今後の一層の活動が期待されていたのに、若くして他界されたことは誠に残念である。心からご冥福をお祈りしたい。 (2015年9月7日記)

若狭湾エネルギー研究センター理事長 旭信昭 「町末男先生への思い出」
 町先生と若狭湾エネルギー研究センターとの関わりと申しますと、2011年4月に開設しました福井県国際原子力人材育成センターの立ち上げ時期に遡ります。
 この人材育成センターは、アジアをはじめ世界から原子力の研修生を受け入れて、優秀な原子力人材を育成し、輩出することを目的として立ち上げました。当時、この人材育成センターを創るに当たって、機能や役割、執行体制などについて深い識見と幅広い視点からご意見を頂戴いたしました。
 それから4年余り、町先生には、人材育成センター顧問として、原子力の安全・活用・平和利用の各面で数々のアドバイスや示唆をいただきました。

原子力人材育成研修「ポリシースクール」で講演する町氏(2015年2月、若狭湾エネルギー研究センターにて)

原子力人材育成研修「ポリシースクール」で講演する町氏(2015年2月、若狭湾エネルギー研究センターにて)

 人材育成センターが実施している国外・国内研修に関するカリキュラムの編成や講師選定への助言はもとより、アジア人材育成会議での参加者への出席依頼、アジェンダの編成など、町先生のお人柄と深い人脈のおかげでいずれの研修も初期の目的を達成することができました。
 また、文部科学省など国や関係機関にも、先生自ら出かけられ、新たな研修制度の獲得に尽力され、人材育成センターの研修の充実にも努められました。
 特に、IAEAとの連絡調整や交渉に当たっては、元事務次長のお立場から積極的に働きかけをしていただき、たいへん心強く感じ、事務手続きもスムーズに進めることができました。
 こうした実績の積み重ねを経て、2013年10月には、IAEAと福井県との間で、原子力発電、原子力安全および原子力科学・応用分野における協力のための覚書を結ぶに至りました。これも、偏に、町先生のお力添えがあったからと感謝いたしております。
 この覚書に基づき、今年10月には、IAEAが主催する国際会議が福井県で開催されることになりました。この会議の内容などについても、町先生からいろいろアドバイスをいただきながら進めてきましたが、開催を目前にしてお亡くなりになり、至極、残念でなりません。
 町先生とは、昨年5月に、ウィーンとドイツへの海外調査にご一緒させていただきました。各国の要人とも懇意にされておられ、行く先々で親交を温め合うご様子を伺い、気さくな人となりに触れさせていただきました。
 これからも何かと相談させていただき、ご教示を仰ぎたいと思っていたところであります。病とは言え、あまりにも早いご逝去に驚いています。
 今後は、町先生の教えを胸に、福井が原子力人材育成の面で国際的に貢献できるよう努めていく覚悟でございます。
 謹んで、ご冥福をお祈りいたします。 (2015年9月1日)