原子力産業新聞

福島考

震災以降、医師として福島県浜通り地方に関わり続ける筆者が、地元に密着した視点から記すコラム。

「サン・チャイルド」撤去の象徴したもの

01 Oct 2018

8月末のことです。震災後から福島市に設置されていた、防護服を着た子どもの像「サン・チャイルド」の撤去が決まりました。「サン・チャイルド」は、防護服を着た子どもが空を見上げている、6mほどの高さの像です。ヘルメットはかぶっておらず、胸のガイガーカウンターのカウントは「000」。見る人に強い印象を与える作品だと思います。この像の撤去が決まった理由は、住民の方から

「当時子どもが防護服を着ていたという誤った印象を与える」

「福島=放射能という風評被害を増長する」

「胸につけられたガイガーカウンターの数値『000』が、自然放射線量と矛盾する」

など、多くの批判を受けたため、と言われています。
ただし、この意見が多数派であったかどうかは分かりません。

この像の撤去が決まった理由は、住民の方から
「当時子どもが防護服を着ていたという誤った印象を与える」
「福島=放射能という風評被害を増長する」
「胸につけられたガイガーカウンターの数値『000』が、自然放射線量と矛盾する」
など、多くの批判を受けたため、と言われています。
ただし、この意見が多数派であったかどうかは分かりません。

「批判する人の気持ちも分かるが、個人的には残してほしかった」
という声も、県内では少なからず聞かれたからです。
それでも住民の心を傷つけ得るという観点から、この像は撤去せざるを得なかったようです。

私は、この事件の一番の論点は、
「サン・チャイルドの是非ではなく人を傷つける芸術や発信は存在してはいけないのか」
という点にあると思います。

先日、あるドラマの登場人物が東日本大震災で亡くなる、という内容に対し
「泣かせる場面のために震災を利用するのは被災者に失礼だ」という批判があったようです。
場面は福島ではありませんが、根底にある問題は「サン・チャイルド」と同じなのではないでしょうか。

もちろん意図的に人を傷つけること自体は避けるべきです。表現の自由という名目で許されていいのか、と疑問に思う文言も、世の中には多々見かけます。しかし一方で、人を傷つけない発信というものはあり得るのでしょうか。サン・チャイルド撤去の問題は、そういう命題を私たちに突き付けていると思います。

風化を加速する加害者意識

福島の事故から7年半が経ち、福島のことを発信する人は減少の一途にあります。未だ帰還困難区域が残り、語るべきことが山積みである現状を考えれば、その減少のスピードは普通の風化よりも早すぎる、という印象があります。ではなぜ人々は福島から離れるのか。その1つの原因に、事故の後から続いている福島特有の厄介さがあるのではないでしょうか。

福島の厄介さ、というと、発信の揚げ足を取られて炎上することを思い浮かべる人も多いでしょう。実は、それ自体は大したことではありません。自分が無視すればよいだけだからです。私はむしろ、発信をする度に「誰かを傷つけた」と非難される。その経験こそが、福島に関わろうとする人々を遠ざけているのではないか、と考えています。

たとえば原子力発電所の事故の直後に「福島は危険だ」という発信した方はたくさんいました。その発信が徒に人を傷つけたことは事実です。しかし当時の乏しい情報の中で、本当に善意でその発信をした方々も多かったのではないでしょうか。そういう方々が、今の福島に改めて関わろうと思ってくれるのか。最近になりそんなことが気になります。

加害者の逆転現象

なぜかといえば、現在、その反対の現象も起きているからです。つまり、善意で福島の復興や放射能の知識などを伝えようとした人たちが、人を傷つけてしまう、という現象です。

たとえばこれまで福島に関わったことのない人が、簡単な言葉やポップな表現で放射能を説明する。福島とチェルノブイリを比較する。福島の帰還が進んでいることをアピールする。そういう手段をとったとすると、どうなるでしょうか。

「こんなふざけた表現で語るなんて、福島で苦しんでいる人を馬鹿にしているのか」

「チェルノブイリと比較すること自体が風評被害だ」

「帰還が進んでいるとアピールすることは、帰還できない人に対して失礼だ」

そういう批判は、必ずどこかから湧いてきます。それがSNSで拡散すると、まるで何百人もの人に一斉に攻撃されているような感覚に陥るのです。

これまで福島で発信してきた人であれば、だれもが経験したことのある感覚でしょう。そこには学ぶべき批判もたくさんあります。しかし初めて関わろうとした人にとっては、自分が誰かを傷つけている、と批判をされること自体が大変なショックのようです。

善意の人ほど、自分が加害者となることに対してはとても脆弱です。新たに福島とかかわろうとして1回きりでやめてしまった方々、7年半の間に福島を離れてしまった方の中には、そういう傷を負っている方も少なくありません。

発信で人を傷つけることは良くないことでしょう。では、「誰かが傷つく」ことを免罪符に善意の発信者をどこまでも、いつまでも傷つけることは許されるのでしょうか。SNSの普及により発信者と受信者の強弱関係がますます曖昧になる今、改めてそれを問うべきではないかと思います。

発信の毒と薬

もちろん明らかに間違った発信であれば、それは修正されるべきです。しかし、前にも述べた通り、誰も傷つけない発信はあり得るのでしょうか。先日グラフィックレコードの第一人者の方にお話を伺った時に、グラレコでも人は傷つきますか? と質問したことがあります。その方は
「たとえばイラストのほうれい線1本で人は傷つきますよ」と即答されました。伝わりやすさと表現と有害性。それは容易には分離できません。

たとえば医者は薬を使います。そして薬には必ず一定の確率で副作用が起こり得ます。副作用を恐れて「毒にも薬にもならない」治療ばかりをしていては、本来の医療の目的は果たせないでしょう。日々の診療で薬の副作用に苦しむ患者さんのを目にしたとき、医者自身もその「加害者意識」に傷つきます。それでも多くの医者は、医療を提供し続けているのです。

発信についても、同じことが言えると思います。発信する人がいなければ伝わらない。その結果人を傷つけた時、それで発信をやめるのではなく、反省して次の発信に生かすことこそが大切なのだと思います。

寛容と復興

よく言われることですが、医者は患者に育てられます。言葉遣いや態度が適切でなかったり、注射の仕方や副作用に対する配慮が足りない時、それをたしなめてくれつつも診療を続けさせてくれる患者さんがいる。その患者さんの寛容に、多くの医者が育てられてきました。
同じような寛容を、新たに福島に関わろうとする人々に対して持てないか、と思います。たとえ不適切な表現や正しくない情報を意図せず発信してしまった時、それをたしなめつつも「じゃあ、次。」と次の機会を与えられる。そんな環境は作れないでしょうか。これはよそ者の無責任な感想かもしれません。しかし人を傷つけないことを気にするあまり「毒にも薬にもならない」発信が増えるくらいならば、熱意のある人が失敗しながらも関わり続けてほしい、と思ってしまいます。

「サン・チャイルド」のように福島に関わり、福島を発信しようとする人が住民の方を傷つけることは、これからもあるでしょう。その時、これまで福島で少なからず失敗をし、学んできた人々が、自分が受けてきた寛容をその発信者に返すことができるのか。福島の風化を止める種はそういうところにあるのではないでしょうか。

日本全体で失われつつある「過ちに対する寛容」が、福島の復興と共にあればいいな、と思います。

越智小枝Sae Ochi

Profile
東京慈恵会医科大学臨床検査医学講座 主任教授
1974年生まれ。東京医科歯科大学卒。都立墨東病院医長などを経て、インペリアルカレッジ・ロンドンで公衆衛生を学び、東日本大震災を機に被災地の医療と公衆衛生問題に取り組んでいる。

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