特集「震災から5年~福島の復興と再生に向けて」 丹波史紀福島大学行政政策学部准教授

2016年5月12日

 インタビューシリーズ4回目では、福島で災害復興について研究するとともに東日本大震災の支援活動で活躍され、原産年次大会にも登壇いただいた丹波史紀福島大学行政政策学部准教授にお話を伺った。

TanbaMaincutIMG_7196Q:震災当初と現在で福島の状況にどのような変化があったか。
A: 震災直後は原子力発電所の事故という未曽有の災害に対する経験もノウハウもなく、自分たちがどう向き合えばいいのか、行政機関、市民、県民の中でも錯綜していた状況だった。また、自然災害ではなく事故であることから、住民には国、県、原子力関係事業者に対する憤りや苛立ちがあり、国や事業者もどのように被災地と関わればいいのか身構えながら接していたように感じる。
 震災から5年経ち、事故の教訓や課題の検証は必要であるものの、徐々にではあるが責任の押し付け合いばかりでなく、お互いがどう地域に向き合っていくかということについて冷静に議論できる環境になってきている。石崎芳行東京電力ホールディングス福島復興本社代表のように、南相馬、双葉郡、川内村などの被災地域に自ら入っていき住民と一緒になって議論している人もいる。また、東京電力の社員がボランティアなどの地域活動を行っている姿を被災地で見ることもある。廃炉を考えると今後30年以上の長い道のりであり、特に東京電力とはどんなかたちであるにせよこれからも地域として関わりを持っていかなければならないことに変わりはない。住民の間では、納得し許すというところまでには至ってないが、地域に向き合う東京電力の姿勢は理解されてきている。
 福島では、お互いの立場の違いを理解しながら自分はどうしていくのかについて考えるということを多くの人が経験した。県民が学んできたこのような経験が活かされ、お互いに罵り合ったり一方的に断罪したりするのではなく、自分たちができること、やってほしいこと、ともに取り組んでいきたいことなど、一緒に考えていく土壌が出来てきたのではないかと思う。

Q:丹波先生は2004年の新潟県中越地震で全村避難した山古志村の支援にも携わられていたが、今回の状況と比べるとどのような違いがあるか。
A:中越地震が起きたのは、福島大学に赴任した直後だった。隣県でもあり、何かできることはないか学生たちとともに話し合い、避難所での支援活動を出発点として、その後の仮設住宅への移動なども含め、学生とともに支援を行った。山古志村では震災直後に9割が「村に帰りたい」との意思を持っており、復旧に時間はかかったが「みんなで山古志に帰ろう」というスローガンを掲げ、3年を一つの目安として徐々に村へ帰る人たちも現れ始めた。
 自治体全体が避難を余儀なくされたという点は同じだが、福島には放射線に対する不安がある。放射線についての考えはいろいろあるが、低線量とはいえ地域に影響をもたらしたことは事実だ。被災地では、「廃炉作業の際に同様の事故があった場合、また避難しなければならないのではないか」という考えも根深くある。福島では時間軸の設定が困難となっている。住民が戻るまでに長い時間がかかる上に、「この時点になれば大丈夫」となかなか言い切れないところが、自然災害との相違点だ。復旧・復興の目処をどう設定していいのか自治体も悩んでおり、まして住民はどの時点で生活の再建をすればよいのか見通しを立てることが非常に難しい。

Q:2011年に避難生活を余儀なくされている一万世帯に対して行ったアンケートで、特に心に残っていることは。
A: 1番印象的だったのは、自由記述部分に本当に沢山の思いが書いてあったことだ。まだ震災から半年後で、放射線に対する不安、帰還の見通しが立たないことへの苛立ち、そして地域をどうしていくのか、もう戻ることができないのではないか、という声があふれていた。紙を付け足してまで丹念に書いている人もおり、「自分の思いを理解してほしい、聞いてほしい」という気持ちが伝わってきた。1世帯に1通では足りず、夫婦それぞれで意見が違うからと別に書いて後から送り直してきた人もいる。
 これだけの大きな経験をどう伝えていけばいいか考えている人がとても多かった。避難を余儀なくされた人が語り部として経験を伝え、教訓を後世に広げている例もある。調査もこれで終わりではなく、今後に伝えていくことも大事だと考えている。統計的な処理をしたデータは基本調査として先に発表していたが、この声の一つ一つが大事だと思い、自由記述部分だけを設問ごとにまとめた冊子を新たに作り直した。かなり分厚く重いが、これが住民の声の重みでもある。後々の経験や教訓として、また学術的な観点からも貴重な調査だったと思う。

Q:調査、研究、政策提言、支援活動など、精力的に活動されている丹波先生のエネルギーの源はどこから生まれているのか。
A:自身は愛知県出身で、学生時代に阪神・淡路大震災が起きた。当時はボランティア元年と言われ多くの学生やNPOが被災地に飛び込んでいったが、自身は直後にほとんど携わらなかった。大学院で仮設住宅や復興住宅に暮らしている住民のヒアリング調査に関わった時に、なぜ早く現場に行って向き合わなかったのかと、ずっと反省してきた。この時の個人的な体験が動機となって、新潟で地震が起きた時は3日後には現地に行って支援活動を始め、今回の支援活動にもつながっている。
 また母方の祖父は広島の被爆者であり、核や平和については昔から関心が高かった。広島や長崎は原爆で大きな被害を受け、当初は今後60年草木が生えないと言われていた。しかし今では大都市へと発展し、世界の人たちが平和について考えるための大事な場になっている。こうして広く知られる存在となったのは、誰か一人の偉人が大きなことをやりとげたからではない。名もなき被爆者たちが平和への思いを持ち続け、語り部になったり証言したりしてきたことが、今の国際平和都市への道につながっている。福島も将来的には、世界に新しい価値を創造していける誰もが無視できない存在となることを期待している。
 福島第一の事故は、避難した人ばかりでなく多かれ少なかれ誰でも当事者になり得る。自分ごととして考えてくれる人や、福島から何ができるか考えていける人が増えてほしい。一人でも二人でも思いを共有できる人が増えればと思って、今もこうした活動を続けている。

Q.これからの福島を担っていく若者たちにどのようなことを期待しているか。
A.震災当時小学生だった子どもも、すでに大学進学などを考える時期になっている。海外の国際会議で福島県の中学生が被災地について発表したり、他校との討論の場でも福島県の高校生が議論をリードしたり、能力のある生徒がどんどん育っている。若い子どもたちは経験を素直に自分の中で消化して活かしている。こうした子どもたちの力を伸ばしていくのが社会の役割であり、福島でもっと実現させていければと思う。
 福島大学では、震災以降「福島未来学」という4つの学類による全学横断的な教育プログラムを展開して4年目となる。原子力災害の経験を踏まえて地域再生のスキルを学び、社会の担い手としての課題解決力を持った人材を育成している。また、福島大学の学生は「いるだけ支援」という災害ボランティアを行っている。一方的な支援ではなく、仮設住宅に泊まりこみ3か月単位のローテーションで生活すると、住民としての目線から色々な問題が見えてくるというものだ。
 原子力災害を経験して福島にはいろいろな課題が現れたが、そこに挑戦していこうという志を持った人がこの5年間で非常に多く生まれた。福島にゆかりのある人たちが開催している人材育成プロジェクト「ふくしま復興塾」からは、起業家となって新しいアイディアをビジネスとして展開している人や、自治体職員として行政の中で課題を説明して事業化につなげていく人などが生まれている。困難な課題があるから後ろ向きになるというのではなく、課題を解決する社会的意味・意義を感じている志の高い人たちが、特に若い人を中心に増えていると思う。ケア・医療スタッフの不足をはじめ地域全体が労働力不足になっていることなど、今の福島が持つ多くの課題は、30年後の日本の社会が抱える問題と共通する。この課題に挑戦すること自体を未来の日本社会における課題解決モデルケースにしていこうという意欲を持っている人たちが多い。イノベーションコースト構想のような国の取り組みだけでなく、県民自らが課題にチャレンジする動きがこの5年でかなり芽生えた。

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第49回原産年次大会福島セッション

Q:福島での新しい挑戦から生まれた成功例について教えてほしい。
A.例えば、大熊町から会津地方に避難した女性たちが会津木綿を使って手仕事を始めたところ、各メディアに取り上げられ、その姿勢が共感を呼んで、販売網を広げている。ここの商品の一つに、会津木綿を使用した布製の祝儀袋がある。手近なところで買える一般的な祝儀袋は1回限りの使用だが、この商品は祝儀袋として利用した後にハンカチとして再利用できる。「使い捨て文化の大量消費社会でよいのか」というメッセージも感じられ、ものを大事にしようという提案にもなっている。震災の教訓として社会が投げかけた課題をきちんと受け止め、人々の新しい暮らし方そのものをデザインした商品へ発展させている。一方的に支援を受けるばかりでなく、福島から日本社会に新しい価値を創造していくようなケースが徐々に生まれてくることが大事なことだと思う。
 重度心身障がい児童の入所施設を作った「社会福祉の父」と呼ばれる糸賀一雄氏は、「『この子らに世の光を』ではなく『この子らを世の光に』していかなければ」と、障がいがあるから同情や憐みをもって支援しなければという上から目線ではなく、この子ら自身に発達の可能性があり、そもそも子どもたちの中に光るものが存在しているという言葉を残している。今の福島も風評や風化などの問題を抱えているが、福島に目を向けなければいけないという発想ではなく、福島自身が新しい文化などを発信していき、面白い地域であることや新しい文化や価値を創造していく場所であることを伝えていきたい。福島県には、日本全体、ひいては世界も牽引していく光になっていく可能性がある。
 困難に向き合っていく状況は、一方でやりがいもある。今回の原産年次大会福島セッションのパネリスト全員が言及していたが、自分が動くことで何かが変化したり動いたりしていき、様々なところに影響していくことがダイレクトに実感できる地域であることが今の福島の特徴だ。課題にチャレンジすることは、社会や地域を変えていく可能性があると同時に、自分自身を変えていくことにもなる。

Q.丹波先生としては復興した福島の姿をどのように思い描いているか。
A.何よりも大事なのは人間としての復興だ。道路などのハード面が復旧しても、住民が戻ってこなかったということでは意味がない。健康で文化的にも豊かな暮らしを安心して送ることができるというソフト面での再建が大事だ。この点においては、国や県や自治体、東京電力はもちろん、県民自身それぞれが担うべき役割がある。
 もう一歩進んで、福島で暮らし生きていくことに誇りや尊厳などを持てるようになっていくことが理想だ。その気持ちが震災前以上になれれば本当にそれが復興だと思う。大変な経験をして本当に苦労したけれど、やはり福島で生まれ育ってきたことが今の自分につながっていると思ってもらいたい。学生や若い子からは、「確かにいろいろな困難はあったけれど、震災がなかったら出会うこともなかった人と出会えたし、行くこともなかった地域に行けた」、「自分が学ぶことの意味をもう一度問い直すことができた」といった声もよく聞く。最後には、「苦労はいっぱいあったけれど不幸ではなかった」と言えるといいと思う。

<取材後記>
 復興の姿として「福島で活きていくことに尊厳を持てるようになること」と語る丹波准教授から、被災した一人一人の声にじっくりと耳を傾けてきたからこその強い思いが伝わってきた。福島から次々と意欲的な試みが生まれ、県民自らの力で新たな価値観の創出や未来の課題解決へとつなげていっている様子を聞いて、今後の本格的な復興に大きな可能性を感じた。(中村真紀子記者)