原子力産業新聞

風の音を聴く

ジャーナリストとして国際報道の最前線を、時に優しく、時に厳しく、歩み続ける筆者によるコラム。──凛と吹く風のように。

新型コロナに見る「不思議のASEAN」

13 Jul 2020

新型コロナウイルスが猛威を振るう中、欧州や南北米など世界のどの地域よりも感染が軽微なのがASEAN(東南アジア諸国連合)の国々だ。世界の累計感染者は既に1,000万人を突破、死者も50万人を超えたが、7月9日現在、人口約9,500万のベトナムの感染者は僅か369人、死者は0。人口5,000万強のミャンマーも感染者318人、死者6人、タイの感染者3,202人も人口7,000万の国としては軽微だし、死者は7人と少ない(本文中の東南アジア各国の数字は共同通信系のNNAニュースに基づく)。2億6,000万と世界4位の人口大国インドネシアはさすがに感染者68,079人、死者3,359人と桁が違うが、同6位のブラジル((編集部注:ブラジルは7/13時点で感染者186万人、死者72,100人))とは雲泥の差だし、人口1億のフィリピンの感染者50,359人と死者1,314人も、人口8,000万台のトルコの感染者は20万超だからやはり格段に少ない。カンボジアは統計の信頼度に難があるものの感染者141人と死者0人だし、ラオス、ブルネイは今や感染者を発表していない。感染爆発は起きていないということだろう。地理的にも経済的にも中国と関係密なASEAN10カ国は、本来なら感染爆発してもおかしくない。ベトナム、ラオス、ミャンマーは国境を接し、タイ、マレーシアなど大半の国が経済を中心に中国との往来が盛んだし、華人が多数暮らす国も少なくない。つまり感染爆発を招く要因は沢山ありながら、不思議にもASEANは感染爆発せず、感染爆発したのは中国から遠く離れた欧州諸国だった。一体なぜか。ここからは独断になるのだが、ASEAN諸国は中国と関係が近いからこそ感染爆発や医療崩壊を免れたのではないかと思う。一番の好例がベトナムだ。国境を接し、カンボジア問題を巡って戦火を交えた仇敵同士。南沙諸島の領有権問題でも、対中姿勢はASEANでもっとも厳しい。一方で同じ一党独裁国家として党同士は友党関係が長い。国境を素早く閉鎖し、中国人の流入をブロック、感染拡大を抑え込めたのも、このように中国の本質と手の内を知っていればこそだった。このことは中国と関係がより深い台湾をみれば、一層明らかだ。台湾は中国が武漢市の異変を公表した昨年大晦日、即注意喚起を発表、1月2日には検疫体制を強化するなど迅速な初動対策でコロナ封じ込めに奏功した。中台確執の歴史を通して、台湾は中国の隠蔽・欺瞞体質を熟知する。世界保健機関(WHO)のテドロス事務局長が習近平国家主席の言い分を疑わず、言われるままに中国との往来をすぐには禁止せず、パンデミックを招いてしまったのとは大違いだ。もちろんASEANで感染が軽微な理由はこれだけではない。SARS(重症急性呼吸症候群)やMERS(中東呼吸器症候群)など過去の感染症の経験と教訓、さらにはアジア通貨危機やリーマンショックなど国家的危機の経験もASEANの体質を強化し、域内連携や協力の重要性を育んだ。また欧州のような高齢社会でないことも有利に働いただろうし、保健衛生も南アジアやアフリカなどとはレベルが違う。水資源に恵まれ、手洗いや水浴の慣行などもコロナ対策に寄与したはずだ。しかし私には対中経験の言わば試練の差が、東南アジアと欧州や他の地域の明暗を分けた大きな要因のように思える。隣人・中国の巨大な風圧をまともに受けながらASEANは半世紀近くをサバイバルして来たのだ。「不思議の」という形容詞がASEANには似合う。個々の国々は小さくても10カ国まとまると数字以上の存在感を発揮するし、ベトナムとカンボジア、マレーシアとシンガポールのように犬猿関係にありながら最後通牒までは行かないなど、不思議だがナットクさせられる。近年のASEANは、中国の強大化、カンボジア、ラオスなど後発途上国の囲い込み、巧妙な分断外交などの結果、「もはや中華圏」の声も聞かれた。しかし今回のパンデミックでは、発生元・中国と上手く一線を画し、感染爆発も医療崩壊も回避する不思議ぶりを示したと言える。6月末のテレビによるASEAN首脳会議で、久々に南沙諸島問題で中国に物申すことが出来たのも、議長国がベトナムの理由が大きいとは言え、もしコロナ対策に失敗していたら、南沙どころではなかっただろう。中国からの巨額援助に一時、領有権問題を棚上げしたフィリピンのドゥテルテ政権も、援助が額面通りではないと分かるや、対中・対米外交の仕切り直しに入った。インドネシアも中国独自の九段線に基づく領海の主張を認めない書簡を国連に送ったばかりだ。新型コロナウイルスは国の形、地域の有り様を赤裸々に映し出している。中国と不思議のASEANの紆余曲折はまだまだ続くだろう。

海岸浸食進む、マレーシア東海岸コタバルの今

01 Feb 2018

昨年11月にマレーシアを訪れた折り、マレー半島北端の東海岸へ思い切って足を伸ばした。かねがね南シナ海を臨むクランタン州の州都コタバルを見てみたいと思っていたからである。マレー語でコタは町、バルは新しい。もっともある年代以上の日本人には、「新しい町」より「懐かしい町」かもしれない。太平洋戦争は1941年12月8日、日本軍のハワイ真珠湾攻撃で始まったが、実際にはそれより1時間半ほど早く、ここコタバルへの日本軍上陸から火ぶたを切ったのだった。それから75年余り。上陸地点はすぐ分かるだろうかとの私の不安を察知するように、ホテルで頼んだタクシー運転手は「大丈夫。何度も行っている」とニコニコしながらハンドルを握り、途中、「モスクはどう?」とか「ちょっと失礼」とイスラムのお祈りに消えるなど実に気さくで人懐こかった。しかし走ること数十分、車を停め「ハイ、ここ」と言われた時は我が目を疑った。確かに目の前は南シナ海だけれど、コタバル市内の戦争博物館の展示写真にあった椰子の浜辺も、上陸の記念碑もない。寄せては返す荒波に立ち向かうように積まれた瓦礫が見渡す限り続いていた。今は波に洗われる日本軍の上陸地点「本当にここ?」と訝る私に、運転手は「その通り」と頷いた。聞けば雨季の海岸侵食で砂浜は水没、記念碑も流されてしまったのだという。もっとも私は事前に記念碑の存在を確かめておいたので、このまま町へ引き返すわけにはいかない。碑のある地名を再確認し、何人もの地元の方に尋ねて探すこと数十分、侵食もここまではと思えるようなカンポン(村)の林を縫って入った奥地に、茶色の碑がひっそりと立っていた。水没したものに替えて新たに建てられたのである。。まだ真新しい上陸記念碑「ここは初めて。見つかって良かった」と運転手は心底ホッとした様子で、私も「次からは難なく案内出来るわね」と相槌を打った。南シナ海の打ち寄せる大きな波音を聞き、訪れる人も稀に違いない真新しい碑を眺めていたら、不意に「夏草や兵どもの夢の跡」と場違いな句が浮かんだ。『戦史叢書 マレー進攻作戦』(防衛庁防衛研修所戦史室 1961年)によれば、コタバル上陸作戦は「決死の覚悟」だった。当時英領マレーのコタバルには重要航空基地があり、上陸の奇襲作戦が成功しても英軍の強力な反撃が予想された。しかしコタバルを占領しなければその後の戦いは出来ないと、陸軍は海軍の強い反対を押し切って作戦を敢行、成功させたのだった。東海岸は断崖が多く上陸可能な海岸は限られてもいたようだ。ともあれ日本軍はタイ国境と英領コタバルからマレー半島を一路南下、翌年2月15日には最速でシンガポール陥落となったのである。今は海と化した上陸地点はクアラ・パク・アマン・ビーチと言う。英軍は防御陣地をコタバル海岸のタイ側からバンダン、クアラ・パク・アマン、サバクに配備し、当時の作戦計画では飛行場にもっとも近いサバク付近を予定。先の叢書に掲載の地図もサバクの地名しか見当たらない。ところが潮流・風速が予想を超え、しかも夜陰で視認出来ずに船は西方に流され、上陸したらサバクではなくクアラ・パク・アマン・ビーチだったということのようだ。このことは現場に立って一段とよく分かったことだった。とにかく風が強い。波も荒い。おまけに夜中の作戦時は激しいスコールだったというから、部隊は上も下もまさに「決死の覚悟」だっただろう。しかしそれ以上に現場で実感したのは歳月と気象相俟っての侵食の凄まじさだ。あらためて調べると、歴史を跡形もなくさせたマレーシア東海岸の海岸浸食は積年の問題でもあるようだ。2014年当時の現地紙によれば、過去10年間にクランタン州では雨季に海岸53キロが侵食され、毎年約5メートルの海岸が水没、そのため24の漁村が消滅したと言う。ネット検索すると浜辺も真っ白い石碑も2006年時点では存在しているので、水没はそれ以降だろう。この10年で海岸浸食は一段と加速したのだと思われる。今、地球温暖化で氷河が大変なスピードで崩落していく問題がしばしば取り上げられる。しかし海岸線の消失は人々の暮らしにさらに重大な影響を及ぼす。ここでまたもや唐突ながら、私は米国の「パリ協定」離脱は決して軽視してはならない問題だと今さらのように思った。海岸浸食も地球温暖化と決して無関係ではあるまい。歴史を訪ねるコタバルの旅は未来を問う旅ともなったのだった。

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