原子力産業新聞

福島考

震災以降、医師として福島県浜通り地方に関わり続ける筆者が、地元に密着した視点から記すコラム。

『専門家』の意見はなぜ割れるのか:誤った科学信仰からの脱却を

25 Dec 2015

「結局福島でがんが増えているのか、いないのか」

福島の放射線量のお話しをするときに、そのように聞かれることがよくあります。正確な回答をすれば、「科学的には証明されていません」ということになると思います。

なぜ科学が断言できないか。その点についてはまた別稿で書かせていただければと考えていますが、問題はこの回答に対し、両極端の解釈をされる方々がいることです。一方は、「がんが増えているというニュースがこれだけあるのに『証明できない』というのは、何かを隠ぺいしているからに違いない」と批判し、断言をしない専門家を「御用学者」と断罪する人々。もう一方は、「証明されていないのだから原発事故の影響は今のところ『ない』のだ」と主張し、前者の訴えを一蹴する人々です。方や研究者を、方や苦しんでいる住民の方を傷つける発言となりかねないため、個人的にはいずれの意見も賛同しがたいものがあります。

このような極論の出る背景には、断言されたものしか報道しないメディア、という存在もあります。自分の意見を通すためには「専門家」は何かを断言しなくてはならない。福島に住む研究者は、常にそのプレッシャーを感じています。それだけでなく、メディアの注目を浴び、名を売ろうと、外部からわざわざ福島に入り、福島は危険だと断定することで良識ある専門家たちの声を排除しようとする人の存在もまた、問題となっています。

「『専門家』が全く別のことを主張するから、住民が振り回されるのだ。特に医者が一番ひどい。」

このようなお叱りの言葉を受けることもあり、本当にその通りだと申し訳なく思うことも多々あります。しかしでは、なぜ専門家、特に医師の間で福島のがんに対する意見が割れるのでしょうか。

研究と臨床の視点
おそらく一番の理由は、科学を重視して現状を俯瞰する人と、臨床を重視して患者に寄り添う人が互いを論破しようとしていることにあると思います。

1)研究医の視点
実験科学は、再現性と客観性を重視する学問です。つまり、「普遍的真理は条件が代わってもまた真」である、という前提に基づき、再現性を重視するため、がんであれば人口当たりの発がん率などを比較し、「統計学的有意差」が出るか、出ないかなどの議論をします。福島のがんが放射能によって増えたか、増えていないか、と考えるのはこのような科学の役割です。

しかし、人間社会の学問においては、全く同じ条件で再現性を確かめたり、2つのグループを比べられたりすることは殆どありません。「条件が悪いから」「データが足りないから」証明ができない、ということと、実際にある社会問題が起きていないこととは別物です。つまり、科学だけで現実社会に対応することには限界があるのです。

2)臨床医の視点
一方、臨床医は患者さん一人一人に寄り添う立場です。たとえば福島のがんであれば、がんで苦しむ人がいるかどうかを問題とし、それが日本人の2人に1人がかかる一般的ながんであっても、放射能の影響によるがんであってもあまり問題にしません。

「福島にいて、がんになり、『放射能によってがんになってしまったのかもしれない』と傷ついている患者がいる」と社会に訴えるためには、このような方の寄り添う視点が必要です。

しかし、当たり前のことですが症例をいくつ見ても、がんが「放射能によって」「増えていること」の証明にはなりません。公害問題などでは患者さんの体内に蓄積した物質から公害を証明できることもありますが、少なくとも今の福島県で、検出感度以上の内部被ばく量を示す方はほとんどいないからです。

つまり、特に医師の世界では、研究医の視点から「この放射線量ではがんのリスクが上がることは考えづらい」、「がんが増加したという証拠はない」と言う人と、臨床医の視点から「実際に甲状腺がん患者がこんなにいるのになぜそこから目をつぶるのだ」と反論する人との水掛け論が繰り返されているのです。

正しい住み分けを本来視点が違うのだから、この二者がお互いを説得する必要はありません。
原発事故が実際にどの程度の健康影響を及ぼしているのか、数値を示してそれに基づいた対処を政府に求めていくのが科学の役割である一方、実際に福島で困っている人々に寄り添い、マイノリティの声を拾い上げるのが臨床家の役割です。これは研究医と臨床医に限らず、たとえば科学者と社会学者、疫学者と法律家などの視点の違いでもあると思います。

しかし今の福島では、なぜかどちらの立場の人も「マス・データによるエビデンス」にこだわりすぎているような気がします。その結果、自分の求めるようなエビデンスが出なければ科学者を誹謗する、という本末転倒な事態がしばしば起きるのです。

代表的なものが、「チェルノブイリで起きたことが、福島で起きていないのはおかしい」、「福島で甲状腺がんが100例以上出ているのに、増えていないはずがない」と世論を煽り、科学者が相手にしなければ「証拠隠ぺい」、「御用学者」と非難する人々です。

実はこのような方々の中にこそ、「科学的論証のないものは社会的に認められない」という歪んだ科学偏重があるのではないでしょうか。

証明されない事実の役割
前回の寄稿福島における放射線教育の行き詰まりで、実際に原発事故の後に起きた健康問題の多くは、放射能の直接影響ではなく、むしろによるそれよりも遥かに大きく、複雑だということを示しました。

本来はこのような事実を丁寧に拾い、「このような被害に対して、再稼働している原発は対策を立てていないではないか」と提言していくことこそが、住民に寄り添う立場の方々の本分だと思います。あるいは、科学的に証明できないことに対し、「証明に必要ながんのデータベースを作る気がないのは、何かを隠したいと思われてもしょうがないのでは」という批判をしてもよいかもしれません。

しかし、個々の症例を考察する立場の方々が、マス・データの優位性に目を奪われるあまりに、エビデンスを求めすぎてその考察を怠っているのではないか。また、耳を傾ける立場の行政も、このようなソーシャル・サイエンスを軽視しすぎているのではないか。今の福島県を眺め、そのように懸念しています。

福島に対し、科学でできることには限界があります。社会で起きていることで、統計が人々の幸せに貢献できることなどは、ごく僅かです。ぜひとも色々な立場の方がその事実を認識し、各々の専門から福島の人々を幸せにすることに専心していただきたいと思います。

越智小枝Sae Ochi

Profile
東京慈恵会医科大学臨床検査医学講座 主任教授
1974年生まれ。東京医科歯科大学卒。都立墨東病院医長などを経て、インペリアルカレッジ・ロンドンで公衆衛生を学び、東日本大震災を機に被災地の医療と公衆衛生問題に取り組んでいる。

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