原子力産業新聞

福島考

震災以降、医師として福島県浜通り地方に関わり続ける筆者が、地元に密着した視点から記すコラム。

「できない」という自由

24 Aug 2021

突然些細な話になりますが、私は下りのエスカレーターに乗る時に、手すりにつかまらないと最初の一歩が踏み出せません。手すりにつかまるまいとすると、どうしても足が止まってしまいます。足腰に問題があるわけではないので、なぜこの動作に限ってできないのかいつも不思議に思っています。

周りの人が簡単にできることがなぜか自分には難しい。そんな経験は、誰にでもあるのではないでしょうか。

そしてそれは何かを我慢する、という行為でも同様でしょう。

このコロナ禍では、「我慢が足りない個人」が感染を増大させている、という批判が良く聞かれます。それは全くその通りです。では、私たちの「我慢」の程度は皆同じものなのでしょうか。

他の能力と同じく、我慢をする能力にも個人差があります。勉強でも、運動でも、デスクワークでも、得意な人は苦も無く何時間でも続けることができますが、本当に苦手な人は一生懸命やっても数分しか耐えられない。これは忍耐力の差というよりは、同じ時間の我慢でも人により感じる苦痛は全く異なる為だと思います。

「その程度」の我慢

「私はこんなに我慢しているのに、なんで彼らは我慢できないんだ」

コロナの感染拡大についてそう批判をするとき、人は無意識に

「自分は我慢している勤勉な人間、彼らは遊んでいる気楽な人間」

という線引きをしているのではないでしょうか。そこには気楽に過ごす人々への嫉妬が多少混じっていることも否定できません。

しかし、私にとっての下りエスカレーターのように、人と会うのを我慢する苦痛は、人によって異なります。そもそも「社交性がある」ことはコロナ禍前までは美徳だったのですから、私たちは社交を我慢する教育を受けていません。我慢を強いられて初めて、その我慢ができないという性質に気づいた方もいるのではないでしょうか。

もちろん頑張って我慢している方が偉いことには変わりませんが、それでも全員を我慢不足と断定するのもすこし違うのではないか、と感じます。

我慢と怠惰

なぜなら、ある一つのことを我慢できないことは、必ずしも怠惰であるとか気楽であることを意味しないからです。

たとえば原発事故後の福島では、山に入ることを「我慢する」ことを真っ先にやめ、山菜やイノシシを食べ始めた人々がいらっしゃいました。

「(獣害だといって)命を奪っておいてそれをいただかないのは命への冒涜だ」

目の前で山の幸が無駄になることに我慢できずリスクを取る方々に対し、「他に示しがつかない」「その程度のことを我慢しないのか」と眉をひそめる方も大勢いました。それでも真っ先に山入りを解禁した人々は、その誹(そし)りもリスクも全て知った上で里山と共に暮らすことを選んでいたと思います。その方が皆「怠惰」「気楽」であったとは言えないのではないでしょうか。

違反と無知

また一部には、規則を守れない人=不勉強で無知な人、という思い込みもあります。しかし実際に既存のルールに疑問を覚える方の中には、専門的な論文をたくさん読み込んでいる方も少なくありません。正解のない災害時には反対意見は必ず見られます。それ以上に多いのが、インフォデミックの被害者です。彼らもまた、たくさんの情報を収集する勤勉な方々であると言えるのではないでしょうか。そういう方々が規制を守れないとすれば、それはむしろ説得力を持たせられない我々専門家の責任でもあるでしょう。

コロナ禍が始まって1年半。これを2011年の原発事故と比較すると、2012年の9月頃に相当します。その頃福島では、SNS上で流れるフェイクニュースや極論を信じる方はほとんどおらず、プールの再開、農業の再開など、一つ一つの事例について住民の方々が状況を複合的に考え、時にリスクを選ぶことを既に学んでいました。それは今のコロナ禍でも同じです。大衆は規制を作る人々が考えるほど不勉強でも怠惰でもない。ネットで幅を利かせている「ノイジー・マイノリティ」に振り回されることなく、静かに日々を過ごされる多くの人々の現実を見つめる必要もあると思います。

罰則と社会制裁

また、たとえ仮にルール違反をする方が無知であったり怠惰であったりしたとしても、私たちは「全員が意識が高く勤勉な社会」を目指すべきなのでしょうか?

もちろん私はこの感染拡大下に遊び歩く人々を肯定しませんし、医師という立場からは集会は控えて下さい、とお願いします。それでも敢えて規則を破る人々に罰則を作ることも時には必要でしょう。しかし周りの空気を読むことを強要し、メディアなどが過剰な社会的制裁を加えるような窮屈な世界にはなってほしくない、と思います。それは「全員が偏差値50以上を目指す」不自然な世界だからです。

規則を守れる状況は、環境と能力の産物に過ぎません。今回の災害においては、私はたまたま社会のルールを守れる、恵まれた立場にいます。しかしもしそれが「下りエスカレーターの手すり」であったなら、立場は全く違ったでしょう。いつ何時、自分が守れないルールが作られるかもしれません。能力不足を全て努力不足と断定され後ろ指を指される。それは専門家が支配する全体主義にすらつながるように思えてしまいます。

できないという自由

日本の社会には、「できない人々」をなんとなく許容する文化があります。社会的地位が高い方々の間でその文化が浸透することは多少問題ですが、社会全体で見れば悪いことばかりでありません。感染の不安が増し、つい色々なことに舌打ちしたくなる世の中ではありますが、「できない」自由が担保されている今の社会への感謝を忘れることなく乗り越えたいな、と思います。

越智小枝Sae Ochi

Profile
東京慈恵会医科大学臨床検査医学講座 主任教授
1974年生まれ。東京医科歯科大学卒。都立墨東病院医長などを経て、インペリアルカレッジ・ロンドンで公衆衛生を学び、東日本大震災を機に被災地の医療と公衆衛生問題に取り組んでいる。

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