ジャーナリストとして国際報道の最前線を、時に優しく、時に厳しく、歩み続ける筆者によるコラム。──凛と吹く風のように。
14 Apr 2020
世界は新型コロナウイルス感染症(COVID-19)で景色が一変してしまった。昨年末、中国武漢市で発生し、感染が東アジアや欧米へと広がって行った時、私は、これは新しい戦争パートIIの始まりだと思った。2001年9月11日、ニューヨークの世界貿易センターが、イスラム原理主義過激派アルカーイダのテロ攻撃により猛火に包まれ、轟音とともに崩れ落ちた時、「世界は新しい戦争の時代に入った」と言われた。従来型の国対国でなく、国対テロリストという非対称戦争だったからだ。今度も同じ非対称だが、敵は9.11よりずっと手強く思える。姿は見えないし、テロリストのように犯行声明も出さず、ヒトではない「生物と無生物の間を漂う」(生物学者 福岡伸一氏)ウイルスなのである。アニメや映画の世界ならともかく、ウイルスが勝者になることはあり得ないし、あってはならない。しかし終わりは未だ見えず、今や誰もがこの戦いは長期戦になると考え始めている。ただし見えない敵にも、既に見えている事実は少なくない。医学的分野は専門家の知見に譲るとして、これらを今後の長い戦いのために、「見える化」しておくのも無駄ではないだろう。第1に感染の隠蔽は絶対にご法度ということだ。今回のパンデミック(世界的流行)危機は、習近平中国国家主席の初動の失敗が大きい。武漢封鎖で感染拡大を制圧したとして、今はその成功物語の宣伝や感染国支援に余念ないが、失敗はそんなことでは相殺出来ないほど致命的である事実に、習近平氏は頬かむりしている。第2は世界保健機関(WHO)の機能不全の顕在化だ。テドロス事務局長は訪中しながら現地を視察せず、「中国は例を見ないほどよくやっている」と称賛し、緊急事態宣言もなかなか出さなかった。かつて2003年の重症急性呼吸器症候群(SARS)の際、北京入りしたWHOチームは、中国当局の感染者の過少報告を賢明にも糺した。当時の胡錦濤国家主席が「感染症を制御できず、ましてや国際社会に拡散させることになれば、われわれは中国の国家指導者として13億人の中国人民と各国人民に申し訳が立たない」と記者会見で述べたのも、習近平氏とは大違いだ。WHOと中国指導部は今回、二人三脚でウイルスを増殖させたと言える。第3は欧米の油断である。発生源に近い台湾や韓国ではなく、なぜ遠い欧米で驚くべき感染爆発が起きたのか。東アジアの状況を対岸の火事と見て、手をこまぬいた慢心や危機意識の薄さは拭いようがない。第4に「失敗は成功の元」が証明された。台湾は院内感染などから多数の死者を出したSARSの、韓国も2015年の中東呼吸器症候群(MERS)の手痛い経験を生かし、現在までのところ感染拡大を制御し、医療崩壊を食い止めている。これも欧州と東アジアの明暗を分けた。日本はSARS、MERS、さらに09年の新型インフルエンザも死者が世界最低とも言える成功体験を持つ。逆に言えば失敗のないのが怖い。いきなり大失敗とならない保証はない。緩い緊急事態宣言で爆発を本当に抑え込めるのか、今、日本と日本人の底力が問われている。第5は社会インフラとくに医療、福祉の安易な削減は禁物だ。イタリアの医療従事者たちの惨状は財政危機による医療体制の劣化と、アメリカの黒人やヒスパニックなどマイノリティの感染率の高さは国民皆保険制度の欠如と深くリンクしている。以上5点を見えてきたことだとすれば、以下にCOVID-19との付き合い方3点を記して、私の中間総括としたい。第1にグローバリゼーションの再考である。20世紀初頭のスペイン風邪を持ち出すまでもなく、SARSやMERSと比較にならない感染スピード。グローバル化はコロナの大好物なのだ。何が不要不急か、検討すべきは外出だけでない。私たちの生き方そのものではないか。第2に多国間協力と国際機関はやっぱり不可欠だ。いくらWHOが問題児でも、トランプ米大統領のように分担金削減や、まして脱退(ブラフだと思うが)は解決策ではない。中国の国際機関への覇権を増大させるだけである。第3に環境保護がますます重要だ。SARSも新型コロナウイルスもこうもりが媒介役と言われている。今、ヒトとの境界線を越えて餌を求める動物たちが増えている。動物たちとの「新しい戦争・III」が始まったら大変だ。こうもりを森の奥深くへ帰してやろう。結局のところ、新型ウイルスは現代文明にどっぷりつかった私たちの生活に再考を促す警報かもしれない。
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1949年にノーベル物理学賞を受賞し、敗戦後の日本に勇気や希望を与えてくれた理論物理学者、湯川秀樹(1907~1981)は知っていても、ほぼ同時代を生きた女性物理学者の草分け、湯浅年子(1909~1980)を知る日本人は恐らく少ないだろう。研究人生の大半をフランスで送ったせいもあるが、嬉しいことに世界は彼女を忘れていなかった。このほどパリ郊外にあるOECD(経済協力開発機構)/NEA(原子力機関)の新装なったオフィスに彼女を記念する会議室が誕生した。その名もToshiko Yuasaの部屋。規模は15平方メートルほどと決して広くはないが、6人用のテーブルとイス、TV会議用のモニターにPCも備えられ、壁には研究機器の傍らに立つ白衣姿のポーズ写真と略歴・業績入りのパネルが掛かる。まるで今も議論や研究を見守っているかのようだ。OECD/NEA(原子力機関)OECD/NEAの機関紙であるNEA Newsによると、新しい7部屋の会議室に原子力の分野で卓越する女性科学者の名前を冠することとなり、その一人に選ばれたのが湯浅年子だった。残る6部屋6人については後述するとして、まだ少数派の女性科学者やその卵たちへの励まし、そして男性研究者に負けない業績を上げながら日陰に置かれてきた女性研究者たちへの賞賛ともなる素晴らしい趣向だ。湯浅年子は東京の生まれ。エンジニアだった父の影響で早くから理系に関心を持ち、東京女子高等師範学校(現お茶の水女子大)を出ると東京文理大物理学科に最初の女子学生として入学。卒業後も母校で教鞭を取る傍ら研究を続けていたが、才能が大きく開花したのは仏政府留学生試験に合格し1940年に渡仏したことだった。マリー・キュリー夫人の娘夫婦であるジョリオ・キュリー夫妻との出会い、コレージュ・ド・フランス原子核化学研究所でジョリオ教授に師事しての研究が人生を決定づける。「魂の自由を得た」と研究の喜びを記す言葉は感動的だ。《朝から晩まで、ときには夜を徹して研究と真向かった生活。これこそわたしが望んだものだった。…中略。女性であることも、異国人であることも捨象されて、ここでは研究だけが生き物のように成長していく》《パリに来て、日本にいた頃よりも物質生活の無意義さ、価値なきことを悟った。研究するものは王者に等しい。ここではどんなに偉大な科学者も、貴重な文献も、道を知ろうとして来る人のためにはつねに開放されていた》(いずれも山崎美和恵著『パリに生きた科学者 湯浅年子』から引用)こうして第二次世界大戦下も帰国せず研究を続けた年子は43年、晴れて仏国家理学博士となった。論文の題目は「人工放射性元素から放出されたベータ線連続スペクトルの研究」という。パリ解放、ナチス・ドイツ崩壊など欧州の激動を生きた年子が敗色濃い日本に帰国したのは45年6月。父はすでに亡く、母も7月に死去し終戦を迎えた。重なる悲運にも、母校・東京女高師で教える傍ら研究再開に意欲を燃やしていた年子を、さらに不運が見舞う。占領下、原子力研究は禁止され、年子は基礎研究だったにも拘わらず苦心して揃えた研究機器を廃棄され、実験の道を絶たれてしまったのだ。ジョリオ教授からの「再び研究を始めましょう」との電報に49年22月、年子は休職して再渡仏したが、55年にはお茶の水女子大と名を変えた母校を正式に退職、仏国立中央科学研究所(CNRS)の研究員となった。科学だけでなく文学や芸術も愛し、多くのエッセイや短歌を残した年子は、母校の休職期間が切れて帰国か否かに揺れる当時の気持ちをこう詠っている。「藁ぶきの大き古家のゆらぐ夢師の君の夢教へ子の夢」しかしパリを終の棲家と決めた年子の研究はさらに熱が入る。59年からはオルセー原子核研究所に移り、国際会議にも活躍、東京での原子核国際会議に招かれたのは67年、18年ぶりの帰国だった。その後の年子である。自らの研究だけでなく、日仏共同研究に道筋をつけるのにも尽力し、『パリ随想』など好きな文筆にも力を入れた。74年にCNRSを65歳で定年退職後は名誉研究員として活躍し、77年の原子核構造国際会議出席が最後の祖国訪問となった。1980年2月1日死去。享年70歳だった。祖国で最期を迎えたい気持ちもあったに違いないが、帰国は研究の断念につながると恐れたのだろう。それほど一途に研究に打ち込んだ精神の気負いに崇高さと同時に当時の日本における女性科学者の孤独も感じずにはいられない。東京・西巣鴨の善養寺の年子も眠る湯浅家の墓地には碑が建てられ、2002年には母校お茶の水女子大理学部が主宰して「湯浅年子記念特別研究員奨学基金」が制定された。毎年、自然科学の分野で女性研究者1名がフランスへ派遣される。また同大ジェンダー研究センターには膨大な遺品が寄贈され、湯浅年子資料目録も作られた。理系女子の時代、年子はもっと知られてほしいものである。最後に、残る6室6人は、カナダ初の女性核物理学者ハリエット・ブルックス(1876~1933)、ノルウェーの放射化学研究のパイオニア、エレン・グレディシュ(1879~1968)、核分裂を発見したオーストリアの物理学者リーゼ・マイトナー(1878~1968)、アメリカの物理学者で核医学創始者の一人、エディス・キムビー(1891~1982)、アメリカで成果を挙げた中国出身の物理学者ウー・チェン・シュン(呉健雄、1912~1997)とマンハッタン計画に参加したが戦後に核爆弾に異を唱えたキャサリン・ウェイ(1902~1995)である。彼女たちにも年子のように、道なき道を切り開いた輝かしい研究人生があることだろう。
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