原子力産業新聞

福島考

震災以降、医師として福島県浜通り地方に関わり続ける筆者が、地元に密着した視点から記すコラム。

続くために、消える。

26 Dec 2019

「家にも道路にも伸びきった雑草、ネズミやハクビシンに荒らされた屋内、延々と並ぶ黒いフレコンバッグ…、避難指示が解除されたばかりの土地は、新たな人生の始まりにも、ましてや終の棲家にもふさわしいとは言いがたい風景です。」

福島県南相馬市小高区の避難指示が解除された2016年、私自身が書いた文章を読み返してみました。今の小高を知る人は、なんて失礼な表現だ、と眉を顰めるかもしれません。しかし当時、一部の地域を除きこの表現はそれほど間違っていなかったと思います。

今、小高の町並みはすっきりと整えられ、震災の後に生まれた約100人の子どもたちも含めた約3600人がそこで暮らします。原発事故の前の人口13,000人に比べれば、まだまだ復興途上だという方もいるかもしれません。しかし冒頭のような風景がたった3年間でこれだけの日常を取り戻すとは、誰も想像もしていなかったのではないでしょうか。

ゼロから蘇り、今も変わり続ける小高。それはまるで長い小高の歴史と風土が人々を導いているようにすら見えます。

生き残るという歴史

小高は相馬藩発祥の地であり、1000年以上の歴史を誇る城下町です。現役の殿様を持ち、野馬追に受け継がれる古い馬文化が自慢の相馬藩ですが、実はその長い歴史において大きな戦に勝った経験はほとんどありません。南北朝時代には南朝軍の攻撃により小高城が陥落。その後2世代かけて城を取り戻しましたが、関ケ原の戦いでは佐竹藩に組したため一度は領地を没収されています。佐竹藩は秋田へ飛ばされてしまいますが、相馬藩は伊達藩の執り成しにより、かろうじて領地が返還されます。さらに戊辰戦争においても明治政府軍に抵抗。しかし敗色濃厚となると即座に降伏し、生き延びるのです。

「この土地は常に、生き残ることだけを大切にしてきたんです」

小高区の歴史に詳しいAさんは、その転向続きの歴史をむしろ誇らしげに語ります。

「天保の飢饉の時には、人口が激減した街に宗教も文化も全く違う移民大量に受け入れました」

戦に負けても、伝統が変わっても、人が生き残ること。それが今も小高を支える思想であるように見えます。

駅前通りに作られた「小高交流センター」には、元呉服屋さんをリフォームしたという日本家屋があります。中で売られているのは、色鮮やかなサーフボード。

「南相馬は波が良くてサーフィンが盛んなんですよ」

南北朝時代を語る口調のまま、サーフィン自慢をするAさん。サーファーが集まる浜辺には春になると騎馬武者が現れ、800年以上続く祭り「野馬追」の練習をするそうです。騎馬とサーファーが行き交う町。それは、生き残るために変化を恐れない相双の歴史の象徴なのかもしれません。

消えていく、という健全

そんな小高に住む人々にとって、再興とはどんなものなのでしょうか。

「地域の復興のために大企業を誘致することも必要でしょう。しかし原発事故の後明らかになったように、大企業誘致は依存を生みます。そこから脱するためには、小さな事業がいくつも現れては消えていく、そんな環境が必要です」

小高でベンチャーの起業を支援するWさんはそう語ります。

「消えていくことも必要ですか?」

私が尋ねると、Wさんは頷きました。

「消えたらまた作ればいい。それが健全な状態でしょう」

小高に移り住んだMさんもまた、失敗を繰り返すことの大切さを地元の若者に教えたい、と語ります。それを伝えるため、Mさんは自身の経営する喫茶店で、地元の高校生たちとしばしば実践的なグループワークを開いています。学生のアイデアを取り入れた商品を店頭に並べ、売り上げを示すこともあるそうです。

「卒業して社会に出て生きていくためには、学生のうちに仮説-実行-検証というプロセスをたくさん積ませてあげること。失敗してもよい、と思えることが大切です」

しかし矛盾するようですが、若者に失敗してもいい、と言ってあげるために、自分自身は生き残る責任がある、とMさんは自覚されます。

「自分の役割はとにかく『死なないようにする』こと。でもそのためには生き残る最低ラインを設定すればいいだけです」

震災前には小高と縁もゆかりもなかったというMさん。しかしその姿はそのまま小高の歴史に重なります。

老舗のない伝統の町

相馬地域の不思議なところは、その歴史の長さの割に老舗の看板をほとんど見かけないことです。地元の方に聞くと大概は

「そういえばそうですねえ」

と、初めて気づいた、という反応をされます。特に飲食店はその傾向が強いようです。

「行きつけの店でも、代替わりして味が変わったら客は離れますね。のれん分けという文化もあまりない。和食の店の子どもがいきなり洋食屋を始めてしまったりしますし」

店という生きた証を残そうとは思わないのか?小高で町作りに奔走するHさんに聞いてみたところ、

「あまりないでしょうね」

とあっさりした答えが返ってきました。4年前、避難指示解除前の小高に戻ってきたHさんは、小高の町中に避難先で育てた花を植え続けました。その花壇も今は跡形もありません。

「需要は時代によって変わるから。必要になったら花はまた植えればいいんです」

1000年を生き延びた歴史と文化を誇りつつも、「消えてもいい」と自然体でそう語るHさんたちの言葉に、方丈記の有名な一節が浮かびました。

ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし

事故の後、避難指示解除の地では数々の試みが生まれ、そして消えていきました。都会の尺度でそれを見て、負けた、無駄であった、と言う人もいるかもしれません。しかしその淘汰は時代が変わっている証。様々な泡沫を飲み込んで長い歴史を紡いできた小高の町は、消えることの大切さを私たちに教えてくれます。

越智小枝Sae Ochi

Profile
東京慈恵会医科大学臨床検査医学講座 主任教授
1974年生まれ。東京医科歯科大学卒。都立墨東病院医長などを経て、インペリアルカレッジ・ロンドンで公衆衛生を学び、東日本大震災を機に被災地の医療と公衆衛生問題に取り組んでいる。

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