原子力産業新聞

風の音を聴く

ジャーナリストとして国際報道の最前線を、時に優しく、時に厳しく、歩み続ける筆者によるコラム。──凛と吹く風のように。

タリバン暫定政権で考える寛容と不寛容

05 Oct 2021

アフガニスタンからの米軍完全撤退に先立つ8月15日、電撃的な速攻で首都カブールを陥落させたイスラム原理主義組織タリバンも、その後は暫定政権の統治が難航している。犯罪者の遺体を見せしめに晒したり、民俗音楽家を殺害したりするなど旧タリバン政権時代(1996年~2001年)の恐怖政治の復活も懸念され、国際社会やメディアの目も厳しさを増している。しかし反対されるのを承知の上で敢えて言えば、国際社会やメディアは発足1カ月余の暫定政権にもう少し寛容でもよいのではないかという気がする。もちろん上記2つのようなケースは論外だ。ただ例えば暫定政権の女性閣僚ゼロに対して、それを以ってタリバンの全てを推し量るような批判は、ちょっと性急で短絡的と感じた。世界に女性閣僚ゼロの国は他にもある。彼の国々はそれで断罪されたり、国連制裁を受けたりしただろうか。アフガニスタンと同じイスラム教、中でも戒律がもっとも厳しいとされるワッハーブ派が支配的なサウジアラビアの場合、女性閣僚云々以前に参政権も車の運転資格さえ女性が得たのは最近のことだ。しかしサウジは中東の大国として主導的地位を占めて来た。不寛容が過ぎると自らの価値観や主義を絶対視し、他者を排除する。結果的にタリバンにも通じる原理主義に陥りかねない。米国はアフガンを民主化すべく、20年の歳月と巨費を投じたが奏功しなかった。民主主義や人権などの価値観がアフガンの伝統や宗教、土壌と溶け合うには至らず、一方通行だった点は否めない。もちろん女性閣僚はいた方が良いとは思う。しかし伝えられるアフガンの状況はあらゆる面で危機を孕んでいる。暫定政権が今、最優先すべきは治安の回復、国家財政の立て直し、国民の困窮生活の打開などだろう。国際通貨基金(IMF)はじめ欧米・国際機関からの支援は停止され、このままでは早晩行き詰まる。経済や治安はさらに悪化するかもしれない。また世界食糧計画(WFP)によれば国民の3人に1人、約1,400万が飢餓の瀬戸際にあるという。さらには人道・難民危機の再燃や、危機に乗じた反タリバン、とくにイスラム原理主義過激派ISの分派によるテロ活動の活発化も現実味を帯びて来るかもしれない。もう少しの寛容さをと言うのは、国際社会が「タリバンはアフガンの現実」であるとして、彼らと向き合い妥協点を見つけて行くことと言い換えても良いだろう。残念ながら現在、アフガンに相手となる政治勢力は事実上、彼らしかいない。そしてこの20年を生きのびた彼らは、仮に外部勢力により再び崩壊しても、また復活する公算が高い。多数派パシュトゥーン人を主体とするタリバンは、外国軍部隊と異なりアフガン以外に帰る国がない。米国が植え付けたいと考えた民主主義が見た目は綺麗でも根のない切り花だったとすれば、タリバンは地を這い広がる根っこなのかもしれない。暫定政権の閣僚には二代目が目立つ。タリバン創設者オマルの息子は国防相、米国が指定するテロ組織「ハッカーニ・ネットワーク」の創設者シラジュディンの息子は内相の要職にある。反タリバン勢力も同じで、アルカーイダに暗殺されたマスード司令官の北部同盟は、現在は息子が率いて暫定政権に対峙する。どの派も父から子へと代を継いでいくのである。暫定政権は極端なイスラム教の解釈に走った旧政権と共通項は少なくないものの、国際社会の動向を旧政権より意識している兆候はある。国連総会の演説を申請したのもその1つで、裏返せば暫定政権は国際社会のお墨付き、承認が欲しいのだ。結果は国外逃亡したガニ政権ともども演説は認められなかったが、暫定政権は恐らくこれからもこのように国際社会へのアプローチは続けるだろう。単なるポーズかもしれない。それでも国際社会はポーズを最大限利用し、4,000万近いアフガン国民のためにも、交渉を続ける他ないように思う。現在の混迷や混乱は暫定政権が内部対立し一枚岩ではないからとの指摘もある。国際的に孤立したままでは旧政権の二の舞になるとの認識を、時間はかかっても育てていく。国際社会にも試練と忍耐の季節である。

大熊町再訪 帰還を切望するSさんの今

12 Jun 2019

東日本大震災被災者たちの前向きな姿勢に触発され、前を見るばかりで回顧が不十分だったという、振り返る大切さについての医師、越智小枝さんのコラム「9年目の福島 振り返る大切さ」に共感した。前を見ることと振り返ることの大切さに軽重はなく、正解は両方大切だとは言っても、現実が常に正解通りとは限らないから難しい。新聞記者として半世紀近く報道に携わりながらジレンマであり続けたのも、報道者はどう頑張っても当事者にはなれない、そのもどかしさの中で報道の役割をどう果たして行くかということだった。私が辿りついた一つの答えも振り返る、つまり「忘れない」ことである。90年代の冷戦終結後に世界で頻発した内戦や民族紛争などを取材して、一層そのことを痛感した。政治レベルで妥結や合意が図られても、それは内戦や紛争の終わりを意味しない。復興や人々の帰還がより重要な問題として存在する。ところが大半の人々はその段階で関心が薄れ、やがて「忘れる」。しかし当事者とくに巻き込まれた難民や被災者たちは、しばしば「忘れられる」ことこそもっとも辛いことだと語る。困難な道のりに伴走者のいない孤独。目の前の苦難は何とか乗り越えることが出来ても、忘れられることの精神的苦痛は耐えがたいのが人間というものだろう。つい前置きが長くなった。桜がまさに満開を迎えた4月半ば、大熊町を再訪した。帰還を切望する当時92歳のSさんに会って以来だから2年ぶりのことだ(当欄2017年3月14日付「ルポ・大熊町を訪ねて」参照)。折しも同町の一部は東京電力福島第一原発立地町として初めて避難指示が解除され、役場の新庁舎が大川原地区に完成し、開庁を待つばかりとなっていた。新たに盛り土をした高台に建つモダンなデザインの新庁舎から町を眺め渡すと、役場のホームページの復興通信にある「小さなまち」作りの第一歩が始まったことがしみじみ実感された。ただそこにSさんがいないことが残念だった。2年前は自ら先頭に立って町を案内してくれたが、体調を少し崩したと知人から聞いていた。もっともいわき市の新しい復興住宅で会ったSさんは思いのほか元気な様子で、「参考になるかどうか分からないけれど」と言いつつ、町や福島の復興状況を伝える地元紙の束を下さったのには、ちょっと胸が熱くなった。Sさんに初めて会ったのは2011年10月、会津若松市の仮設住宅時代のことだ。大熊町は町民が離散しないよう町ごと会津若松に避難していた。インタビューを固辞する人が多い中で、「お役に立つなら」と快く応じてくれたSさんは言わば取材の恩人だった。大熊町に生まれ育ち、農業の傍ら福島第一原発の建設作業に関わり、人生の大半を原発とともに生きた。「原発がこんなに危ないものだったとはなあ」と深いため息をつきながらも、「原発のお陰で良い暮らしが出来たのも確か。今更手のひら返しでは罰が当たる」と事故にも事後対応にも非難や怒り、グチめいた言葉はほとんど聞かれなかった。そして一貫して将来に前向きなことに、むしろ私の方が勇気づけられたような気がした。その後いわき市の仮設住宅、災害復興住宅と転居を余儀なくされたSさんを支えたのは、故郷に帰還する信念であり夢だったに違いない。だから自宅の除染される日を心待ちし、除染について語る時の口調は一段と軽快だった。だがこの2年間、Sさんに除染の朗報は届かなかった。除染には当然とは言え、優先順位がある。また復興全体に言えることだが、人手不足もネックだ。加えて復興五輪を謳う東京五輪も近づく。聖火リレーは2020年3月26日、サッカー施設Jヴィレッジ(福島県楢葉町、広野町)からスタートする。復興に取り組む福島を世界に知らせるまたとないチャンス。そのことに異存はない。しかし被災者の暮らしにしわ寄せが行くのは極力避けなければならない。復興には除染が不可欠だ。そこから生活も始まる。今回は訪れることが出来なかった、イノシシに踏み荒らされたSさんの自宅の玄関には今も「必づ帰る」の張り紙が掛かっているだろうか。人生100年時代。幸いSさんは病身の奥さんに代わって食事の支度もするなど元気だ。来年はまたSさんと一緒に大熊町を訪れようと密かに誓った。

cooperation