vol03.「ちょこっと意見が増えたから」なんですよ

脱原子力 ドイツの実像

ドイツの脱原子力政策のそもそもの発端のようなものはあるのでしょうか?

 それは間違いなくチェルノブイリです。我々は中学三年生でした(笑)
 チェルノブイリ事故によって、原子力という存在が「人間に害悪を及ぼす面がある」ということを多くのドイツ人が認識するようになりました。緑の党に連なる環境保護運動はそれ以前からありましたし、原子力発電所の建設に反対する地元の運動なども1970年代から見られましたが、脱原子力の流れが勢いづく発端としてチェルノブイリは無視できないですね。
 脱原子力政策を実際に法律のレベルまで持って行ったのは、SPD主導のシュレーダー政権の時ですが、あれはSPDと緑の党の連立政権でした。労働組合に支持基盤があるSPDは元々成長志向でして、その点からすると、原子力発電は安価に大量のエネルギーを供給し、産業を活性化してくれるということで、ありがたく見える。1970年代頃までのSPDは、原子力については賛成のスタンスだったのです。
 それが転換するのは、一つには党内で「緑の党のように高学歴でリベラルな考え方を持った人に支持基盤を求めていくべきだ」という意見が強まったことと、もう一つはチェルノブイリの問題です。原子力発電は便利かもしれないけれども何かあった時に大変だと。

 

工業国ドイツのイメージですと、もっと科学的に、「多少のリスクは技術力で抑え込む」というような考えをするのかと思っていましたが、意外とemotional なところがあるのでしょうか?

 うーん、私はそうは思いません。
 というのは、先ほどもお話しした通り、ドイツにはいろいろな立場を持っている人がいます。そして、そこから政策決定の場にあがってくるいろいろな要素の間の、複雑な力学の結果として生じているバランスの上に、ドイツの政策は成り立っています。ですから、そのバランスをちょっとでも変えるような事件が起こると、必然的に政策も変わるわけです。
 それは「大勢の人が意見を変えたから」ではなくて、政策を決めるレベルのところで「ちょこっと意見が増えたから」なんですね。そもそも、脱原子力の意見がかなりあったが故に、シュレーダー政権は脱原子力政策の立法化ができたわけです。
 そうした綱引き状態のところでは、バランスがちょこっとブレただけで、全体の傾きを大きく変えてしまうことがありますよね。それだけの話なんです。
 チェルノブイリ事故の時は、「あれはソ連がやったことだ。共産主義だし、情報もいい加減な国だ。我々とは違う」という理屈がある程度通用することもありました。ですが福島第一事故は、日本で起きてしまいました。ありがたいことですが、ドイツで日本は「世界最高水準の技術力を持っている連中」と考えられています。その日本でも途轍もない地震や津波が来ると事故が起きてしまった。
 福島第一事故の後、ドイツでは国内の原子力発電所が安全なのかどうかを検証するストレステストが実施されました。そこで出た結論は「故意に旅客機が衝突した場合、ドイツの原子力発電所は事故に至る」というものでした。イスラム過激派のような連中がもう一度旅客機を乗っ取り、原子力発電所に突っ込むようなことがあれば、ほぼ確実に事故が起きるということです。

それは極端な割り切り方ですね…

 もう一つ、原子力発電所がネガティブに評価される原因になっているだろうなと思うことがあります。
 ドイツの原子力発電所は基本的に内陸の川沿いにありますよね。しかも南に立地しています。南の方が工業先進地域なので電力需要が多いからです。ドイツはアルプス山脈が南にあって、そこから北に向かって川が流れていますので、原子力発電所は川の上流に立地しているワケです。となると原子力発電所で事故が起こった場合、放射性物質が川に流れ込んでドイツ中を流れて汚染させることになります。ライン川のような川は特に、人口密集地を流れていきますから。これが、海岸に立地していた福島第一原子力発電所とは事情が違うところです。
 もちろん福島の人々が苦しんでいらっしゃることは承知しておりますが、海というものはすべてを希釈してしまいますし、東京や大阪のような大都市圏に直接流れてくるわけではないですから、その意味での影響は少ない、というか見えにくいですよね。しかしドイツでは川ですから希釈されませんし、人口密集地を直撃します。これは日本から見るとわかり難い感覚ではないかなと思います。
 これに近い例を日本で探すと、浜岡原子力発電所のケースですね。福島第一事故後の2011年5月に、当時の菅政権が「政治的判断」により浜岡原子力発電所の運転停止を要請した事件です。浜岡原子力発電所で事故が起こると、大動脈である東海道新幹線や東名高速が止まり、東京には放射性物質が流れてくると騒いで止めましたよね。止めたことについて、事業者はともかく、世間は誰も文句を言いませんでした。大きな声では言えないでしょうが、東京が汚染されたら大変だということで誰も文句を言わないワケですよね。
 ドイツ人もそれと同じで、ドイツの原子力発電所で事故が起きると、自分たちの町に災害が降りかかってくることになります。したがって脱原子力に判断が傾くというのは、それはそれで理屈は合うなと思えるんです。

そこにドイツ人気質のようなものがあるのでしょうか?

 こう言われると彼らは嫌がるとは思いますが、ドイツ人は「とことん理屈で考える」人たちです。
 たとえばさきほどのイスラム過激派が旅客機で原子力発電所に突っ込むという想定ですが、日本だと「確率が低くて考慮に値しない」という判断が出てくると思うんです。しかしドイツ人の感覚からすると「ありうる」ということになってしまうのです。
 ニューヨークで9.11が起こった。日本で福島第一事故が起こった。どちらも現実に起こっている。「今後は事故が起こらないように、より一層安全性を高めます」と言われても、ドイツ人は納得しません。彼らにとって事故が起こったという事実は「実証されている」「証明されている」という言い方になり、非常に重みを持つのです。
 「実証されている以上、なぜ安全だと言えるんだ? 現に事故があるじゃないか。あるものをないというのか?」という理屈になるのです。そう言われてしまうと反論するのは結構大変です。
 日本では「東大話法」と揶揄されましたが、「まったくないとは言い切れません」というのがありましたね。これはドイツで言うとストレートに「ある」という意味になるのです。これを「ドイツ話法」と名付けてもいいかもしれませんね(笑)
 もう一つ日本と違う点は、キリスト教的な要素です。
 ドイツでも世俗化が進んでいますので教会の影響力は低下していますが、社会的には今でも尊敬される存在です。その教会の立場からすると「人はパンのみにて生くるものにあらず」でして、電力の安定供給とか経済成長という話は、少しは大事なのですが、やはり一番大事なのは神様の問題なのです。
 神が創った存在であるところの自然や人間というものは、お金の問題に比べるとプライオリティが高いワケです。今でも妊娠中絶はカトリックの場合はダメですし、生命倫理の問題でも生命の操作につながるような話にはものすごく抵抗感が強い。そして原子力の問題ということで言うと、放射線によって遺伝子が傷つけられるという生命の問題になり、彼らからするとイヤな話になってしまいます。
 メルケル政権が実施した原子力問題に関する検討には二通りのルートがあって、一つは科学者たちによる科学的な事故リスク解析です。「故意に旅客機が衝突した場合、ドイツの原子力発電所は事故に至る」と結論付けたものですね。もう一つが、哲学者、社会学者、教会関係者らも加わった、「原子力は社会の中でどうあるべきなのか?」という倫理的な問題を審議する諮問委員会でした。そこには電力業界の人は入れてもらえませんでした。
 その諮問委員会では、どうしても原子力に対してネガティブな方向に議論は進みます。キリスト教的な発想と倫理意識というものに裏打ちされて答申が出されますので、教会に真面目に通うような人たちはもちろん、普通の人たちにとっても、耳を傾けるべきものとして受け取られます。
 答申ではいろいろなことが書かれていますが、教会の影響が見て取れる主張として、「原子力事故のリスクは人間の予測能力を超えるものである一方、その被害は将来世代にまで及ぶ甚大なものなので、原子力発電をやめて、もっとリスクの低いエネルギー生産手段に代替していくことこそ、キリスト教の伝統が求める『後の世代への責任』を果たすことになる」というものがあります。メルケルはこの答申を受け入れ、脱原子力を正当化する旗印に使いました。


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