原子力産業新聞

福島考

震災以降、医師として福島県浜通り地方に関わり続ける筆者が、地元に密着した視点から記すコラム。

境界線の内側

16 Feb 2018

東日本大震災以降、福島大学では毎年2回、「Fukushima Ambassador Program (FAP)」という交換留学が行われています。留学生が2週間かけて福島の被災地を巡り、ホームステイをして、人の暮らしや風評被害の現状を学ぶというものです。第1回目の開催はなんと2012年の5月。日本国内ですら福島を訪れることをためらう人がいた時期でした。

「最初のツアーの時には、アメリカから学長宛てに赤いペンキで塗られた手袋が送られてきたんです。『私の国の学生を殺す気か。お前たちの手は血塗られている』という内容のメッセージが添えられていました。」

FAPの主催者である日系カナダ人、マクマイケルさんから聞いたお話しです。「カナダの新渡戸稲造になるのが夢」「福島好きなら誰にも負けない」というマクマイケルさんは、それでも海外と福島の橋渡し役になることをあきらめませんでした。世界各国を訪問して地道な広報活動を続け、今年の2月までに行われたFAPツアーは12回、迎えた留学生の数も150名を超えています。

12回目のツアーでは、これまでにない試みがありました。これまで福島しか見学していなかった学生が東京にやってきて、風評被害についてのイベントに参加したのです。登壇した学生の素直な感想が胸に残りました。

「私は福島のことはニュースでしか知らなかったし、周りの人も『怖い場所』としか語らない。それは自分が遠い国に暮らしているからだと思っていました。東京に来て、同じ国の中のこんな近い場所ですら福島のことを知らない人が大勢いる、ということを聞いてびっくりしています」

たった200kmしか離れていない福島と東京。この距離はチェルノブイリ原発とベラルーシの最南端よりもはるかに近い距離です。海外から見れば、そんなに近くに住んでいる東京の人々が福島の事故を他人事と思っていることは、不思議に見えるのでしょう。

今、福島の周りには様々な境界線が引かれています。関東と関西、東北と関東か、福島と他県、浜通りと中通り、といった地理的な境界線。賠償金の有無、津波被害の程度、強制避難か自主避難か、小さなお子さんがいるかどうかといった社会的な境界線。その様は、被災の度合いがそのまま人の心に越えがたい壁を作っているかのようです。

もちろんその原因は悪意や偏見によるものだけではありません。

むしろ「不幸な体験を共有していない人は福島を語ってはいけない」という、日本人独特の遠慮もまた、人の心に境界線を引く一因となっているように思います。

「私は福島に行ったこともないし、支援もしてあげられなかった。だから福島のことを語る資格はないんですが…」

何かをしたいけれども、それは無神経になってしまうのではないか。東京の講演会ではそういう声もよく聴かれます。たしかに私も含め、よそ者が無責任に「明るい福島」を喧伝することは、時に福島に住む人々を傷つける可能性があります。今の明るい福島は、過去の事実を「上書き」した明るさではないからです。

「何かイベントをするたびに『被災者が笑うな』『お前は被災者らしくしてろ』っていう電話がきますよ」そう呟いたお母さん。

「今でも避難先で苦しんでいる人がいるのに、復興、復興って能天気に騒ぐな!」と叫んだ高校教師。

「お役所仕事には期限があるけど、俺たちは一生『福島』を続けなきゃいけないんだ」苦笑いしながら語っていた男性。

今の明るい福島は、そんな辛い現実に根を下ろしつつも未来へ向かおうとする人々が作り上げた、強くて深い社会である、ということを私たちは決して忘れてはいけないと思います。それでも、海外からみればやはり私たちは同じ顔をして同じ言葉をしゃべり、同じ国土に住む日本人であって、その間に深い溝があることは、不思議に映るのではないでしょうか。

ちょっと視線を変えれば、私たちはみな、福島という境界線の内側にいます。人としての礼儀を保ちつつ、でも遠慮をせずに皆が福島の内側の人間として学び、語れること。風評被害の払拭とはそういう所にあるかもしれないな、と思います。

越智小枝Sae Ochi

Profile
東京慈恵会医科大学臨床検査医学講座 主任教授
1974年生まれ。東京医科歯科大学卒。都立墨東病院医長などを経て、インペリアルカレッジ・ロンドンで公衆衛生を学び、東日本大震災を機に被災地の医療と公衆衛生問題に取り組んでいる。

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