原子力産業新聞

メディアへの直言

新聞記事の影響力は「拡散不可」でますます縮小か

二〇二五年五月二十七日

 新築戸建て住宅への太陽光パネルの設置を義務付ける東京都の改正条例が今年四月から施行された。「太陽光は環境にやさしく、電気代が節約できる」といったミスリード記事が多い中、産経新聞(四月六日付)に「再エネ賦課金 家計にずしり」と題したおもしろい記事が載った。こういう記事こそ拡散を期待したいが、大手新聞の記事はほとんど拡散しない。そこがSNSと比べた場合の最大の弱点かもしれない。

再エネ賦課金の累計は
二十五兆円

 原子力発電への風当たりが依然として強い背景には、太陽光発電を全国くまなく拡大すれば、原子力がなくても電気エネルギーがまかなえるという幻想があるからだと、私は常々考えている。太陽光に関する大手メディアの記事の多くは「再生可能エネルギーの切り札といえる太陽光発電」といった根拠なき称賛の表現が目立つ。

 そうしたメディア空間に慣れきっていたところ、四月六日付産経新聞の1面トップに「太陽光未稼働8万件失効 高額買い取り認定分 政府『国民負担4兆円抑制』」との見出しの記事が目に飛び込んできた。同じ紙面の3面には「再エネ賦課金 家計にずしり 電気料金の1割超 月1600円上乗せ」との解説記事が載った。

 太陽光発電や風力発電などの事業者が発電した電気を電力会社が一定の価格で長期間、買い取ることを義務づけた「固定価格買い取り制度」(FIT)は二〇一二年にスタートした。電力会社がその一定の価格で買い取るときに上乗せされているのが「再エネ賦課金」(正式名称は「再生可能エネルギー発電促進賦課金」)だ。電気を使うすべての人がこの賦課金を負担する。言ってみれば、国民全員が負担する税金のようなものだ。

 この賦課金の単価は二〇一二年以来上昇し続け、二五年度の賦課金単価は一キロワット時あたり三・九八円と過去最高になった。標準家庭で見ると月額千六百円程度の負担増となるが、制度が始まってからの累計額を見ると、なんと約二十五兆円にもなる。太陽光の普及で電気代が安くなっているかと思いきや、現実は逆で、国民の負担は重くなっている。二十五兆円もあれば、国民のためにいろいろな社会的事業ができたのにと思うのは私だけだろうか。

旧民主党政権の負の遺産

 そもそもは当初の買い取り価格が高過ぎたのだ。確かに太陽光発電の事業者には利益が転がり込むだろうが、日本経済全体でみれば、電気代のコストはどんどん上がっていく。太陽光発電が原子力の代替にならないのは設備利用率が二〇%以下と低いからだ。欧州諸国は太陽光や風力発電の先進国といえるが、実は、太陽光と風力が普及している国ほど家庭の電気料金は高い(杉山大志著『データが語る気候変動問題のホントとウソ』参照)。だが、メディアの中に太陽光幻想が続くせいか、こんな当たり前のことが意外に知られていない。

 この賦課金制度は旧民主党政権時代の「負の遺産」として末永く語り継ぎたいが、すでに制度として定着している以上、今それを言っても仕方がない。こうした中、この非合理な制度を解消しようと必死になっているのが国民民主党だ。前述の産経新聞記事によると、再エネ賦課金の一時停止や見直しを主張する国民民主党は昨年三月、「再エネ賦課金停止法案」を提出したという。今後の活動に期待したいが、国会での関心は低いようだ。

二〇四〇年代に五十万トンのパネル廃棄物

 太陽光発電に関する記事といえば、毎日新聞が五月十四日に報じた「太陽光再資源化見送りへ 費用負担誰が 推進偏重ツケ」との見出しの記事もよかった。太陽光パネルを全国に広めていけば、いずれ寿命が来て廃棄される。二〇四〇年代前半には最大で五十トンもの廃棄物が発生する見込みだという。環境省と経産省はパネルの所有者に解体費用を、製造者にリサイクル費用を第三者機関に納めさせ、リサイクルを促す法案を用意したのだが、内閣法制局から修正要求があり、法案の提出が見送られたという。

 太陽光パネルが増えれば、いずれ大量廃棄がやってくるのはだれにも分かっていることだが、毎日新聞の記事は、冒頭の「脱炭素エネルギーの切り札として導入が広がる太陽光発電」との枕詞を除けば、その課題を分かりやすく解説した良い記事だといえる。

新聞記事は
著作権法の著作物

 今回は、太陽光発電の課題を突く記事を二つ紹介したわけだが、残念なのは、こういう良い記事を見つけても、その内容を拡散できないもどかしさだ。上記の産経新聞の記事はネットでもほぼ公表しており、だれでも読めるが、記事自体を勝手に広めることは難しい。記事は有料の商品だからだ。

 そもそもメディアの目的は何だろうか。それは自社の報じた記事(ニュース)を少しでも多くの人に知ってもらうことだろう。しかし、残念ながら、新聞の記事を他の人に届けようと思っても、記事は新聞社の知的財産とあって、コピーして配ることはできない。記事をコピーして、そのコピーをネットでみなに知らせることもできない。インターネットがあまり普及していなかった時代には、新聞記事を大量にコピーして、仲間に配っても、お咎めはなかったが、今は厳しい。新聞記事は著作権法で保護された著作物であり、著作者の許諾なしに記事を複製して配布することは禁止されているからだ。

 しかも、新聞記事の大半はネットでは無料で読めず、多くは有料の情報だ。有料の情報を無料で拡散すれば、商品のタダ売りになってしまい、メディア自体の自殺行為になってしまう。無料で情報を発信すれば、取得するのにかかったコストも回収できない。つまり、新聞社は自社のニュースを拡散させて広く知ってほしいと思っても、その目的を達成できないのである。

ニュースの価値は
拡散こそにある

 大手新聞の購読者が激減している中で、どの新聞社も記事を少しでも有料で売ることに腐心し、職場などでの記事のコピー配布にますます目を光らせている。しかし、そうなるとますます新聞記事は拡散できず、かつてのようなマスコミ的な影響力を行使できなくなる。

 つまり、いくら良い新聞記事を見つけても、それを不特定多数の大勢に知らせることができないのだ。かたやSNSの世界では、信頼度の有無はさておき、コピーして知らせると言う意味ではほぼ無限に情報を拡散できる。

 昨年秋の兵庫県知事選の情報戦では大手メディア(新聞やテレビ)の発信力(情報の拡散力)が、無数の人たちがプレーヤーとなるSNSの発信力(情報の拡散力)に負けた事例だ。大手メディアはもはや昔のように、何百万人もの読者に一度に情報を届けるマスメディアではなくなってきている。

 米国を拠点に活躍する新進気鋭の現代美術家、松山智一氏がテレビ番組で次のようなニュアンスのことを言っていた。作品を作っただけでは何の影響力も感化力もない。その作品に共感する人がいて、その共感の輪がくまなく広がっていって初めて、作品の影響力が生まれる。周囲の反応と拡散という関係性こそが作品の価値を広めていく。

 それを聞いていて、新聞の記事も同じではないかと思った。記者が記事を書いただけではその価値はまだ低い。拡散して、人の心に突き刺さったときに初めて大きな価値が生まれる。そう、拡散こそが価値を生み出すのだ。

 兵庫県知事選でSNSが発揮したパワーはまさに「拡散力」にあった。大手新聞社が自社記事をもっと国民に読んでほしいのであれば、課金なしで拡散させるビジネスモデルを考えないとその影響力はますます低下していくだろう。[1]編集部注:原子力産業新聞は、どなたでも登録なしで、全ての記事が無料でご覧になれます。

脚注

脚注
1 編集部注:原子力産業新聞は、どなたでも登録なしで、全ての記事が無料でご覧になれます。
小島正美Masami Kojima
元毎日新聞社編集委員
1951年愛知県生まれ。愛知県立大学卒業後に毎日新聞社入社。松本支局などを経て、1986年から東京本社・生活報道部で食や健康問題に取り組む。2018年6月末で退社し、2021年3月まで「食生活ジャーナリストの会」代表を務めた。近著「フェイクを見抜く」(ウェッジブックス)。小島正美ブログ「FOOD NEWS ONLINE

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