コラム Salonから 不可知の説明責任

 「福島原発の現状がヤバすぎる!」
 「放射能で人々に出る体調不良(福島エイズ)」

日本医療研究開発機構(AMED)臨床研究・治験基盤事業部 臨床研究課 越智 小枝 氏

東京慈恵会医科大学臨床検査医学講座 講師  越智 小枝 氏


 2017年の9月15日現在、Google Japanで「福島 放射能」と検索した際にトップに表示される記事です。「福島県放射能測定マップ」などの客観的データが表示されるのは3番目以降。福島に対する風評被害はまだまだ根強いな、と感じざるを得ません。冷静な事実認識や正しい知識の発信だけでは、福島に対する漠然とした恐怖をなくすことはできない。それがこの7年間で私たちが学んだ現実でした。

 「どんなに分かりやすく説明しても『事実』が伝わらない」
 これは風評被害に立ち向かう方々にとっての共通の悩みです。しかしではその事実とは何なのでしょうか。そこには、科学的事実と社会的事実の大きなかい離があるように感じます。

統計と外れ値

 「私の知り合いの○○さんも△△さんも、実際に原子力発電所事故の後すぐにがんになったんだ。だからいくら放射線量が低いと言われても信用できない。」
 この方が嘘を言っているのでない限り、このような個人的体験もまた、統計データと同じ「事実」です。現実にそこで生きる人々にとって、このような実名の個人の情報よりも、誰が書いたかもわからない行政や科学者の数値情報の方が信頼できる、と果たして思えるでしょうか?

 科学的に信頼性の高い統計データは必ずoutlier(外れ値)を除外します。これは、平均値がoutlierに引きずられて「真実」から外れてしまわない為の、当然の処理です。しかし、個々人の人としての生活、人間らしさの原点といった社会的事実は、本来平均値ではなくこのoutlierの中にあるのではないでしょうか。

 個人的経験よりも測定データや統計データがより真実に近い。それは、実は科学者だけに通用する常識かもしれないのです。

リスクと時間

 風評被害のもう一つの原因として挙げられるものに、放射能だけを極端に恐れる、といった偏ったリスク認識があります。リスクの感じ方はあくまで個人の自由であり、全員を「安心」させることは、洗脳行為にもなりかねません。しかしそれでも、
 「分かってはいるんだけれども、何かもやもやとしたものが残る」。
 という意見を、あちこちで耳にします。知識では「分かる」ことができても、リスクという「もやもやとしたもの」を与えられ、納得のいく落としどころを見つけられていない。そういう方々は多いのではないでしょうか。

 死亡リスクや発がんリスクなど、ある事象が確率で語られる理由は、それが未来に起こり得る「分からない」ことだからです。変わり得る未来を語ることが前提である以上、確率はどんなに高い数値であっても真実ではありません。つまり「99.99%の確率でAである」という確率と「未来はAである」という事実を隔てるものは、単なる0.01%ではなく、現在と未来という越えようのない壁なのです。確率を扱うことに慣れてしまった人々はその大前提を説明せずに議論をしがちです。その結果、確率という不確定性そのものへの向き合い方が分からない人の心を置き去りにしているのではないでしょうか。

不可知の説明責任

 統計データは個人の体験を伝え得ない。確率は未来を断定し得ない。これらは科学自身の内包する限界であり、この人知の及ばない「不可知」こそが科学の醍醐味とも言えます。しかしこの醍醐味である不可知について科学者が社会に対し丁寧な説明をしてこなかったこともまた、福島の風評被害の一因となっているのではないでしょうか。

 もちろん、専門家が「分からない」と言うことをタブー視するような世間の風潮にも問題があります。しかし福島において、科学者たちが「分かる」ことだけを説明しすぎてきた結果、社会が個体差や不確実性という不可知に正面から向き合って議論をする機会がどんどん失われている、と感じます。

 世間が原子力発電所再稼働の方向へと進みつつある中、今福島と同様の事故が起きたならば、人々は福島でおきた「災害関連死3,000人超」という社会混乱を防ぐことはできるでしょうか。残念ながら、現状を見る限りそれについては「否」と言わざるを得ません。その一因は、「科学的測定だけでは真実や未来を完全には知り得ない」という当たり前の事実を前提として災害対策の議論がされていないことにあります。どんなに確率が低くても、大地震や津波、そして原子力発電所事故は起こり得ます。未来が分からないからこそ二の矢、三の矢を用意する。こと原子力災害においては、その防災の基本が十分に議論できていないのです。

 福島において分かることではなく、分からないことを客観的、理論的に分かりやすく説明していくこと。その不可知の説明責任こそが、しなやかな社会を創生するための科学者の役割ではないでしょうか。

(なお、本コラムは日本原子力学会誌「アトモス」10月号に寄稿した原稿を元にコラムとして作成したものです。)