原子力産業新聞

風の音を聴く

ジャーナリストとして国際報道の最前線を、時に優しく、時に厳しく、歩み続ける筆者によるコラム。──凛と吹く風のように。

ルポ・大熊町を訪ねて -玄関に掛かる「必づ帰る」に込めた思い-

14 Mar 2017

「必づ帰る」

玄関を入ると真っ先に目に飛び込んで来た、半紙に黒々と書かれた四文字。「必ず」ではなく「必づ」に、Sさん(92歳)の帰還にかける思いの強さがより一層感じられた。

青空の下、福島県双葉郡大熊町のSさん宅の周辺では、芽吹き始めた木々をはじめ春近しを思わせる光景が静かに広がっていた。けれど一歩屋内に入ると、地震で壊された上にイノシシに荒らされた台所や茶の間は家財道具が散乱し、足の踏み場もないほど、その惨状は想定を超えていた。

「都会の人に大熊町の現状をもっと知って貰いたい。そのためには町もおらの家も見てほしい」そう語るSさんを案内役に、大熊町を訪れたのは3月初めだった。あれから6年、隣接する浪江町や富岡町などが4月には避難指示が解除される予定であるのに対して、大熊町はまだ全町民の約96%が居住していた地域が帰還困難区域に指定されている。それでも、年間最大30回(1世帯あたり)という制限の下で自宅への一時立ち入りが出来るようになった。ただし自宅へは上限2時間、1世帯あたり3人までなどの条件がある。

「必づ帰る」(筆者撮影)

私がSさんに初めて会ったのは2011年11月、場所は避難先の会津若松市にある仮設住宅だった。地震と原子力発電所事故から8か月、世の中がまだ沈んだ空気に覆われていた当時、年齢を感じさせない若さと「故郷は根っこ。厳しくても現実と向き合わねばダメだ。除染して戻りたい。送電線は無事だから今度は再生エネルギーで(社会に)もう一度貢献するのがいいと思う」と語る前向きな生き方にかえって勇気づけられ、将来必ずSさんと大熊町を訪れようと私は密かに誓った。5年4か月後の今回、それが実現したのである。

雪の多い会津若松を去り、現在はいわき市の仮設住宅に暮らすSさんと落ち合い、会津若松の知人Oさんが運転する車で一路、大熊町に向かった。広野町~楢葉町~富岡町…と車窓から町々を眺め、あらためて感じたのは、会津若松や郡山などと比べて車の往来の頻繁なことだった。しかもそのほとんどは作業車、見かける人も作業服姿の男性ばかり。復興が進む証ゆえで、それは嬉しいのだが、普通の町にはやはりまだほど遠いということだろう。沿道の黒いビニール袋の山も目的地に近づくにつれどんどん増えた。

老若男女が当たり前に行き交う町に早くなってほしい、いつしかそう願っている自分に気がついた。

しかし大熊町には新しい変化が生まれていた。空間線量の低い大川原地区に町役場の連絡事務所が出来たのもその一つ。町の復興の新たな拠点であり、一時立ち入りで戻る町民たちの情報交換の場にもなっている。派遣職員は4人。私たちも立ち入りの挨拶に訪れ、Sさんはしばし職員と楽しそうに世間話に興じた。皆、顔なじみ。動静も分かる。コミュニティが成立するには、何よりもこうした場が不可欠なのだと痛感した。

無人の大野駅(筆者撮影)

Sさんは限られた時間に出来るだけ多くの場所を案内したいと考え、一所懸命プランを練ってくれていた。新設された中高一貫教育のふたば未来学園、6,000人からの作業員に温かい食事を提供する給食センター、作業員宿舎、除染作業を進める常磐線の線路、今は廃駅の大野駅等々。除染されていない土地で試験的に米作の行われている場所にも足を運んだ。そこはSさんの土地や林が広がる場所でもあるからだ。収穫された米は放射能の基準値をこれまで一度も超えていないという。

「ここへ来ると小さい頃に川で遊んだことや楽しかったことがいろいろ思い出されますよ」と表情を和ませるSさん。92歳とは思えないSさんの健脚は、生まれ育った大熊町では一段と自信に満ちてしっかりしている。故郷とは何と不思議で力強いものなのだろうと、私はSさんの背中を見ながら思った。

Jヴィレッジやオフサイトセンターなどを見た時、私の気持ちはいささか複雑だった。それらは15年以上前に取材で訪れた場所でもあったからだ。福島第一原子力発電所にも入り、当時に聞いた「地震の際には原子力発電所に避難せよ」と言われるほど安全重視の場であること、地元民との共生を目指していること等の話は新鮮だった。

しかしその安全なはずの原子力発電所が、東日本大震災ではまさに地震を引き金に筆舌に尽くし難いほどの重大な帰結をもたらした。事故は不可避だったのか、安全神話が崩れた真の原因はどこにあるのか、問いへの答え、つまり宿題はまだ終わっていない。そのことも私が大熊町を再訪したかった理由だ。この宿題は関係者すべてがそれぞれの立場で取り組み、答えていかなければならないのだと思う。

再びSさん宅。奥の部屋の背丈ほどの大きな仏壇の近くに、もう一枚「必づ帰る」が貼られていた。「イノシシもこの部屋までは入って来ない。無事だ。必ず復興して見せます。そう先祖様に誓ったから」

戻る時間が迫り、後ろ髪を引かれる思いで大熊町を後にした。今、Sさんは自宅が除染される日を心待ちしている。「その暁には、Sさん、もう一度一緒に来ましょう」。私はそう声を掛けた。

千野境子Keiko Chino

Profile
産経新聞 客員論説委員
神奈川県横浜市出身。早稲田大学第一文学部卒業後、産経新聞社入社。マニラ特派員、ニューヨーク支局長、外信部長、シンガポール支局長、論説委員長などを歴任。最新刊は「戦後国際秩序の終わりー世界の中の日本」。

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