原子力産業新聞

日ロ関係の歴史と今後

16 May 2022

岸田文雄首相は、4月8日、ロシアに対する追加制裁措置を発表した。内容は、1)ロシアからの石炭の輸入禁止、2)早急な代替策によりロシアに対するエネルギー依存度の速やかな低減、3)最大手銀行のズベルバンクを含むロシア企業、団体、国民の資産凍結拡大、4)ロシア外交官8人の国外追放──などが柱である。

この前日の7日、ブリュッセルで行われたG7外相会議、北大西洋条約機構(NATO)外相会議に林芳正外務大臣が出席したが、両会議はロシア軍がブチャなどウクライナにおいて行ったとされる残虐行為を厳しく批判した。日本政府の新たな制裁措置は、米欧諸国の判断に同調したものと言えよう。

ロシア軍による凄惨な非人道的行為が明らかになるに連れ、ロシアから天然ガスの調達を継続するドイツが、欧州において厳しい批判に晒されつつある。日本政府としては、サハリン1、2の権益を維持する一方、現時点で採り得る最大限の制裁に乗り出すことにより、日本の立場に対する国際的理解を得る努力を積み重ねている模様だ。

一方、既に日本を「非友好国」と認定したロシアは、当然、反発するだろう。ロシア政府は、3月8日の時点で「非友好的な国と地域」のリストを公表、指定された48か国・地域のなかに日本の名前もあった。さらに、3月21日、ロシア外務省は日ロ平和条約締結交渉の打ち切りを宣言している。これは、北方領土の交渉が暗礁に乗り上げたことを意味するだろう。また、ロシアからの資源輸入、ロシアへの自動車輸出、さらには両国間の漁業交渉など、多方面に影響が及ぶことも必至の情勢だ。

旧ソ連時代から、日本とロシアの間には埋め難いとも言える溝があったと考えられる。過去における相互不信も根強いなかで、今回のロシアによるウクライナ侵攻によって、少なくともウラジミール・プーチン大統領の在任中、日ロ間の関係改善は見込めなくなった。

 

鍵となるサンフランシスコ条約

旧ソ連と日本が1956年10月19日に締結した『日ソ共同宣言』には、第9条に「ソヴィエト社会主義共和国連邦は、日本国の要望に応え、且つ日本国の利益を考慮して、歯舞群島及び色丹島を日本国に引き渡すことに同意する。ただし、これらの諸島は、日本国とソヴィエト社会主義共和国連邦との間の平和条約が締結された後に現実に引き渡されるものとする」と書かれている。

つまり、北方領土と呼ばれる4島のうち、歯舞、色丹両島は旧ソ連の債権債務を引き継いだロシアと日本の間に平和条約が締結されれば、ロシアから日本へ正式に引き渡されなければならない。もっとも、この条文にはいくつかの不思議な点があるのではないか。

例えば、日本政府が領有権を主張する北方領土のうち、国後、択捉両島には全く触れていないことだ。そしてもう1つ不可解なのは、歯舞、色丹をソ連が日本に「返還する」のではなく、ソ連の寛大なるご厚意により日本に「引き渡す」とされたことに他ならない。

多分、日本人は、一般に北方領土4島は日本固有の領土であり、1945年8月9日、日ソ不可侵条約を一方的に破棄して対日参戦したソ連に奪い取られた…との認識を共有していると見られる。しかしながら、そこには非常に複雑な問題が絡んでおり、それが日ソ共同宣言に反映されたと言えるだろう。

旧ソ連、そして現在のロシアが4島を実効支配しているロシア側の法的な根拠は、1951年9月8日、日本が連合国とサンフランシスコで署名した『日本との講和条約(サンフランシスコ条約)』だ。その第2章には、戦後の日本の新たな領域が規定された。旧ソ連との国境に関連しては、以下のように記述されている。

(c)日本国は、千島列島並びに日本国が1905年9月5日のポーツマス条約の結果として主権を獲得した樺太の一部及びこれに近接する諸島に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄する。

ポーツマス条約は、1904年2月から1905年9月の日露戦争の終戦を決めた条約であり、日本は実質的な戦勝国として樺太(サハリン)の南半分を手に入れた(図表1)。一方、千島列島は、1875年5月7日にロシア帝国と締結した『樺太・千島交換条約』により、日本が平和裏に領有権を得た領土だ。

第2次大戦最中の1942年1月1日、米国、英国、ソ連、中国(当時は中華民国)が締結した『連合国共同宣言』は、「この戦争に領土の拡大を求めない」とした米英両国による大西洋憲章の順守が謳われていた。しかしながら、1945年2月11日、米国のフランクリン・ルーズベルト大統領、英国のウィンストン・チャーチル首相、ソ連のヨシフ・スターリン首相が極秘裏に会談して合意した『ヤルタ協定』では、ドイツの降伏から2〜3か月以内にソ連が日ソ不可侵条約を破棄して対日参戦することへの見返りとして、樺太南部のみならず、千島列島においてもソ連の領有を認めることが決まったのである。

当時、まだ原子爆弾の開発を完了していなかった米国は、日本本土への上陸作戦で多大なる犠牲を被るリスクを恐れてソ連の対日参戦に期待していた上、ルーズベルト大統領は体調が優れず、強気のスターリンに押し切られたとも言われている。この2か月後の4月12日、ルーズベルト大統領は第2次大戦の終戦を見ずにホワイトハウスで永眠した。

朝鮮戦争の最中に調印されたサンフランシスコ講和条約にソ連は署名していない。しかしながら、米英両国はヤルタ協定を順守し、千島列島をソ連領としたのだった。

余談だが、このヤルタが位置しているのは、2014年3月にロシアがウクライナからの編入を宣言したクリミア半島の南端である。全くの偶然とは言え、クリミア半島はロシア・旧ソ連の領土的野心を象徴する場所と言えるだろう。

 

日ロで異なる「千島列島」の範囲

この日ロ間に70年以上に亘って続く問題の根源は、千島列島の定義に他ならない。サンフランシスコ講和条約調印前の1950年9月4日、衆議院外務委員会において、第3次吉田茂内閣の与党であった自由党の佐々木盛男議員による質問に対し、外務省の島津久大政策局長は、「ヤルタ協定のいわゆる千島という範囲は明確ではない」と答弁した。さらに、連合国側の決定を待つまでは、「この点を明確にする方法は目下のところないように考える」と述べている。

つまり、終戦直後の日本では、「北方領土」との概念は確立されていなかった。この点が旧ソ連時代を含めて日ロ間の関係を非常に複雑にしてきたと言えるだろう。

千島列島の南端に位置する国後、択捉の2島について、「日本固有の領土」と初めて指摘したのは日本政府ではない。まだGHQによる間接統治が行われていた1950年9月4日、参議院外務委員会において、北海道を視察した自由党の團伊能参議院議員は、北海道庁からの請願として、「もしも択捉、国後を千島列島とするならば、地形の上から考えても、その島々の存在の位置から考えても、千島と考えられない歯舞群島だけは日本に残して欲しい」との要望が出ていると説明していた。

国後、択捉の帰属が日本にあると明確に指摘したのは、意外にもヤルタ協定で千島列島をソ連領にすることを容認した米国だ。日ソ共同宣言が署名された前日の1956年9月7日、米国国務省は”State Department Memorandum on the Japan-Soviet Negotiations (日ソ交渉に関する国務省覚書)”を作成した。その最後の部分は次のように締め括られている。

The United States has reached the conclusion after careful examination of the historical facts that the islands of Etorofu and Kunashiri (along with the Habomai Islands and Shikotan which are a part of Hokkaido) have always been part of Japan proper and should in justice be aknowledged as under Japanese sovereignty. The United States would regard Soviet agreement to this effect as a positive contribution to the reduction of tension in the Far East.”

「米国は、歴史上の事実を注意深く検討した結果、択捉、国後両島は(北海道の一部たる歯舞諸島及び色丹島とともに)、常に日本固有の領土の一部をなしてきたものであり、かつ、正当に日本国の主権下にあるものとして認められなければならないとの結論に達した。米国は、このことにソ連が同意するならば、それは極東における緊張の緩和に積極的に寄与することになると考える。」

つまり、米国は千島列島の定義には触れず、国後、択捉、歯舞、色丹の4島を「日本固有の領土」とした。この米国の姿勢を背景に、日本政府は北方領土返還のキャンペーンを開始したのである。

1950年6月25日に朝鮮戦争が勃発して以降、既に米ソ冷戦時代に突入していた。米国としては、将来の軍事拠点の設置を含め、北方領土の活用を念頭に置いていたのかもしれない。ただし、そこには米国が注目した「歴史上の事実」が存在した。

日本とロシア帝国が初めて正式な外交的接触をしたのは江戸時代末期の1855年だ。同年2月7日、江戸幕府の代表である筒井肥前守とロシアのエフィミユス・プーチャチン海軍少将との間で日露和親条約が締結されたのだが、その日本語訳の第2条には以下のように書かれている(原文のまま)。

「今より後日本國と魯西亞國との境ヱトロプ島とウルップ島との間に在るへし。ヱトロプ全島は日本に属し、ウルップ全島夫より北の方クリル諸島は魯西亞に属す。カラフト島に至りては日本國と魯西亞國との間に於て界を分たす是まて仕來の通たるへし。」

つまり、日ロの国境は択捉島と得撫(ウルップ)島の間とされ、国後、択捉両島は日本の領土であると決まった。その上で、「得撫島以北の千島列島はロシアに属す」としたわけだ。これは、平和的な交渉の結果であり、米国が歴史に照らして2島を日本固有の領土とする理由に他ならない。

この日露和親条約の正文はオランダ語で作成された。日本、ロシア双方にお互いの言葉を解せる人物がおらず、共通言語としてオランダ語が使われたのだ。正文の当該部分は次のようなものだった。

Van nu af zal de grens tusschen de eilanden Itoroep (Iedorop) en Oeroep zyn. Het geheel eiland Itoroef behoort aan Japan en het geheel eiland Oerop, met de overige Koerilsche eilanden, ten noorden, behoren tot Russische bezittingen. Wat het eiland Krafto (Saghalien) aangaat, zoo blyft het ongedeeld tusschen Rusland en Japan, zoo als het tot nu toe geweest.

「今から後、境界は択捉島と得撫島の間にあるものとする。択捉島全島は日本に属し、得撫島全島とその北側の他のクリル諸島はロシアの所有に属する。カラフト島については、これまで通りロシア、日本間に不分割のまま止まるものとする。」

このオランダ語で書かれた正文において、“overig”は「その他の」を意味する。日本語で作成された副文では訳されていない。つまり、日本語訳では、千島列島は得撫島以北となっているのだが、オランダ語の正文では国後、択捉両島も千島列島であり、そのうちの得撫島以北をロシア領と読める内容になっている。実はこの条約、副文として日本語の他、ロシア語、英語、中国語にも訳されているが、日本語以外は全てオランダ語と同じ内容だった。

多分、当時は1世紀以上を経て千島列島の定義が深刻な外交問題を引き起こすとは予想もつかなかったのだろう。従って、「北の方クリル諸島」でも、「その北側の他のクリル諸島」でも江戸幕府にとってはどちらでも良かったのだと考えられる。

ロシアの立場としては、ヤルタ協定のみならず、自らは批准していないとは言えサンフランシスコ講和条約でも千島列島に関するロシアの領有権が認められ、日露和親条約の条文が国後、択捉は千島列島と読める以上、両島はロシア領との考え方を採ってきたのだろう。ただし、歯舞、色丹両島はどう見ても根室半島の突端に他ならない。それ故、日ロ平和友好条約の締結と引き換えに日本に「引き渡す」としたわけだ。

 

日本が迫られる総力戦

今回のウクライナ侵攻同様、旧ソ連が日ソ不可侵条約を一方的に破棄して条約違反の下で対日参戦し、連合国共同宣言の精神に反して領土的野心を示したことは、第2次大戦中とは言え十分に批判されるべきことだろう。また、病に冒されてヤルタ会談に臨んだルーズベルト大統領にも大きな判断ミスがあったのではないか。ただし、この問題は一般的に日本国内で考えられているほど単純な構図ではない。

ロシア軍によるウクライナ侵攻、そして一般市民への残虐な行為に組織的な関与があったと国際機関により正式に証明されれば、少なくともウラジミール・プーチン大統領の在職中、ロシアが国際社会へ本格的に復帰する可能性は限りなくゼロになった。日本にとっても、この状況下で日ロ平和条約の締結交渉に向け同じテーブルに着くなど問題外である。

ウクライナでは、ドネツク、ルガンスク両州など同国東部を巡る攻防が一段と激化する可能性が強い。これまで、ウクライナ侵攻を統括するロシア軍の司令官がおらず、軍全体の作戦運営が場当たり的との指摘があった。そこで、プーチン大統領はシリア内戦でアサド政権の支援作戦を指揮したアレクサンドル・ドゥボルニコフ南部軍管区司令官をウクライナ作戦の統括司令官に任命した模様だ。

ドゥボルニコフ司令官はシリアで民間人を対象とした空爆を繰り返しており、米国のジェイク・サリバン国家安全保障担当大統領補佐官は、4月10日、CNNの看板番組である『ステートオブユニオン』に出演、同将軍を“another author of crimes and brutality(もう一人の戦争犯罪と蛮行の作者)”と評した。ウクライナにおいて一般国民の犠牲がさらに大きく増加する可能性は否定できない。

ロシアによるウクライナ侵攻を受け、米国のジョー・バイデン大統領はエネルギー政策修正、地球温暖化抑止とエネルギー安全保障のバランスへ配慮した姿勢への修正を図りつつある。米国はシェールガス・オイルの生産を大幅に強化するだろう。そうしたなか、ウクライナの東部戦線でロシア軍によるさらなる残虐行為が明らかになった場合、ドイツ、そして日本はロシア産天然ガスの調達を早期に打ち切るよう求められることも考えられる。

日本とソ連、そしてロシアは、1855年の国交樹立以来、日露戦争や第2次大戦、戦後の北方領土問題を含めて非常に複雑な歴史を形成してきた。ただし、ビジネスの観点では、エネルギーや自動車産業を軸にかなり緊密な関係を築いている。

安倍晋三元首相は、歴史認識や領土問題と経済・文化的交流を切り離す戦略的互恵関係を提唱、現実的路線でプーチン大統領や習近平中国国家主席との関係を築いた。同元首相は、シベリア・サハリンでの開発計画に日本が積極的に関与することにより、日ロ平和条約の締結とエネルギー安全保障の二兎を目指したと言えそうだ。

そこには、日ロの歴史的経緯、プーチン大統領の置かれた政治状況に対する読みがあったと見られる。また、バラク・オバマ、ドナルド・トランプ両米国大統領が2代続けて米国の国際的役割に興味を示さなかったことも背景だろう。さらに、ドイツのアンゲラ・メルケル前首相、フランスのフランソワ・オランド、エマニュエル・マクロン両大統領が、プーチン大統領と良好な関係構築することにより、欧州の安全保障を維持しようと腐心してきた国際事情も見逃せない。

そうしたなか、安倍元首相は、歴史的経緯、プーチン政権の状況から見て北方領土4島の一括返還は困難と判断、国後、択捉両島を棚上げした上で、歯舞、色丹の2島確保を目指した節もある。もっとも、ロシアによるウクライナへの侵略により、日米欧それぞれがロシアとの関係を抜本的に見直さざるを得なくなった。

岸田文雄首相は、西側の一員であるとの立場を鮮明にした上で、ロシアと対峙せざるを得ない。従って、現政権下で領土問題が進捗する可能性は限りなくゼロに近いだろう。そのため、中東主要産油国との交渉や原子力発電所の再稼働、リプレースなど、特にエネルギー政策に関して、日本は長期的な総力戦を迫られることになりそうだ。

市川眞一  Shinichi Ichikawa

株式会社ストラテジック・アソシエイツ・ジャパン 代表取締役
1963年東京都出身 明治大学卒。投資信託会社でファンドマネージャーなどを経て、1994年にクレディ・リヨネ証券にて調査部長兼ストラテジスト。2000年12月、クレディ・スイス・ファースト・ボストン証券(現クレディ・スイス証券)にてチーフ・ストラテジスト、2010年よりクレディ・スイス証券チーフ・マーケット・ストラテジスト。この間、小泉純一郎内閣にて初代の構造改革特区評価委員、民主党政権下で規制・制度改革推進委員会委員、行政刷新会議事業仕分け評価者(仕分け人)など公職を多数歴任。テレビ東京の「ワールド・ビジネス・サテライト」への出演で、お茶の間でも有名。
2019年9月、個人事務所として株式会社ストラテジック・アソシエイツ・ジャパンを設立した。

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