原子力産業新聞

風の音を聴く

ジャーナリストとして国際報道の最前線を、時に優しく、時に厳しく、歩み続ける筆者によるコラム。──凛と吹く風のように。

今年のノーベル文学賞に思う

02 Nov 2015

村上春樹ファンの期待するノーベル文学賞は今年もお預けで、旧ソ連・ベラルーシのスベトラーナ・アレクシェービッチに決まった。

1986年4月26日、当時まだソ連体制下にあったチェルノブイリ原子力発電所で起きた事故をさまざまな形で経験した人々の証言を記録した『チェルノブイリの祈り』(岩波現代文庫)で知られる作家である。

ただし日本では誰もが知る有名作家とは言えないし、これまでともすれば反原発など政治的メッセージと関連付けて取り上げられがちな側面もなくはなかった。この作品にとってそれは残念なことで、私はノーベル賞受賞を機に、同書がもっと広範な人々、とりわけ原子力業界の関係者に読まれてほしいと思う。原発への賛否云々はひとまず脇に置き、作品には読むに値する深さや重みがある。コラムSalonには少し場違いかなと思いつつ、取り上げさせて頂く理由もそこにある。

ノーベル賞委員会は受賞理由を「現代の苦痛とそれを乗りこえる勇気の記念碑のような、多様な声を集めた著作」としている。そして『チェルノブイリの祈り』がまさにこの評に当てはまる。

証言者は事故で真っ先に現場に駆け付けた消防士の妻に始まり、精神科医、大学講師、事故処理作業者、カメラマン、ジャーナリスト、化学技師、兵士、研究者、子供など50人に上る。しかもどの証言もその人ならではの表現や語り口で、理不尽な悲劇や不幸が淡々と、しかしとても印象深く語られてゆく。読後感は被害者への同情、共感、対策を誤った当局への怒り、原発への恐怖…さまざまだろうが、作品の真価はそれだけに留まらないことだと思う。

読みながら、また読み終えて心に強く残ったのは、人間の生きる力や素晴らしさだった。「勇気の記念碑」とは言い得て妙で、底知れぬ悲劇であるのに、記念碑は輝きさえ放っている。

これにはアレクシェービッチの非凡な「聴く力」が大きい。新聞記者として私も沢山の人々を取材して来たが、インタビューは易しくて難しい。通り一遍の言葉で始まり、終わってもインタビュー。その一方、言葉が秘める無限の力に感服するようなインタビューがある。だがそうした幸運は多くない。それには聞き手と受け手が相互に深く呼応しなければならないからだ。

もう一つ、『チェルノブイリの祈り』はロシアならではの物語でもある。文中、1937年みたいとの表現が出てくる。スターリンの大粛清が頂点に達した象徴的な年で、スターリン時代は不幸がある日、人々の元に突然やって来た。その怖さをロシア人なら世代を超えて共有している。また登場者たちはロシア文学でお馴染みの、大地に根ざし、大地を愛し、大地とともに生きる人々を彷彿とさせずにはおかない。主にはベラルーシの人々だから、ここは広くスラブと言い換えてもよいかもしれない。

さて私はここまで『チェルノブイリの祈り』を称賛して来たが、それと同時に、同書で原発問題を論じるのには問題のあることも付言したい。そもそも同書には原発自体も事故も具体的な事実や説明はほとんど出てこない。感情がほとばしるような同作品から浮かび上がるのは、むしろ原発への杜撰な取り組みの上に胡坐をかいたソ連社会主義体制の欠陥であり、反原発以前の問題だ。

事故から約5年、ソ連は解体消滅する。アフガニスタン侵攻や身の丈を超えた米国との軍拡競争の果てではあったが、原発事故はそのような末期的症状にあったソ連体制の帰結でもあった。

来年はチェルノブイリから30年、そして福島原発事故からも5年である。原発については感情でなく理性とリアリズムで考えることが必要だし、基本であろう。しかし人間は感性豊かな動物でもあるのだから、感情を排するだけでは人間性を失いかねない。その両立を図っていかねばならない。繰り返すが、だからこそ原発に携わる専門家たちに本書を読んでほしいと思うのである。

千野境子Keiko Chino

Profile
産経新聞 客員論説委員
神奈川県横浜市出身。早稲田大学第一文学部卒業後、産経新聞社入社。マニラ特派員、ニューヨーク支局長、外信部長、シンガポール支局長、論説委員長などを歴任。最新刊は「江戸のジャーナリスト 葛飾北斎」。

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