原子力産業新聞

福島考

いぐねと自由意志

01 Dec 2022

浜通りと東京では時間の流れ方が違う。そう感じることがしばしばあります。それは単に風景や生活のテンポが違うというだけではなく、そもそも「自分」を形作る時間の単位が異なるのではないか。2つの県を行き来する間に、そう感じるようになりました。

時間を超える「我が事」

20年後にはこの村はなくなっているかもしれない。でも200年後にはまた人が住んでいるかもしれません」

帰還困難区域の近くで林業を営む方が、木を育て続ける理由について語った時の言葉です。一旦消滅して再び芽吹くかもしれない「この村」を、今の自分の延長として自然に想像できる。そこには都会では見られない未来との一体感がありました。

東北地方では、子孫が建材や燃料として利用できるよう、家の周りに「いぐね(居久根)」という屋敷林を植える文化もあります。いぐねが育つ先の未来が暮らしの一部となっている方々にとって、200年というのは大した長さではないのかもしれません。

このような時間を超えた「我が事」は、過去に対しても同様に見られます。たとえば東日本大震災と大津波の後、津波被災地の方々が真っ先に行ったことは、先祖代々のお墓を建て直すことだった、という話をよく聞きます。その行動を

「お墓はここの人たちにとってはアイデンティティの一部だから」

と説明される方もいました。またご自宅が中間貯蔵施設の敷地内となった方の中には

「たった数十年使えないだけでこの土地を手放したら、ご先祖に合わせる顔がない」

と言われていた方もいます。

命の長さ

過去はおそらく生物体にとって、また意識的存在にとっては確実に、一つの現実なのだ。流れた時間は恒存的だと想定されている体形にとっては何の得失にもならないが、生物にとっては多分、また意識的存在にとっては異論の余地なく利得なのである。このような条件の中で、時間の作用に従いつつ持続を蓄えながら、まさにそのことによってエネルギー保存の法則を免れるような或る意識的力ないし自由意志というものがあるのではないか。」

これはベルグソン「時間と自由」の一説ですが、家のまわりにいぐねを育て、お墓を自分のアイデンティティとして大切に守る方々の中には、正にそんな自由な命の在り方が息づいていると感じます。200年前のご先祖も、200年後の村も自然に「我が事」の延長にある。それは逆に言えば自身の命が空間・時間の中で自在に形を変えて生き続けていることを意味するのではないでしょうか。

生き残る自己

今、競争社会が激化する中で「国家生き残り」「地域生き残り」といった言葉をしばしば耳にします。一方で競争を回避するための「自分らしさ」を追求する人もいます。しかし、その中で生き残る国家や地域、自分とは何なのか。それは多くの場合、他者とは隔絶し、短い時間や狭い空間に固定された、何か不自由な自己、という感が否めません。

「国破れて山河あり」は人の世の儚さを詠んだと言われますが、その山河もまた自己の延長と受け入れることができれば、そこには目先の栄枯盛衰とは全く異なるものが見えてくるのではないでしょうか。

政治やビジネスではない、そんな「生き残り戦略」をふるさとから学べないものかな、と思っています。

越智小枝Sae Ochi

Profile
東京慈恵会医科大学臨床検査医学講座 主任教授
1974年生まれ。東京医科歯科大学卒。都立墨東病院医長などを経て、インペリアルカレッジ・ロンドンで公衆衛生を学び、東日本大震災を機に被災地の医療と公衆衛生問題に取り組んでいる。

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