原子力産業新聞

風の音を聴く

ジャーナリストとして国際報道の最前線を、時に優しく、時に厳しく、歩み続ける筆者によるコラム。──凛と吹く風のように。

数字だけではわからない

16 Oct 2014

爽やかな季節になった。朝うっかり寝過ごしそうなので、ラジオを目覚まし代わりに使っている。

従ってこれからの話は、半分ウトウトしながら聞いた内容ではあるのだが、先日は「…福島の方の風評被害が相変わらずのようですね。どうしたらよいでしょうか」というアナウンサーの言葉でパッチリ目が覚めた。出演者の大学教授はというと、こう答えた。

「全部線量計で測れば良いのですよ。いま、そういう技術はすごく進んでいて、どんどん測れるようになってきていますから」

その番組は基本的に出演者のお説拝聴で、アナウンサーは意見を挟まない。その朝もそれで終わった。

「えっ、それだけ?」と、今度は私の頭がスッキリしなくなった。

確かに3.11以降、放射線量検査済みの商品がスーパーでも増えた。私がささやかな応援も兼ねて、いま食べている会津若松のお米にも検査済みの印がある。でも私は印があるから購入しているのではない。問題がないことを購入先の地元のお米屋さんの説明で納得しているからだ。検査が大事でないとは言わないが、私は生産者と消費者の信頼関係を何よりも大事にしたい。

そもそも会津若松は福島の他地域と比べると、地震も原発関連の被害も軽微だった。にもかかわらずお米屋さんが嘆くことには、風評被害で顧客は激減した。日頃から有機農法や自然食品などに関心の深い客ほど放射線量に敏感で、顧客離れをしてしまったというから、皮肉だし残念なことである。

風評被害は線量計さえあればそれでよしというのも、お米屋さんの例も、何か大切なことを忘れ、数字万能主義に陥っているような気がする。

数字はいかにも客観的事実に見えるだけに曲者だ。政権や政党支持率の世論調査、テレビの視聴率が良い例だ。これらの数字に一喜一憂していては、ポピュリズムの政治や番組しか出来ない。

毎月、毎月政党支持率を調べることにどれほどの意味があるのかと、新聞記者だった私でも疑問に思うことがある。もしかしたら自ら考える力を削いでいるのではないだろうか。

何事も過ぎたるは及ばざるがごとし。ミリシーベルトを過信したり過敏になったりすることは、反って健康に良くないと思う。健康を心配しすぎて病気になる類である。私たちにはその前にするべき大事なことがもっとある。風評被害を作り出している放射線の正体について、学校や社会教育の場で基本から、また広く包括的に学ぶこともその一つだろう。

すでに平成12年の「原子力の研究、開発及び利用に関する長期計画(長計)」は「国民生活に貢献する放射線利用」を取り上げ、国民の中の漠然とした「恐ろしさ」の所在を指摘し、正確な知識を持つ努力の必要性を謳った。策定会議でその分科会の座長が放射線利用の重要性が書き込まれたことに感無量のあまりか、最後の挨拶の際に少し声を詰まらせる場面があった。放射線研究には人知れぬ苦労がずい分あったのだろうなと、別の分科会だった私にも印象的だったのでよく憶えている。

だがいま、あれから国民の理解はどこまで進んだかを考えると、苦い思いを禁じ得ない。原発事故で「恐ろしさ」が倍化した側面もある。努力はまだまだ足りないのだろう。

去る九月、福島で第三回福島国際専門家会議(日本財団主催、福島県立医科大学など共催)が開かれ「放射線と健康リスクを超えて~復興とレジリエンスに向けて~」と題する提言書を政府に提出した。

6項目から成る提言はいずれももっともなものだが、中でも「放射線基準は柔軟に設定されなければならない(空間線量や理論的に計算された線量でなく個人線量に基づくべきこと、それは人々の生活習慣によって大きく異なる)」「個々の放射線状況を理解し、コントロールできるよう、情報伝達のインフラを整備する」重要性を指摘していることに共感を覚えた。 提言書が広く知られ、絵に描いた餅に終わることのないようにしてほしいものである。

千野境子Keiko Chino

Profile
産経新聞 客員論説委員
神奈川県横浜市出身。早稲田大学第一文学部卒業後、産経新聞社入社。マニラ特派員、ニューヨーク支局長、外信部長、シンガポール支局長、論説委員長などを歴任。最新刊は「江戸のジャーナリスト 葛飾北斎」。

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