高市首相の記者会見の減少は 記者クラブが守りたい既得権の喪失の反映か?
二〇二六年六月二十三日
高市首相の記者会見が減っていることを問題視する大手新聞社の記事が目立ち始めた。「このことをどう考えているか」という問いをこのコラムの読者からいただいた。この問題は、ひと言で言えば、大手新聞社の影響力や信頼力が低下した結果として起きた、起こるべくして起きた事象だといえる。
かつてメディアは
門番だった
大手新聞社や地方新聞社が大きな力をもっていたのは、どの人も、新聞やテレビ、週刊誌などの媒体を通じてしか世の中の出来事を知る術がなかったからである。政府が国民に向けて、何か重要なことを伝えたいときも、記者会見を開いて、記者たちに情報を伝達するしかなかった。
つまり、政府と国民の間にメディアがいて、そのメディアというフィルターが門番の役目を果たしていたのである。
そもそも「メディア」の語源は、ラテン語で「中間」や「媒介」を意味する「medium(ミディアム)」から来ている。送り手と受け手の間に立って「間をつなぐもの(仲介役)」がメディアだったのである。
記者は独占的に情報を入手
このメディアの仲介役を一変させたのが、インターネットの出現である。記者たちが独占していた政府関連の情報が広く一般の人たちに公開されるようになったことで、記者たちの立場が危うくなったのである。
私の体験を話したい。1990年代後半、私はダイオキシンなどの環境ホルモン問題を追っていた。当時、各省庁の審議会に出席できたのはほぼ記者だけで、そこで配布される資料は記者が独占していた。たとえ名の知れたダイオキシンの研究者でも、審議会の委員でない限り、政府の担当者に資料を要求してもすぐには入手できなかった。そうした中、私はしばしば資料をコピーして研究者に渡していた。審議会の会議室の外で待っている研究者に手渡すことさえあった。
記者は、政府の資料をいち早く入手できるいわば特権的な立場にあったのだ。ついでに言えば、当時、記者はアポなしで自由に省庁に出入りできた。
そして、審議会の翌日に審議会に関係する記事が出たとしよう。しかし、いくら優れた研究者といえども、その記事がどこまで的確かを判断する術はなかった。なぜなら政府の資料を入手していないので、資料と記事を照らし合わせることができなかったからだ。記事のどこがどう偏っているか、どこに誤りがあるかを判断できなかったのである。
インターネットの出現で
事態は一変
ところが、2000年を過ぎたあたりから、政府の審議会の資料は審議会が終わるか事前に公表されるようになった。広報リリースに関しても、記者と国民が同時に見られるようになった。これで記者の特権的地位(いち早く政府関連情報にアクセスできる特権)は一気に失われることになった。さらに記者の書いた記事がどこまで正確で、どの部分を記事にしなかったかがすぐに第三者が判断できるようになった。
私自身の経験でも、私が書いた記事よりも、ネットで読む専門家の解説記事のほうがすぐれていると思ったことが何度かあった。記者と専門家が同列に並んだ瞬間だった。
だれもがネットで政府関連の最新情報にアクセスできるようになったため、医師たちに取材する際にはしばしばこんな非難めいた声を聞くケースにも出遭った。
「せめてインターネットで分かるような初歩的な知識を得てから取材に来てほしい。あなたのような素人になぜ、私が1時間もレクチャーをしなければいけないのか。そんな暇はない」
自分の勉強不足が恥ずかしくなる体験を何度も重ねるうちに、正直、もはや記者の力は、ネット情報にアクセスする数多くの専門家や市民に勝てないと思った。専門家からバカにされたら、記事は見向きもされなくなる。私が科学的なエビデンスを重視することの重要性を悟ったのも、2000年を過ぎたころからだ。このままでは記者や新聞記事は信頼を失い、購読者は減ってしまう。心底そう感じた。
新聞・テレビとSNSの
パラレルワールド
あれから20年以上たった。記事の誤りはすぐに暴かれ、記者がどんな出来事をスルーし、どんなふうに記事を加工・編集しているかが第三者にも分かるようになってしまった。そうなると、もはや新聞を購読する必要性が失われる。その結果、ユーチューブやXなどのSNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)の世界と、新聞やテレビなどのオールドメディアの世界が並行して成立するパラレルワールドが成立した。
オールドメディアを見ていると、記者が切り取った出来事の一部しか分からない。一方、同じ出来事をSNSで見ると全く異なる視点からの現象が浮かび上がる。たとえば、主に週刊文春と共同通信が報じている、高市首相の秘書がかかわるとされる中傷動画作成をめぐる問題でも、SNS上で交わされている疑問や受け止め方と、新聞・週刊誌記事から受ける印象は大きく異なる。新聞はSNSの疑問に応えていないとさえ感じる。
もはや新聞記事は数ある情報媒体のひとつだ。政府から見ると、新聞やテレビの記者会見に頼らなくてもよい状態が生まれてしまったのである。
高市首相はXへ投稿
高市首相の記者会見の減少は、こういう状況の中で生じている。政府からみれば、もはやメディアの力を借りる必要がなくなり、代わって高市首相はXへの投稿を通じて直接、自身の考えを直接国民に発信し始めた。記者会見を開いて、自らの考えを述べたところで大手新聞社はその考え全体を紹介して記事にすることはまずない。「新聞社は政府の広報ではない。垂れ流し報道は記者のすることではない」と記者たちは考えているからだ。
しかし、国民から見れば、まずは首相が何を言い、何を考えているかをそのままストレートに伝えてほしいと思う。そのうえで、新聞社が独自の批判をするならよいが、そういう記事のスタイルにはなっていない。
記者クラブの
閉鎖性の打破こそ必要
そもそも「記者会見」という言葉から分かるように、記者クラブに属する記者だけが会見をおこなえるのはいわば記者の特権である。情報アクセスで優位性を失った記者たちが、どうしても守りたい最後の砦(既得権)が記者会見なのだろう。
記者会見がなくなったからといって、取材ができなくなるわけではない。私は約40年間、東京本社で記者をしていたが、省庁などの記者クラブに属したことは一度もない。でも、取材自体に支障はなかった。支障を感じたのは記者をやめたあとだ。フリーのジャーナリストは記者クラブ主催の会見には出席できないと言われたことさえあり、記者から外れて初めて、記者クラブの閉鎖的な体質を思い知った。
メディアは首相のX発信を「一方通行だ」「マスコミとの対話をなぜ避けるのか」と批判するが、新聞記事もテレビ報道も一方通行なのは同じだ。新聞記事を読んでいて、ちょっと聞きたいことがあっても、メールでの問い合わせも難しい。読者のニーズに応える民間企業であれば、経済面、国際面、政治面、社会面など各紙面ごとに問い合わせ用のメールアドレスを毎日載せるべきだろう。おそらく記事に関して問い合わせをしても、個別の記事には対応できないと断られるのが関の山だろうが(実際に私はそういう経験をしている)。
高市首相が何を考えているかを知るうえでXの投稿は非常に役立つ。記者会見が減ったことに対して、おそらく賛同の声は少ないだろう。記者たちが「フリーランスやネットジャーナリストなども含めて、もっとオープンな記者会見をやるべきだ」と訴えるなら、賛同の輪も広がるだろうが、自分たちの既得権益を守るための記者会見をいくら訴えても、国民の心には響かない。
