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SNS時代にふさわしいメディアチェックとは ― おかしな記事を評価して、世間に知らせる活動をもっとやろう
おかしな新聞記事やテレビニュースを見つけたときに、まずだれもが思いつくのが「訂正の要求」か「抗議文の送付」だろう。しかし、相手が完全に無視したら、どうすればよいのか。そのひとつが相手の評判を落とすアクションだ。どのメディアも世間の評判には弱い。そのやり方を私なりに考えてみる。私が共同代表を務めるメディアチェック団体「食品安全情報ネットワーク」(もう一人の代表は唐木英明・東大名誉教授)は、科学的な根拠がないか、あるいは乏しい記事を見つけたら、その媒体に訂正を求めたり、意見書を出したりする活動を続けている。学者や記者、企業の品質保証担当者、公的機関の研究者など約50人が集まったボランティア団体である。会費もなく、おかしな記事を見つけたら、みなで手分けして検証して、訂正の内容をメディアに送るという純粋な検証団体である。ボランティアだから、自由にモノが言えるし、どの媒体に対しても等距離に身を置ける利点がある。2008年から活動を続けてきたが、一番の悩みは相手から無視されたときだ。幾度質問を繰り返しても、相手から全く音沙汰なしだとあきらめるしかなかった。そのときの気持ちは、一言で言えば「悔しい」だった。新聞系雑誌は「無視」知名度のない弱小ボランティア団体ゆえに無視されたのだろうと思うと本当に歯がゆい思いを何度も味わった。たとえば、2018年2月、週刊朝日が「健康寿命を延ばす食品選び」というタイトルで、どうみても非科学的な記事を載せた。添加物を避ければ、健康寿命が延びるかのような非科学的な言論を吐く評論家や市民団体は昔からあったが、それが堂々と新聞系の雑誌に載ったとあっては、黙って見過ごすわけにはいかない。さっそく質問状とその理由を書いて編集部に送ったが、全く返事は来なかった。しびれを切らして私たちの担当者が電話したところ、相手からは「特定の相手にだけ時間を割くことはできない・・」などといった冷淡な言葉だった。その後も、別の複数の週刊誌の記事に対して、何度か訂正を求めたが、ここ1、2年は「回答なし」が目立つようになってきた。ニュースの真偽を検証するこのまま敗北するわけにもいかない。どうすればよいかを思案していたときにヒントになったのが、最近、世界で大流行している「ファクトチェック活動」だ。ファクトチェックとは、簡単に言うと記事やニュースの真偽を検証することだ。たとえば、米国のトランプ大統領の発言とそれが掲載された記事がどこまで真実かを検証して、「大統領の発言はフェイクです」などとSNSなどを通じて、みなに知らせる活動である。欧米を中心に100を超えるチェック団体がすでに存在している。検証または評価のやり方はそれぞれ国や団体のカラーで異なる。たとえば、記事の評価を「ねつ造」「不正確」「やや不正確」「正確」と単純に分ける方法もあるだろうし、その一方、「科学的な根拠がなく、嘘に近い」「信じてはいけない真っ赤な嘘」「科学的な根拠があり、信じてもよい」という言い方で評価する方法もあるだろう。評価結果の知らせ方は、これまた国や団体で異なる。ただ基本的には、あらかじめ評価項目とその判断基準を決めておき、それぞれの団体がくだした評価結果を自らのウェブサイトに載せるという点は一致している。その評価結果を当該メディアに送るほか、他のメディア媒体(新聞、テレビ、雑誌など)にも送り、さらにそれぞれの団体会員が個々にSNSに投稿するという形をとれば、影響力は大きいはずだ。欧米では、メディアチェック団体と提携した既存のメディアが評価結果を記事として載せるケースもある。既存メディアが協力すれば、確かに一般の人の目に触れる頻度は高くなる。これが理想的なあり方だろう。「評価結果」は他の媒体にも知らせるここで大事なことは、たとえば、週刊朝日の例なら、週刊朝日の記事に関する評価結果を他のメディア媒体にも送るということだ。実は私たちの団体も2018年から、他の媒体(全部で約20社)にも送っていた。おかしな記事を書いていないAという媒体に「B社の記事は、非科学的です。信じてはいけないという評価がくだりました。SNSにも投稿されています」という評価結果が届けば、他社の出来事とはいえ、おそらく、変な記事を書くブレーキになるのではと思う。この「おかしな記事の評価を他社にも知らせる」というアクションは、実は、ずっと以前に一般社団法人「日本アルミニウム協会」がやっていたことだ。「アルミニウムの摂取がアルツハイマー病の原因になる」といった記事が約20年前にはやっていた。私もそうした記事を書いた記憶がある。いまでは信じられない話だが、台所でアルミ鍋を使っていた主婦たちが恐怖のあまりアルミ鍋を捨てるという行為まで見られた。日本アルミニウム協会は、科学的な根拠の低い記事を見つけるたびに、どの部分が非科学的かの理由を明記して訂正要求リリース文を作り、当該の媒体のほか、他の新聞社にも送っていた。私の記憶では、この活動は10年近く続いた。その地道な活動の要因だけではないだろうが、アルミニウムがアルツハイマー病に関係するという記事は少しずつ減っていったように思う。どのメディアもNHKを除き、客商売なので、世間の評判を気にする。世間の評判が落ちたら、購読数(視聴者数)の減少に直結する。この商の論理は傍若無人ぶりの週刊誌も免れない。いま世界で流行しているフェイクニュースのチェックは、どちらかといえば、大手メディアが流すニュースの真偽よりも、政府要人など有名人の発言が真実かどうかをチェックすることに重きを置いている。個人的な意見では、日本では主要なメディアの流すおかしなニュースに翻弄されているケースのほうがより深刻だと思っている。ぜひ、それぞれの組織の有志たちでメディアチェック団体をつくり、おかしなニュースを見つけたら、その評価結果をあらゆる媒体に知らせていく活動を始めてほしいと思っている。5~10人いれば、できるはずだ。どんなことも、初めの一歩がなければ、成し遂げられない。私たちの団体もまもなく評価活動を始動させる。
- 25 Apr 2019
- COLUMN
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メディアへの訂正要求は多角度から試してみよう
おかしな記事やニュースを見たとき、だれに、どうやって訂正を求めればよいのか。また、どんな方法で抗議をしたらよいのか。日本のメディア(新聞やテレビなど)には残念ながら、欧米のメディアと異なり、反論を載せてくれるコーナーや番組が存在しない。では、どうすればよいか。狙ったメディア内で、できるだけ多くの人(記者も含め)に周知してもらう作戦がよい。その具体的なやり方を紹介しよう。七つのルート新聞社やテレビ局などに訂正を求める場合、限られたルートしかないようなイメージがあるが、実は案外と多い。思いつくだけでも、以下の七つの方法がある。記事を書いた記者本人に抗議し、訂正を求める。記者の直属の上司(多くは部長か課長クラスのデスク)に訂正を求める。広報を担当する社長室に訂正を求める。社長あてに抗議文を出して訂正を求める。読者センターにメールか手紙で間違いを指摘し、回答を求める。新聞社内で紙面を審査する担当窓口にメールか手紙を出す。新聞社に設置されている外部の第三者委員会にメールか手紙を出す。意外に多いと思った人が多いのではなかろうか。ひと口に抗議や訂正といっても、実は、記事の間違いの程度いかんで対応は異なる。ちょっと表現(言葉)がおかしいとか、記者への説明と記事の内容が少々食い違うといった軽いミス(許容できる間違い)の場合には、記者本人に伝えて、「今回は目をつぶるけれど、次回はちゃんとこちらの言い分を書いてくださいね」とか「もう一度、記事を書いてくださいよ。ただ、今度は正しく書いてくださいね」とか言って、恩を売っておくのもよいだろう。私の経験から言って、記者は「もう一度、記事を書くから、今回は大目に見てほしい。次回の記事では正しく書くから」という受け入れ策を好む傾向がある。訂正記事を出すよりも、そのほうが記者個人の汚点にならないからだ。正直な話、私も記者生活40年間の中で、何度かこの手を使ったことがある。しかし、今回の話は、そういう恩を売っておくという程度で済むような間違いではないケースだ。間違いは全社的な話題にもっていく具体的な例を挙げたほうが分かりやすいので、前回で取り上げた毎日新聞の一面トップ記事の「もんじゅ設計廃炉想定せず ナトリウム搬出困難」(2017年11月29日付)を例に説明したい。前回は事実関係に絞って訂正を求めたほうがよいと書いたが、今回は、だれに、どのような方法で訂正を求めるのがよいかという問題だ。この記事をめぐっては、日本原子力研究開発機構の担当者は、記事を書いた記者の部署の直属上司(部長クラス)と面談して、訂正を申し入れたようだが、結局は、「取材源の秘密」を理由に「記事に間違いはない」と言われ、訂正やおわびを勝ち取ることはできなかった。一般的に言って、外部から訂正要求がくるということは、その記事は間違いだという可能性は高い。どんな人でも、記事が間違ってもいないのに、訂正を求めるようなことはしないからだ。そういう意味で、外部から「この記事は間違いです」と指摘されたメディア担当者(このケースでは部長クラスの上司)は、まずはなんとか自社組織の中で大きな火種にならいよう、ことを丸く収めようと内心で思うはずだ。訂正を求めるときは、その担当者の意識の弱さを突くことを考えたい。つまり、訂正を求める場合は、その間違いを全社的な問題(話題)にもっていくのがよい。一部署との交渉だけでは、その部署だけで問題が終わってしまう可能性があるからだ。外部からの通報で間違い記事に気づいた部長クラスの上司がまず気にするのは「社内にいる他の部長クラスのみんなが知ったら、まずいなあ。立場が弱くなるなあ」という自身への風当たりだ。つまり、その間違い記事が全社的な話題になってしまうことを恐れるのだ。間違いの指摘は社長室か読者センターへということは、訂正を求める場合は、第一段階として、記事を担当した記者や部署ではなく、広報担当の社長室か読者センターに通報するのがベストである。間違い記事に関する回答書を求められた読者センターは、すぐに関係する部署のほか、社長室にも連絡をする。そして、「これこれの間違いが外部から指摘され、訂正を求められている。訂正するかどうかの判断はそちらに任せるが、とりあえずは関係部署の上司と記者の釈明書を書いて、こちらに送ってほしい」と回答書の提出を指示するだろう。こうなると、間違い記事は一部署から一挙に広範囲に知れ渡る。おそらく部長クラスが集まる部長会議の議題にもなるだろう。私の経験からいって、間違い記事を指摘された部署は当然ながら、訂正の掲載に抵抗するだろうが、他の部署は意外に冷静な目で判断する傾向がある。間違ったときは潔く訂正を出したほうが読者の信頼を獲得でき、社会的な信頼度も上がると考える新聞人が最近は増えてきているので、その間違い記事とは関係のない部署の記者たち(部長クラスの記者たち)からは、意外にも訂正を出すことに賛成する意見が出てきやすい。開かれた新聞委員会も活用したいもうひとつの方法は、新聞社内に設けられた第三者委員会にメールか手紙で間違いを指摘し、そこで議論してもらうことだ。第三者委員会はどの新聞社にもあるわけではないが、毎日新聞社の場合は、著名なジャーナリストの池上彰さんら複数の外部識者で構成された「開かれた新聞委員会」がある。紙面に寄せられた抗議や訂正要求などを議論し、その審議内容を紙面に定期的に載せている。その中で「これこれの訂正要求が来ているが、これは訂正に値する間違いだ」といった内容の論評記事が出たりする。これはいわゆる訂正記事ではないものの、識者の意見として「あの記事は裏とりが不十分だった」との記事が載るため、事実上、訂正記事に近いものになる。この論評付きの意見は、簡単な訂正掲載よりも、記者が間違った背景も分かり、読者には親切である。残念なのは、こういう外部の意見を審議する第三者委員会をもっている新聞社がまだ半分にも満たないことだ。その意味で毎日新聞の開かれた新聞委員会は専門家からも高い評価を得ていて、おそらく新聞社の中ではもっとも先進的な例ではないかと思う。そういう意味では、この「もんじゅ設計廃炉想定せず」の記事は、第三者委員会に通報してもよかったケースだと言える。ちなみに第三者委員会の会議には部長クラスの上司はみな出席する。これまで述べてきたように、訂正要求にもいろいろな方法があることが分かるだろう。ただどんな場合でも、少なくとも相手の組織図を知っておくことは最低必要条件である。そしてもうひとつ、確実に実行したいことは、自社のホームページに「○○社の記事は○○の部分が間違いです。この記事は誤報です」といったメッセージを必ず載せることを忘れてはいけない。訂正を求めるという面倒な行為をしなくても、ただホームページに載せるだけでも、だれかがそれに気づいて、その間違い記事を拡散してくれる効果も狙えるからだ。何もしないのが最悪の行為である。次回は、間違いを指摘しても、メディアから無視された場合の対処法を考えてみたい。
- 28 Feb 2019
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科学者は市民意識でアクションを
なぜ、科学者は市民に負けるのか。これが前回コラムのテーマだった。今回は、では、どういう場合に科学者が市民に勝つ(科学者の意見が世間やメディアに伝わることを勝つと定義)のかを考えてみたい。具体的な例を示すのが一番よいだろう。東京の築地市場が豊洲に移転するかどうかをめぐって、当時の小池知事は「(豊洲に移転することは、科学的にみれば安全かもしれないが、安心が達成されていない」といったニュアンスの発言を繰り返していた。豊洲の地下水から発がん性物質のベンゼンが環境基準値を超えて検出されたため、新聞やテレビなどのメディアも、さも健康被害が生じるかのような論調を展開していた。しかし、その地下水は飲み水ではない。あえて健康リスクを言うならば、地下水から揮発したごくごく微量のベンゼンを市場の人たちが吸うリスクだった。そんなリスクがほぼゼロに近いことは、ほとんどの科学者が知っていた。それでも、一部の新聞には「健康への影響は重大だ」というコメントを載せていた科学者が1人いた。メディアはたいていの場合、政府に批判的な意見を述べる科学者を好む。社会に対して、なにか異議を唱えることが記者の使命だと根っから思い込んでいるからだ。それがメディアの習性である。ところが、記者という人間は、世の中の動き、つまり「世論」に敏感な生き物でもある。市民や市民団体のアクションを見れば、たとえ市民団体の意見に賛同していなくても、一応は市民団体の話を聞き、記事にしたりする。ニュースになるからだ。これも記者の習性である。科学者に必要なのは「市民意識」ならば、科学者も市民や市民団体と同じような行動をとればよいということになる。築地市場の移転が遅々として進まず、安心を軸に動いていた事態の推移を見かねた私の知人の科学者たちが「どこかに記者を集めて、説明したいが、どうすればよいか」と私に尋ねてきた。私は「問題を担当している東京都庁の記者クラブで緊急記者会見を開く」ことを提案した。記者クラブなら、記者を集める必要はない。労力もかからない。記者たちがそこに常駐しているからだ。しかもテレビの記者もいる。幹事社に連絡して、了承を得れば、電話一本で会見は開ける。その科学者たちは日本リスク研究学会に属する研究者たちだった。電話一本で約10日後に記者会見が実現した。2017年3月のことだ。私も会見に出席した。新聞、テレビの記者たちが10人以上来ていた。3人の科学者たちが会見席にすわった。記者がひと目で理解できるようなフリップを用意していた。衛生管理面でどちらの市場がすぐれているかがパッと見ただけでわかるように「〇〇面では築地市場×、豊洲市場◎」といった工夫を凝らしていた。3人は堂々と自信たっぷりに「豊洲市場のほうが間違いなく安全である」と言い切った。さらに続けた。「豊洲が安全だ」と言っているのは私たち3人だけではなく、他にも30人以上いると力説し、その署名簿まで手渡した。多数の同調者がいることを記者たちに示したのである。記者たちにとって、こういう科学的な内容をしっかりと聞くのは珍しかったようで、効果はてきめんだった。会見が終わったあと、記者たちは次々にその科学者たちと名刺を交換した。そして翌朝を迎えた。テレビを見たら、なんと民放の情報番組で3人がばっちりと写り、あのフリップをテレビ画面いっぱいに見せて、豊洲のほうが安全だと主張する多数の科学者たちが会見したという内容を流していた。私もテレビを見ていたが、豊洲のほうが安全であるというメッセージが確実に伝わる内容だった。その後、その科学者たちはNHKも含め、他のテレビ局にも呼ばれ、自説を述べる機会に恵まれた。個人的な感想ではあるが、その科学者たちの出現をきっかけに風向きが変わり、記者たちの批判的なトーンは穏やかになっていったように思う。記者たちは世論に敏感だが、その世論の中には科学者も含まれる。複数の科学者たちが記者クラブに駆け付けて、悲壮感を露わにして何ごとかを訴えれば、そこそこの緊迫感、メッセージが伝わるのだ。子宮頸がんワクチンの教訓しかし、40年近く記者をやっていて、そういう科学者たちの果敢なアクションを見るのは、1年に1度か2度しかない。大事なのはアクションであり、リリースや声明の文字ではない。子宮頸がんを予防するHPVワクチンの惨憺たる状況を見てほしい。2013年4月、国の定期接種が始まったが、ワクチンの副作用だと主張する被害者たちの訴えによって、わずか2カ月後に接種の勧奨が中止となった。以来、接種率はゼロに近い状態が続いている。このままだと先進国では日本だけが子宮頸がんの多発国になるだろう。不思議なのは、産婦人科医師や感染症の研究者の9割以上はHPVワクチンの接種再開を支持していることだ(私の推定)。胸の内では「早く再開すべきだ」と思っているだろうが、それは思いのままでとどまっている。もちろん、学会のホームページには自分たちの意見や科学的事実をときどき載せているが、いつ載せたかも分からず、私でさえ1カ月たって初めて気づくことが多かった。つまり、学会はリリース文を出したり、年に1度、シンポジウムを開いたりするが、記者への直接のアクションは起こしていない。もしリリースを出すなら、同時に厚生労働省の記者クラブへ出かけ、記者会見で発表すればよいのにと思うが、それもしない。世界保健機関(WHO)も、ワクチン接種を禁止状態にしている日本を名指しで批判している。そういう状況の中でも、メディアは「早く接種再開を」とは絶対に書かない。市民団体からの抗議が怖いからだ。 政府が接種再開に動けば、メディアも追随するだろうが、自らは動こうとしない。下手に自ら動いて市民から批判を受ければ、得るものは何もないからだ。学者や研究者が生きる科学の世界と、市民が決定権をもつ市民社会(俗世間)は、全く別の論理で動く別世界である。科学者が勝つには、俗世間につながる橋を渡って、市民意識をもつ必要がある。それには勇気と行動力がいる。築地市場の移転問題のように常に成功するとも限らないが、複数の有志が集まれば、決してやれないことはない。どちらにせよ、世の中を動かすには具体的なアクションが絶対に欠かせない。次回は、メディアに対して、どうアクションの方法があるかを提案したい。
- 10 Oct 2018
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なぜ、科学者は”市民”に負けるのか ― メディアと市民と科学者の力学について ―
なぜ、多数派の科学者の考えが市民にしっかりと伝わらないのか。これが、長く記者生活を送ってきた私の現在の疑問である。たとえば、牛の放射性セシウムの検査。農水省の調査によると、2013年以降、牛肉からは基準値の1キログラムあたり100ベクレルを超える例はない。もはや牛のセシウム問題は収束したといってよい。ところが、福島だけでなく、東日本の他県の牛まで延々と全頭検査が続いている。おそらく食品科学に詳しい専門家100人に聞けば、99人が「検査する根拠はない」と答えるはずだ。ところが、それを言い出す科学者はいないし、メディアもあまり伝えない。もし10人の科学者が農水省の記者クラブに飛び込み、「いつまで、こんな無駄な検査をやっているんだ。そんなお金があったら、待機児童の解消に使うべきだ」と強い口調と情熱を込めて、緊急記者会見を開けば、一定の報道効果はあると思うが、そういうアクションを起こす気配はないようだ。実は、似たような問題は、他の分野でもある。遺伝子組み換え作物はすでに1996年から、米国やカナダなどから大量に輸入され、家畜のえさや食用油の原料などに使われているが、いまだに「組み換え作物が自閉症の原因では」など、およそありえないトンデモ情報が幅をきかせている。法律では日本国内で組み換え作物を栽培しても何ら問題はないが、どの農家も栽培しない。市民団体からの抗議を恐れているからだ。食品に放射線を当てて殺菌する食品照射は、世界では香辛料など数多くの食品を対象に50カ国以上で承認されている。ところが、日本ではいまだ1972年に国が許可した北海道のジャガイモだけだ。10数年前、香辛料の業界が前向きに検討したが、市民団体の反対に遭い、断念。結局、この50年余り、社会的な理解は全く進んでいない。ネットで「照射、ジャガイモ」を検索するといまもネガティブな情報ばかりが上位に来る状況である。なぜ、こういう状況が生まれるのか。それが記者生活の中で常に抱いていた疑問だった。その解明の糸口を求めて、ずっと考えてきたが、最近になってようやく「いまは市民が物事を決める市民社会である」という厳然たる事情が背景にあることに気づいた。メディアは市民を忖度する主役は、科学者ではなく、市民だということだ。少し考えれば分かるが、メディアを支えているのは市民である。新聞もテレビも雑誌も、市民の購読(テレビは企業の広告収入に頼るが、市民の視聴率が支え)によって成り立つ産業である。憲法で言論の自由が保障されていて、一見、言論の自由は経済的な行為とは無縁のようにみえるが、実はメディアが発信する情報は一般の商品と同様にお金で取引される商品である。お金を出すのは市民である。市場社会ではお金がモノをいう。お金を出す側が強いのは当然である。その結果、どういうことが起きるだろうか。メディアは顧客の気持ちに寄り添って、商売をする(情報を売る)ようになる。顧客から見放されたら、商売自体が成り立たなくなるからだ。言論の自由といったところで、現実には、情報を売って身を立てる経済的な行為の中でしか成立していないのである。新聞が市民からの抗議に弱いのは、それを無視し続けると購読者が減ってしまうからだ。メディアが市民に迎合しやすいのは、選挙で政治家が市民におもねるのと似ている。政治家は市民の1票欲しさに無責任なことを口走るが、メディアは購読を維持するために、市民の要求をのむ。そして、市民の側に立つ。この問題を食品や環境問題のリスク報道に移して考えると、メディアは市民の気持ちに寄り添う形で市民の不安をニュースに取り込んでいくということだ。科学者が安全だといっても、一定数の市民が「不安です」と騒げば、メディアはそういう市民の不安に寄り添うのである。メディアにとって重要なのは、リスクが高いか低いかというよりも、市民の不安をどれだけくみ取るかである。多数の専門家が安全ですといっても、「私たち市民は安心できません」という構図がある限り、そこに記者たちはニュース価値を見つけて、市民を忖度した報道をしてゆく。今年5月から、ある週刊誌が「危ない国産品リスト」というタイトルで食品添加物を目の敵にして、延々と特集を続けているのも、その論調に共鳴する市民たちがいて、一定数の販売が見込めるからだ。そこに登場する人たちは、一部の偏った活動家や学者ばかりだ。どうみても、多数の食品科学者から一目置かれるような実績のある科学者ではない。それでもいいのだ。その週刊誌の狙いは市民に受けて、売れればよいのだから。とはいえ、あまりにも非科学的な情報を発信する同誌に対し、私が共同代表を務めるボランティアのメディアチェック団体「食品安全情報ネットワーク」(もうひとりの共同代表は唐木英明・東大名誉教授)は意見書を送り、問題点を指摘した。それが別の週刊誌の目に留まり、両誌はそれぞれを批判する論陣をはった。ところが、最初に報道した週刊誌から「お前だって、以前に添加物の危険性をあおっていたではないか」と逆襲され、あっけなく2回の記事で終わった。売れ行きもよくなかったと聞く。安全な情報は売れ行きがよくないというお手本のような例であった。福島の原発事故以降、どのメディアも特定の市民層を囲い込み、特定の論調(反原発とか反ワクチンとか)を好む読者層とともに運命をともにする路線を取り始めたように思う。これが市民社会の分断につながり、メディアの「島宇宙化((島宇宙化とは、銀河が島のように宇宙に散在していることから、同じ価値観をもったものだけで場を作ることをいう))」をもたらした。主要紙とされる新聞社でもがっぷり四つで対立できるのは、それぞれを支える市民層がいるからだ。その意味では多様な言論の成立には多様な市民が必要である。こういう中で科学者はどう振舞えばよいのだろうか。次回のコラムで私なりの考えを述べてみたい。
- 30 Jul 2018
- COLUMN