原子力産業新聞

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インタビュー

西本 由美子 ニシモト・ユミコ NPO法人ハッピーロードネット理事長

西本 由美子ニシモト・ユミコ

NPO法人ハッピーロードネット理事長

1953年福島県いわき市生まれ。双葉郡広野町在住。3人の息子の母親。2008年NPO法人ハッピーロードネットを結成。誰もが真剣に責任を持って継続的にまちづくりに参加し、楽しく住みやすい地域社会を実現することを目指して、ハイスクールサミット、国道6号線清掃活動、「ふくしま浜街道・桜プロジェクト」などの活動のリーダーを務める。東日本大震災後は原発問題に取り組める人材育成のために国際交流活動にも取り組む。

東日本大震災と福島第一原子力発電所事故の発生からもうすぐ10年になる。原発事故は何をもたらしたのか。震災前から福島県浜通りの地域づくりに取り組み、震災後、浜通りの子どもたちと共に様々な活動を展開してきたNPO法人ハッピーロードネット理事長の西本由美子さんの視点から、福島の復興を考える。

子どもたちが主役の
桜プロジェクト

── 浜通りのいわき市から新地町まで総延長163kmの国道6号線に2万本の桜を植えるという「ふくしま浜街道・桜プロジェクト」はどのようにして生まれたのでしょうか。

アイデアは子どもたちが出したんです。震災前、浜通りの将来のまちづくりを考えるフォーラムで「国道6号線の景観が美しくなれば、きっと、たくさんの企業が来てくれるよね」という意見が出たのがきっかけです。「じゃあ、みんなで桜の木を植えよう!」と決まった矢先に震災が起きました。震災後、2012年の春からプロジェクトが再び動き始めて、ようやく2013年1月から実際に植えられるようになりました。

地元の企業さんのサポートで、子どもたちが桜の木のオーナーになれるんです。小学生や中学生、高校生が大きくなっていき、自分の桜の木も同じく成長していく。桜の木のオーナーには、メッセージを書いてもらっています。子どもたちがメッセージを書けるのは、いろいろな企業さんが応援してくれるから。でも、企業さんの名前は前に出てこない。子どもが主役で企業は完全にサポート役に徹してくれます。これまでに1万2千本の桜を植えました。

怒濤の10年を経て、
震災当時を振り返る

── 東日本大震災からもうすぐ10年になります。いまのお気持ちをお願いします。

地域づくりを20年以上やってきました。原点は「広野町交通安全母の会」の活動です。双葉郡の主婦たちで「常磐道を応援する女性の会」をつくったのが、NPOの結成につながりました。地域づくりって、いつまでも続くものなんです。震災の直後は、もう無理だな、やめようかなと思いましたが、やっぱりやらなきゃいけないと怒濤のようにやってきた10年間でした。こういうことができたからそれでよしとする10年か、それとも、もっと違う何かを望んでいたはずなのに、なんでここまでしかできなかったのかという10年か。国だの県だの住民だのという垣根をつくらないで、子どもたちの将来に輝きを取り戻すための10年にしなきゃいけないのに、もしかしたら大人のエゴや利権でそれを遅らせたかもしれないという思いが私の中にはあります。

2011年3月11日は、夏に開催するハイスクールサミットの打ち合わせで仙台に行く予定でした。ところがその朝、突然激痛で手が上がらなくなって、これじゃ運転できないから無理だと、日にちをずらしてもらって家にいたら、そのうち痛みはなくなったの。不思議でしょう?その数時間後に物凄い地震が来ました。もう空が真っ黒で、海から来る風の中が真っ黒なんですよ。津波で水しぶきの中に砂が混じっていたって後から聞いたんだけど。自宅の真正面にある広野火力発電所の煙突から真っ黒い煙がまっすぐ上がって、もう天と地がおかしくなって言葉が出ない。家の中では買ったばかりの100インチのテレビが固定してあったのに倒れているし、食器棚から小皿が飛び出すし、もう大変でした。あの日もしも仙台に出かけていたら、帰りは津波の真っただ中だったでしょうね。

サッカー協会とのご縁に助けられ活動再開

── 福島第一事故の後、広野町も全町避難でしたね。

13日には、三男が住む東京へ行きました。東京でもひどい体験をしましたよ。ガソリンがなくなって、3時間も4時間も順番待ちしたのに、いわきナンバーだからって、売ってもらえない。車のフロントには生ごみを置かれるし。テレビ見ると暗いニュースばっかりだし。しばらく、ごはんも食べられなくなりました。

私は東京に知人がほとんどいないのですが、ふと、日本サッカー協会副会長(当時)だった大仁邦彌さんに電話してみました。「私、鬱になっちゃってどうしよう」と言ったら、「今日はオフィスにいるからすぐ来い」と。サッカー協会では体育館に物資をいっぱい集めていました。

それを見てハッとしたんです。「あ!こんなことしてられない」って。そこで、体育館を貸してもらって事務所も作って、全国の道路の女性の会に連絡して物資を集めて、子どもたちの安否確認も始めました。全国の物資が集まると、サッカー協会のスタッフが選別を手伝ってくれて、私はその物資を車に満杯に積んで、朝の4時頃、被災地に向かいました。

うちの息子は1997年にJヴィレッジができた時の1期生なんです。母たちはJヴィレッジの花壇の手入れをしていました。私たちは好きでやっていたんだけど、サッカー協会から感謝されて。そういう人のつながり、信頼関係ができました。もう20年以上前のそんなご縁で、震災の時、私はこの人たちに助けてもらいました。この人たちがいなかったら活動再開してないです。

4~6月の3か月間で65,000kmぐらい走ったかな。道路は被災してひどい状態になっていました。自衛隊がガレキをかき分けてくれて車1台通れる状態の時から、私は東京と広野を行ったり来たり。広野の町中を回ったり、とにかく、なんとかしなきゃ!なんとかしなきゃ!って。何年かは振り返るなんてできませんでした。もうやることがいっぱいあって。

国道6号線の
ごみ拾い活動を続ける

── 震災前から取り組んでいた国道6号線のごみ拾い活動「みんなでやっぺ!!きれいな6国(ろっこく)」を2015年に再開し、毎年一回続けてこられました。昨年のコロナ禍でも実施されたのですか。

やりましたよ。子どもたちを巻き添えにはできないので、スタッフだけでやりました。やっぱり、続けることが大事ですから。一人でもやろうと思っていたら、うちのスタッフも賛同してくれました。

── 2015年の再開当時は、「まだ放射線量が高いホットスポットが残っている環境でわざわざ子どもたちにごみ拾いをさせるのは危険だ!」と、週刊誌やネットにネガティブな記事もありましたが、どう受けとめておられましたか。

脅迫めいたメールは千通以上来てました。でも、住んでいる私たちがよその人たちにそんなこと言われたくもない。子どもたちがやりたいと言って、いろいろなことをやろうとしているのに、何も事情をわからないでそういうことを言ってもらっては困る。だから、電話がかかってくると、「あなたね、泊めてあげるから1ヶ月ここに住みなさい。私たちと一緒に行動して、本当にダメだと思うなら、私は真剣に話を聞きます。でも、何も知らないでマスコミの報道だけでそれを言ってるなら、説得力も何もないから」って言い返しました。

脅迫でこの活動をやめようと思ったことはありません。家族も、やめてくれとは言わないです。やってることが正しいと思ってるから。ごみ拾いに来て応援してくれますよ。

人々は戻ってきたのか、
そして生活は

── この10年間で避難した人たちは戻ったのでしょうか。

広野は2011年の9月30日に緊急時避難準備区域が解除になりました。いまでは広野の人たちは9割以上戻ってきています。何がすごいって、2015年にふたば未来学園高ができて、2019年には中学校も開校しました。住所のある人以上の人たちがたくさん、この広野駅で降りていったり、作業員の人たちがいたりするから、人口は増えています。広野は、双葉郡のほかの町から見れば復興が進んでいるのではないかと思います。

── 広野に関しては、この10年でかなり元の生活に戻ったと言ってよいのでしょうか。

ただね、みんな不満はいっぱいあると思います。買い物環境の充実が課題です。それに、子育てするなら、整形外科とか耳鼻科とか、歯医者さんって必須じゃないですか。そういうものも人口の割にはまだなくて。だから、生活水準で言うとまだまだやらなきゃいけないことはたくさんありますね。

本当の復興は決断できる子どもたちを育てること

── 西本さんご自身は、福島をどんなふうに復興していきたいですか?

復興って何だろうと考える時があります。

地震と津波は被災三県に共通ですが、この地域では原発事故の影響が根強い現状があります。これから廃炉にすると決まっていますが、廃炉とどう向き合っていくのか、今の子どもたちが大人になっても考えられるように育てておくということが、本当の復興につながると信じています。決断できないような大人が大勢いたら復興はできないんですよ。

「僕たちはこういう地域にしたいです」「僕たちは高校・大学の時こうやって学んで、自分たちでこう考えてきたから、こうしたいです」「先駆者の大人たちはいろいろやってくれたけど、僕らの時代にはこうしたいです」って自分の意見をしっかり言える。そういう子どもたちを育てていくことが、本当の復興になるんじゃないかと。そこに私は力を注ぎたいと思っています。

── 浜通りの中高生が、2017~2018年に毎年ベラルーシを訪ねて、チェルノブイリ原発事故後の復興の軌跡を辿り、2019年にはイギリスのセラフィールド社を訪ねて現地の廃炉について学ぶという海外研修をハッピーロードネットで実施してこられました。さらに、ベラルーシやイギリスの若者たちを福島に招いて学び合うなど、国際交流活動に発展しています。昨年はコロナ禍の影響がありましたが、どんな活動だったのでしょうか。

昨年はアメリカのハンフォードで学ぶという計画だったんです。1月と3月にスタッフと、ハンフォードやシアトルに視察に行って、現地の人たちとの打ち合わせも全部終えていたのですが、どんどんコロナの影響がひどくなってきたでしょ。海外派遣は無理だねと。でも、せっかく参加を申し込んでくれた子たちのために、国内でできることを考えて、12月に水俣で学ぶ企画に変更したのですが、感染拡大で水俣にも行けなくなって。子どもたちの希望で、水俣の語り部の人たちにオンラインでインタビューしました。

その時にも、やっぱり、原発の話が出たんですよね。原発は必要だという子もいたし、もうこういう思いをしたくないから要らないという子もいた。そういう話し合いがしっかりできる機会を、どんどん作っていきたい。大人が言うことを鵜呑みにするのではなく、自分たちの意思でこの双葉郡を再生していくことが将来の復興につながるのでしょう。

地域づくりに“あきらめ”はない

── これからハッピーロードネットでどんなことをやりたいと考えておられますか。

子どもたちには、「コロナが収束して、アメリカに行けるようになったらまた募集するからね、その時は行きたい子は手を挙げなさい」と言っています。そういうチャンスを絶対あきらめないから、あなたたちもあきらめないでねって。

地域づくりに“あきらめ”はないと思います。常に新しいことを考えていくのが地域づくりだと思っていますから。今年も、コロナでできない、で終わるのではなく、その時にできるものは何か、子どもたちに何をしてあげられるかということを考えて活動します。

震災前は、原発問題とか放射能なんて見向きもしなかったんですよ。でも、いまは「トリチウム水ってどう?処理水ってどう?」って難しいけれど、普通の主婦よりは詳しくなりました。原発事故があって、知識が不足していたことを自分で認めたからです。それは自分の問題ですから。自分で学んで解決していかなきゃいけないということがよくわかりました。だから、子どもたちにも学び続けてほしいのです。

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