ジャーナリストとして国際報道の最前線を、時に優しく、時に厳しく、歩み続ける筆者によるコラム。──凛と吹く風のように。
12 Feb 2019
2回目の一般教書演説は妙に融和的で〝らしくない〟トランプ米大統領だったが、国際秩序に対する破壊力は一向に衰えない。2月1日にはロシアとの間で30年以上も続いて来た中距離核戦力(INF)全廃条約をあっさりと破棄(2日付)してしまった。「ロシアの条約違反」というのが理由だが、プーチン大統領も間髪を置かずに2日、履行停止を発表した。目には目を。条約は通告から6カ月後の8月には失効する。おかげで新聞やテレビのニュースに懐かしい顔が流れた。1987年12月8日、ワシントンで同条約に調印したレーガン米大統領とゴルバチョフ・ソ連共産党書記長である。6年ものマラソン交渉の末に結ばれ、冷戦終結への道筋をつけた条約の運命を知ったら、2人は何と言うだろう。レーガン氏は既に亡く、健在のゴルバチョフ氏の動静も最近はほとんど聞かれない。一党独裁放棄と冷戦終結の功績だけでも世界史に名を残す指導者だと思うのだが、母国ではソ連邦解体の張本人として人気がないし、評価も不当なほど低い。もっともINF条約自体は歴史的使命を終えていたのだと思う。条約に縛られない中国は中・短距離弾道ミサイルを無制限に開発し、日米はじめ周辺国の脅威となっているし、インドやパキスタンのミサイルも当時は考えられなかった。これらの国々の開発製造にも待ったをかけなければ実効がない。その意味ではINF条約に代わる新たな条約作りこそ急務であり、大統領の仕事も本当はそちらにあるはずなのに、トランプ大統領はぶち壊すことに意欲満々で、後は我関せず、実に素っ気ないのである。そもそもトランプ大統領の大統領としての事実上の初仕事は就任から3日目の2017年1月23日、環太平洋パートナーシップ(TPP)協定から離脱する大統領令への署名だった。その後も2017年6月1日には地球温暖化パリ協定から、同10月12日には国連教育科学文化機関(ユネスコ)から、2018年5月8日には米欧など6カ国とイランが結んだ核合意から、立て続けに脱退を表明した。当初、私はこうした離脱や破棄はトランプ大統領のオバマ嫌いのせい、つまりオバマ前大統領の業績潰しではないかと思ったのだが、どうやらそれは一部に過ぎない。むしろトランプ大統領は戦後70年以上にわたり世界を形作って来た自由貿易体制や多国間協調が気に入らず、アメリカは損をしていると信じている。それらはアメリカ自身が主導して作り上げてきたものでもあるのだが、そんな過去や行きがかりは自分に関係ない、だから本気になってぶち壊しにかかっているのではないだろうか。アメリカがここまで「ミー・ファースト」の国だったことはかつてなく、ある意味でアメリカも普通の国になったのだと思う。もちろんアメリカも国際社会もトランプ大統領の〝暴走″を傍観しているわけではない。TPPはアメリカ抜きで日本はじめ11カ国の協調と結束により2018年12月30日には発効したし、パリ協定もカリフォルニア州など15州とプエルトリコ(自治領)が US Climate Allianceを結成、「温暖化は嘘だ」と言うトランプ大統領とは一線を画している。州は今や連邦とは別の道を歩き始めているのだ。政権内にもブレーキ装置は皆無ではない。パリ協定もイラン核合意もアメリカは離脱したのであって破棄したわけではない。合意自体は存続している。ティラーソン国務長官やマティス国防長官などのブレーキ役はホワイトハウスを去り、共和党も昨年の中間選挙の結果トランプ党になってしまったが、対抗する民主党が下院で多数派となるねじれ議会が出現したため、トランプ大統領の手足は自由にならない局面も増えている。大詰めを迎えているモラー特別検察官によるロシア疑惑追及の結果も気がかりに違いない。アメリカ大統領の権限は確かに強大だが、アメリカの民主主義はやはりなかなか重層的で奥が深いと、3年目に入ったトランプ政権を見ていて感じることである。しかしそれでもトランプ大統領の破壊願望はなくならないし、その結果として戦後国際秩序の終わりも避けられないのではないかとの予感も私は抱く。INF条約が端的に物語るように、時代は新しい皮袋を必要としているからだ。今はトランプ大統領という「壊し屋の時代」なのかもしれない。先のINF条約交渉の舞台となり、国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)、世界保健機関(WHO)、国際労働機関(ILO)、世界貿易機関(WTO)など数多くの国際機関の本部が置かれ、各国外交官が集まるジュネーブの外交筋によれば、アメリカの外交当局者は「私たちは過去の合意に一切捉われない。先例はないと思って欲しい」と言っているそうである。額面通りだとすればINF条約の破棄で事は終わらない。現状維持には愛着も未練もなさそうなトランプ大統領の下、この先何が起きてもうろたえないよう日本も覚悟し備えをしたいものだ。
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02 Aug 2016
広島(6日)、長崎(9日)への原爆投下、そして終戦(15日)と続く8月が来るたびに思うのは、日本人にとって8月とは「慰霊の月」なのだということである。今年はとくにオバマ大統領が米大統領として初めて広島を訪れ、平和記念公園でスピーチを行った後だけに、なおさらそう感じる。核兵器廃絶という目標は未だ道筋も定かでないけれど、唯一・最後の被爆国となるべき日本は、仇敵同士であった日米の指導者が原爆ドームを前に握手を交わした、あの5月27日の感動や決意を一過性の出来事にしてはならないとあらためて思う。広島演説はオバマ氏が大統領就任間もない2009年4月5日に、チェコの首都プラハで行った「核兵器なき平和で安全な世界を目指す」プラハ演説と対をなすものである。ノーベル平和賞を受賞したプラハ演説は、ある意味で広島演説以上の感銘を世界に与えたのだった。ところがそれからの7年間、世界はプラハ演説とはむしろ逆を歩んだ。米露軍縮交渉は停滞し、プーチン露大統領はウクライナ危機で核の使用さえためらわないことをほのめかした。また北朝鮮の核の脅威は半ば常態化し、日本は安全保障をアメリカの核の抑止力に委ねざるをえない。2015年現在、世界にはアメリカ7,260、ロシア7,500を双璧に依然として約1万5,850もの核弾頭が残っている(ストックホルム国際平和研究所)。そして何より当のオバマ氏が就任当初の輝きを失って行った。アメリカは実利と現実主義の国でありながら同時に欧州や日本と比べて遥かに理想主義の国で、近年の大統領でそれをもっとも体現していたのはオバマ氏だったが、アメリカも世界も理想主義がスンナリ通るには今やあまりにも複雑で、シリアやイラク、銃規制や貧富格差など、オバマ氏が外交内政で直面した現実がまさにそれだった。広島演説が同じようなプロセスを辿らないという保証はない。残念ながら核兵器をめぐる閉塞状況を打破する即効薬はない。オバマ氏も演説で語っているように日々の粘り強い取り組みしかない。おそらく不断の努力を諦めた時、それこそ万事休すなのだろう。《いつか証言する被爆者たちの声は私たちのもとに届かなくなる。しかし1945年8月6日の朝の記憶を風化させてはならない。その記憶は私たちを自己満足に浸らせることを許さない。それは私たちの道徳的な想像力を掻き立てる。それはまた私たちに変化をもたらしてくれる》広島演説の中でもとりわけこの文言を、日本人は直接の被爆経験の有無に関係なく、重く受け止め受け継いでいかなければならないと思う。日本にはこれからも果たすべき役割がいろいろあるはずだ。例えば岸田外相は「核保有国と非核保有国の対立の橋渡し」が日本の役割であると述べている。この言葉を聞いて私が思い出したのは、1956年12月に日本が国連に加盟した際の「日本は東西の懸け橋になる」と述べた重光外相の加盟演説だった。しかし懸け橋を目指す日本の悲願は、米ソ冷戦による厳しい東西対立の現実の前に、しばしば実現不可能な理想になってしまったのだった。半世紀を経た今、同じ轍を踏まない覚悟と理想論で終わってしまわないような、現実を見据え考え抜かれた外交を日本は用意出来ているだろうか。もちろん核兵器廃絶の責任は一義的には核保有国が負うものだ。オバマ氏は広島演説でこう言っている。《私の国のように核を保有している国々は、恐怖の論理から逃れ、核兵器なき世界を追求する勇気を持たなければならない。私が生きているうちにこの目標は達成出来ないかもしれない。しかしたゆまぬ努力が破局の可能性を押し戻すことが出来るのだ》米紙ロサンゼルスタイムスのコラムニストがオバマ氏のことを「未完の大統領」と呼び、オバマ政権の歴史を「満たされざる野心の物語」と書いていた(『外交』2016年5月)。まったくその通りで、満たされざる野心とは言い換えれば満たされざる理想であり、最大の未完は核兵器の廃絶である。大統領職を去った後も、オバマ氏がこの未完のテーマの先頭に立って取り組み続ける時、初めて広島演説の歴史的評価も定まるのだと思う。