最終処分地の南鳥島案 ケチばかりつけるメディアに存在意義はあるのか?
二〇二六年四月二十七日
高レベル放射性廃棄物の最終処分地の選定を巡り、国は4月下旬、南鳥島での文献調査に着手する方針を東京都小笠原村の渋谷正昭村長に伝えた。処分地選定に向けて一歩前進だと言えるが、さっそく朝日新聞や北海道新聞は痛烈な批判を繰り返す。こういう評論家的な意見を聞くと、事態を少しでも前進させたいという意欲が全くないことが分かる。
国の申し入れでは
初の選定地
文献調査の実施は、北海道の寿都町と神恵内村、佐賀県の玄海町に次いで四例目となるが、国からの申し入れで文献調査が決まったのは南鳥島が初めてだ。既存の研究データを机上で調査する文献調査(二年)は、概要調査(ボーリングなど四年)、精密調査(坑道の掘削など14年)へと進むための第一段階の調査で、国から支援金として20億円が支給される。
日本最東端にある南鳥島は、東京から約二〇〇〇㎞、小笠原村の父島や母島からも約一二〇〇㎞離れた離島。国の施設があるだけで一般住民はいない。これまで多くのメディアは「自治体任せはよくない」を批判してきただけに、住民のいない離島なら、客観的に見て妥当な候補地だと思った。
朝日新聞は
「前のめり」と批判
ところが、朝日新聞(4月16日の社説)はさっそく「処分地の確保は国の責務とはいえ、前のめりになって選定を進めれば、反対を押し切る危うさがあることには注意が必要だ」と微妙な言い回しで批判を展開。こういう文脈で使う「前のめり」とは「準備不足で性急すぎる」という意味だ。国が「前のめりに」なって選んだという証拠を見せずに、朝日新聞はいとも簡単に「前のめり」と書く。どうみても評論家気分だ。
また、次のようにも批判する。
「国がいま調査に乗り出す背景には、核のごみ処分地のあてもないまま、『原発の最大限活用』にかじを切ったことへの懸念や批判をかわす狙いもあるとみるべきだろう。(中略)あえて絶海の孤島を選んだ背景に、関係者の理解が得られやすいからという思惑があるのかは判然としない」。
絶海の孤島を選ぶ理由は、予想される住民の反対が少なく、関係者の理解が得られやすいという利点があるからだ。それは良いことであり、決してマイナスではない。昨今の中東情勢で原油の確保が突発的に難しくなる時代状況の中で原子力発電所の役割はますます重要になっている。少しでも批判が少ない案を考え出して、予想される懸念や批判を最小限にとどめようとする選択肢を国が熟慮の末に選ぶことのどこが問題なのだろうか。
朝日新聞はこういう熟慮の末の選定に対しても、「批判をかわす狙い」と書き、まるで相手を見下したような態度で冷淡に受け流す。ゆがんだ性格としか思えない。
何がどう転んでも批判
さらに気になることは、国の苦心に満ちた選定に対して、「関係者の理解が得られやすいからという思惑があるのかは判然としない」と書き、あえて「思惑」という言葉を使う。「思惑」という言葉は、この種の文脈では、ずる賢い「魂胆」や「腹づもり」といった意味合いだ。しかも、この文章は「思惑があるのかは判然としない」となっている。国が南鳥島を選んだ理由のひとつは、素直に解釈すれば、「理解が得られやすいから」だと思われるが、朝日新聞はなぜか「思惑があるのかは判然としない」と分かりずらい言い方をする。
もし「判然としない」と思うなら、国に取材して、思惑の中身を確かめたうえで書けばよいのに、まるで他人事のような評論だ。私には無責任さがにじみ出ているようにもみえる。朝日新聞は社会面(3月27日付)でも、「国が一方的に選び、調査を受け入れるかどうかを村民で決めてくれというのはおかしい」といった反対の声を大きく取り上げ、批判を展開した。何がどう転んでも、常に批判する。これが朝日新聞の信条なのだろう。
北海道新聞の尊大な態度
朝日新聞とよく似た論調で知られる北海道新聞の社説も、まるで評論家気取りだ。4月15日の社説で「手挙げでも国主導でも、調査地はいずれも人口が少なく財政規模の小さい自治体だ。弱みにつけ込む狙い撃ちのような手法が科学的な選定プロセスにつながるのか疑問を禁じ得ない」と書いた。
処分場の選定は日本国民全員にとって必要不可欠な公共的な事業である。どの地を選べばよいかは、そう簡単ではなく、熟慮の上にも熟慮を重ねて決めていくしかない。ところが、北海道新聞はやすやすと「弱みにつけ込む狙い撃ちのような手法」と書く。これでは罵詈雑言に近い。物事を少しでも前進させたいという心意気が全く伝わってこない。言葉は悪いが、社説を書く論説委員は「何を書いても責任を取らずにすむお気楽な商売だなぁ」と思う。
さらに驚いたことに、北海道新聞は同じ社説で「主体的な検討をせずに国にげたを預けた小笠原を前例とし、国が高圧的に調査受け入れを迫るようなことがあっては地方自治の本旨に反する」と書いている。「小笠原村が主体的な検討をしなかった」と言いたげな書きぶりだ。小笠原村長になんと無礼な物言いであろうか。国の案を容認した自治体に向かって「主体的な検討をせずに」と形容する物言いは、上から目線の尊大な態度に思える。
遺伝子組換え作物の教訓
処分地選定のような国家的なプロジェクトの推進にとって、最大の壁は反対運動である。
日本で遺伝子組み換え(GM)作物が流通し始めて、ちょうど30年になる。現時点で言えることは、世界中で組み換え作物が栽培されているのに、日本ではいまだに輸入はするけれども、国内での栽培は実現していないという点だ。もちろん、法的にはどの生産者も日本国内で栽培することは可能だが、ことごとく反対運動によってつぶされてきた。国の研究機関が試験栽培するときですら、試験栽培の中止を求める訴訟を市民から起こされ、研究者は訴訟に追われてヘトヘトになり、研究どころではなくなり、ついには研究が頓挫したこともあった。
反対運動がないことの
メリットは莫大
国の省庁関係者にとって、反対運動への対応は精神的なストレスが多く、コストや建設準備などの労力よりも神経をすり減らす。遺伝子組み換え作物の現場でそういう悲惨な状況を見てきた経験から言うと、南鳥島は住民がいないだけに、国内の他の処分地候補に比べると明らかに反対運動の有無では有利だ。反対運動がなければ、仮にコストがかかっても着々と事業を展開できる。
小笠原村の文献調査受け入れに関して、産経新聞だけは「資源に乏しい日本で原子力発電を持続可能なエネルギー源とするために極めて重要な対応である。理性ある決断に敬意を表したい」と社説(4月15日)で高く評価した。これが国民のおおかたの素直な反応であろう。
物事がよくなる方向に動き出しても、リベラル系左派メディアはいつも水を差し、ケチをつける。ケチをつけるとは、物事の欠点を見つけて非難したり、縁起の悪いことを言って雰囲気を台無しにしたりする行為だ。改善提案とは程遠い姿勢だ。こういう記事を読む気はますますうせる。
