高市首相の「信を問う」選挙は リベラル系メディアの盛衰を決する!
二〇二六年一月十六日
今年も紙媒体のオールドメディアの行方が気になるところだが、昨年から今年にかけて、リベラル系メディアへの信頼を落とす出来事が相次いだ。そこへ、高市早苗首相の「解散」のニュースが飛び込んできた。リベラル系メディアは早くも「党利党略」「自己都合解散」と囃し立てるが、高市氏に批判的なリベラル系メディアは今後、どこまでその力を発揮できるのだろうか。
オフレコ破り報道
昨年12月、メディアと政治の関係で大きな注目を集めたのが、高市政権で安全保障政策を担当する官邸関係者の「日本は核保有をすべきだ」との発言をめぐるオフレコ破り報道だ。取材時のオフレコ(off the record)とは、「この話はここだけにとどめ、報道・公表は控えてください」という意味だ。
毎日新聞社で記者をしていた私も何度かオフレコ取材を経験したが、それを破ったことはない。破れば、取材相手との信頼関係が完全に崩れてしまうからだ。ただ後日、報道したい場合は「これこれの内容で報じたい」と事前に了解をとった上で報じていた。了解なしにいきなり報じることが許されないのは、記者だからというよりも個人のモラルとして当たり前だからだ。
核保有発言のオフレコ破りの経過は新聞やテレビを見ていてもよく分からないが、まず最初に報じたのは朝日新聞(12月19日付朝刊)だ。「官邸幹部『日本は核保有すべきだ』との3段見出しで「首相官邸の幹部は18日、報道陣に対して、日本を取り巻く厳しい安全保障環境を踏まえ、個人の見解としつつ、『日本は核兵器を保有すべきだ』との考えを示した」と報じた。残念なのは、どこを読んでも、この記事がオフレコを破っての報道だとは書かれていないことだ。翌日の各紙を見て初めて、オフレコ破りの記事だと知った。
個人の内面を
断罪してよいのか?
オフレコを破るからにはそれ相当の理由があるはずなので、その理由も含めて、発言の全文を載せて、「オフレコを前提とした非公式のやりとりだったが、これこれの理由でオフレコを破ってでも報じた」と書くのなら、読者への信頼も高くなるだろう。だが、記事を見る限り、発言の一部を切り取って、特ダネ的な意識で報じたような印象を受ける。
産経新聞だけは中国やロシアの脅威が迫る中、「議論に一石を投じた一面もある」(12月20日付朝刊)と発言を肯定的に書いたが、他紙はみな発言に批判的だ。ただ、オフレコ破りは、記者そのものへの不信感を高めたことは間違いない。
特に理解に苦しむのは、非公式な場でやりとりされた個人的な意見を記者が問題視したことだ。個人が心の中でどんな思想、信条、価値観をもっていようが、だれにも責める権利はない。ある思想、価値観をもっているだけでその人を断罪するのは旧ソ連のスターリン時代の粛清か、戦前の治安維持法下の取り締まりを思わせる。そういう個人的な内面を問題にしてはいけないという寛容な自由(リベラリズム)の大切さを熟知しているのがリベラル系メディアだと思っていたが、その思想、信条が高市政権を批判する手段(武器)となると見るや、リベラリズムの原則を自ら放棄してしまったという印象はぬぐえない。結果的に見ても、このオフレコ破り報道は日本への圧力を強める中国政府への援護射撃となった。
東京新聞がコラムを削除
そんな矢先、朝日新聞と似た者同士の東京新聞が1月9日付紙面で1月1日に載せたコラムを削除するというビッグニュースが入ってきた。東京新聞は1日の紙面で西田義洋特別報道部長が「『熱狂』に歯止めを」と題して、「『中国なにするものぞ』『進め一億火の玉だ』『日本国民よ特攻隊になれ』。ネット上には、威勢のいい言葉があふれている」と書き、高市首相の存立危機事態発言に批判的な記事を載せた。
ところが、読者の指摘から、8日たった9日、「中国なにするものぞ」といった冒頭部分は誤りだったとする謝罪文を載せた。この謝罪文を見て、私は思った。熱狂をつくって不安を煽っているのは東京新聞だと。
この東京新聞の失態(謝罪文掲載)を朝日新聞と読売新聞はベタ記事(重要度が低いと判断される1段扱いの短い記事の俗称)で報じたが、詳細な記述はなく、新聞読者の中にはいまなお東京新聞の誤報を知らない人が多いのではないか。
この問題については、弁護士でジャーナリストの楊井人文氏は、紙面での謝罪やコメントだけでいいのかと鋭く切り込み、以下のように述べている。
「・・・考えられる一つの方法は記者会見だ。不祥事や疑惑があった際、報道機関から厳しい質問を受け、社会的な説明責任が求められるのが一般的だ。ところが、逆のパターン(報道機関の不祥事や疑惑)での会見が行われることは滅多にない。大抵、官僚的な短いコメントで済ます。こうした慣行が人々を伝統メディアから遠ざけている要因の一つだと思う」(Yahoo!ニュース1月9日)。
全く同感である。メディアは責められる立場になると途端に門を閉ざす。オフレコ破り報道も、事後の説明はなく、読者は置き去りにされたままだ。紙媒体の報道が一方通行なのがこれでよく分かる。これでは読者の信頼をつなぎとめることは無理だろう。このままでは紙媒体の衰退は必至だ。
ぶら下がり取材の減少
そういう政治とメディアの流れの中で珍しい現象が起きている。高市首相の「ぶら下がり取材」が激減しているという現象だ。ぶら下がり取材とは、首相が官邸などで記者団の質問に短く答えるやりとりだ。北海道新聞(25年12月22日のYahoo!ニュース)は、高市首相が就任以来、記者団の取材に応じたのは17回しかなく、石破首相の31回、岸田首相の42回に比べて、極端に少ないと報じた。朝日新聞と似た傾向をもつ北海道新聞はこの現象について、「首相に都合の悪い情報が国民に伝えられないリスクをはらむ」とネガティブに報じた。
私の見方は全く逆だ。首相側がようやくメディア側と対等の立場に立ったのだ。これまで首相側(政権側)はメディアというフィルターを通じてしか国民に語りかける術がなかった。そのメディアが信頼できるならよいが、過去のオフレコ破り報道に見られるように、首相の言葉が勝手に都合よく切り取られ、「編集の独立」という名目でときに中国に利するような形で報じられてきた。
しかし、いまや既存のメディアが情報伝達を独占する時代ではなくなった。不確かな記者団のぶら下がり取材に頼らなくても、首相は自ら主張したいことを「X」(旧ツイッター)などで直接国民に語ることができるようになった。現に高市首相はXで語り始めている。Xなら首相の全発言が読める。
Xで誤報が判明
しかも、Xを通じて報道の誤りが明かされる効用もある。昨年12月下旬、高市首相夫妻(夫は山本拓元衆院議員・脳梗塞でリハビリ中)が公邸へ転居した際、「バリアフリー対応の改修が実施された」と日本経済新聞や時事通信などが報じた。ところが、高市氏は1月9日のXで「私達の公邸への転居に関する報道を目にした夫は、落ち込んでいる様子でした。それは、大手報道機関も含めて、転居を前に公邸はバリアフリー対応の改修も実施されたという誤った報道を目にしたからです」などと報道の誤りを指摘した(ちなみにネットではバリアフリー工事はどんどん進めたほうがよいというコメントが多かった)。
この誤報の判明は明らかに高市首相が自らXで語り始めた成果だ。
これらの事例を見てもわかるように、12月から1月にかけて、高市首相のぶら下がり取材がめっきり減ったのは、高市首相のメディアへの不信感の表れのように思える。リベラル系メディアは安倍総理を徹底して批判してきたが、安倍氏を引き継ぐ高市首相へのスタンスも変わらない。
処理水の放出時と
似た空気が醸成
こうした中で中国政府は観光客の渡航自粛要請やレアアース(イットリウムなど希土類元素)の輸出規制などを通じて、日本への圧力を強めている。この光景はどこかですでに見た既視感がある。そう、福島第一原子力発電所の処理水の海洋放出が始まった23年8月の光景だ。
当時、中国は日本からの水産物輸入を全面的に禁止する理不尽な措置をとった。このとき日本の空気は不穏になるかと思いきや、懸念された風評被害は生まれず、逆に日本の中に連帯精神が生まれたことをご記憶の方もいるだろう。リベラル系メディアが中国寄りの報道をしても、日本の空気はそれに引きずられなかったのだ。
それと似た空気がいま生まれようとしている気がする。立憲民主党と公明党が新党を結成して波乱にみえるが、どちらも親中国のスタンスなので、高市政権とリベラル系メディアの対決構図は変わらない。次の総選挙の結果はリベラル系メディアの盛衰を決するのではないか。
