原子力産業新聞

福島考

震災以降、医師として福島県浜通り地方に関わり続ける筆者が、地元に密着した視点から記すコラム。

災害と因縁

18 May 2020

災害は、規模が大きければ大きいほど長期にわたって社会に予測外の間接影響を与え得ます。それは普段から目に見える形で残っているとは限りません。何かの折に、かさぶたが剥がれるように過去の災害の因縁が顔を出す。そんな影響が、2011年の東日本大震災・津波・原子力災害のトリプル災害の後にも見られています。

しかしそこで顔を出すものは必ずしも悪いものばかりではありません。災害によって奪われたものと同じように、与えられたものもまた未来へとつながっている、と感じています。

令和元年東日本台風と2011年の避難指示

昨年10月に2度にわたって繰り返された水害は、福島県にも広範囲な浸水被害をもたらしました。その被災地には、旧避難区域である南相馬市の小高地区も含まれます。約1600世帯が帰還していた小高地区では、水害により20戸以上が床上浸水以上の被害を受けました。被害が大きくなってしまった一つの原因は、水門の閉め忘れによる河川の逆流です。

「震災前までは水門を閉めるのは区長さんの役目でした。区長さんがまだ避難中のところも多いし、帰還した人も水門の申し送りまではされてなかったようです」

そんな説明を受けつつ訪れたある水門には、川から逆流してきた大きな木の根ががっちりとはまり込み、水門機能は完全に失われていました。

別の地域では田畑用の用水路が溢水し、多くの家屋が浸水しました。放射性セシウムが泥に沈着することを知ってから用水路の泥かきは全くしていなかった、という家もあり、用水路が浅くなっていた可能性もあるとのことです。

また地域の水路だけでなく、一級河川の整備にも問題があります。2008年以降、一級河川の管理権限が国から都道府県に移管されるようになりました。そんな中にトリプル災害が起き、護岸工事や除染作業が最優先となった福島県では河川自体の整備する余力が残っていなかった可能性も指摘されています。

そう考えれば、昨年起きた福島県の水害の一部は、9年以上の時を経て顕在化したトリプル災害の間接被害ともいえるかもしれません。

差別の連鎖

そのような間接影響は今般の新型コロナウイルスパンデミックでも垣間見られます。たとえば福島県のある地域では、新型コロナウイルスが陽性になった方のご自宅に石が投げ込まれる事態が起きました。

「あそこは賠償金の関係で元々周囲の反感も大きかったから

とは、町の噂で聞こえてきた話です。ウイルス感染の噂は、原子力災害以降蓄積していた鬱憤を顕在化するきっかけとなってしまったのかもしれません。このような差別もまた、パンデミックと原子力災害が複雑に絡み合った複合的な被害であるとも言えるのです。

もちろん水害や差別は複雑かつ多くの交絡因子を含んでおり、これをもって無用な責任論に発展させてはいけないでしょう。しかし災害というものが10年近くの年月を経てもなお人々に影響を与え得る、という側面を知ることは大切です。今パンデミックという災害を生きる私たちもまた、このような二次災害の芽を日々生み出している可能性があるからです。

災害から生まれたもの

もう一つ大切なことは、私たちが生み出しているのは「二次災害」というマイナスの芽だけではない、という事です。

東京に緊急事態宣言が出された直後のことです。小高地区に住む方から

「防護服が50着余っているので、困っている病院に無償提供できないか」

というメールをいただきました。感染症指定病院ではない病院やクリニックがパンデミックの脅威に恐々としているさ中のことです。情報を流したところ、すぐに「ぜひ欲しい」というご希望が寄せられ、ある病院とクリニックの2か所に郵送いただきました。防護服を受け取った施設からは「本当に感謝してもし足りない」というお礼が、私にも届けられています。

また、震災後のご縁のあった方々から、温かいメッセージと共にお花やコーヒーなど様々な差し入れもいただきました。感染リスクの最前線で毎日働いている臨床検査技師さんたちと一緒に、感謝と共にいただいています。

何かをいただく時に私たちが感じるのは、物への感謝だけではありません。私たちがそこから受け取るのは、誰かが自分たちのことを考えてくれているという希望と、この困難な時にも自分が何かに感謝をできる有り難さです。ご自身も決して楽ではないはずのこの有事の中、それでも人に何かを与えることができる方々がいる。その気持ちが、このパンデミックの現場に浸透しています。

こういう時にも人に与えることができる。そういう方々はもしかしたら、2011年の災害時に同じように心に触れる支援を誰かから受けたのかもしれません。その心が連鎖し、9年後に別の被災地で誰かの心を救っているのであれば、このような正のつながりもまた災害の遺産であると言えるでしょう。

未来の災害へ向け

未曽有の災害が思い出したようにふと影を落とすことがあります。それと同様に、あるささやかな支援が時間も空間も飛び越えて誰かの光明ともなることもあるのです。その正負の遺産は、今社会の表層を賑わしている大所高所論たちではなく、その足元で過ぎて行く人々の暮らしから日々生まれているのではないでしょうか。

ふとした折にいただいた感謝の気持ちを覚えていること、それだけのことが、未来の大災害時に誰かを救う布石なのかもしれない。そう思うと今の非日常が何か貴重なものにすら思えてきます。これまで色々な方からいただいた縁と恩を、いつ、誰に、どうやって返せるのか。まだ分からない恩返しを夢見ながら、今を大切に過ごしたいと思っています。

越智小枝Sae Ochi

Profile
東京慈恵会医科大学臨床検査医学講座 主任教授
1974年生まれ。東京医科歯科大学卒。都立墨東病院医長などを経て、インペリアルカレッジ・ロンドンで公衆衛生を学び、東日本大震災を機に被災地の医療と公衆衛生問題に取り組んでいる。

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