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危うい「市民ジャーナリズム」 ─ 根拠なき情報に対抗する第三の「プロフェショナル・ジャーナリズム」が必要
ネットの発達で市民が自由にいろいろな意見やニュースを発信する「市民ジャーナリズム」が活発になってきた。しかし、そこには第三者の査読や校閲の機能はほとんど見られない。そういう危うい市民ジャーナリズムに対抗する第三の「プロフェショナル・ジャーナリズム」が必要なときに来ているのではないだろうか。2019年8月、山田正彦・元農水大臣や国会議員の福島瑞穂さんらが集まって、衆議院会館で記者会見が行われた。国会議員を含む29人のうち19人の髪の毛から除草剤のグリホサート(もしくはその代謝物)が検出されたという内容だった。検出された量は0.1 ppm(ppmは100万分の1の単位なので、1グラムの中に1000万分の1グラムの割合)前後の微量だが、議員らは「(水俣病の)メチル水銀と同じように人体に蓄積していく可能性があり、後遺症や障害を起こすという証拠が出ている。禁止すべきだ」と声高に訴えた。検出量は安全な量の1000分の1確かにグリホサートはパンなど一部の食品から検出されるが、これまでの国の調査データ(厚生労働省)によると、日本人が平均的に摂取しているグリホサートの量は、生涯にわたって毎日食べ続けても安全といえる1日許容摂取量(ADI)の1000分の1程度である。安全な量の1000分の1だから、なんら健康上の問題はないと考えられる。しかし、市民団体が標的とする農薬や食品添加物などが、たとえごく微量でも、単に検出されたという事実だけで「危ない」「禁止すべきだ」だと糾弾するのが、こういう「市民ジャーナリズム」の特徴である。こうしたむき出しの情報が、ネット上のブログやヤフーニュースなどで、だれの査読やチェックもなしに拡散しているのがいまのネット時代だ。市民が思うがまま(好き勝手に)に自分のニュースを発信できるのは、ときの権力の横暴を抑える武器となり、自由な言論の象徴とも言える。その意味ではよい面ももっているが、こと科学や医学ににかかわるニュースとなると、おかしな情報を信じた人たちに無益な行動に走らせることにもつながっていく。たとえば、上記の例なら、グリホサートの使用を怖がって、やめてしまう行動がそのひとつである。内閣府食品安全委員会のリスク評価を見てもわかるように、毒性学的に見て、グリホサートほど安全な除草剤(いうまでもなく使用基準を守って使うことが前提)は他にないと思うが、それに怖さを感じた人は、より危ない別の農薬を使うことにもなりかねない。いや現実にそういうことが起きつつある。市民ジャーナリズムは責任なし市民ジャーナリズムは悪く言えば、素人ジャーナリズムだ。間違った情報でだれかに被害を与えても、市民ジャーナリズムは責任をとることはない。そもそも市民は素人なので、科学的に根拠のないことを言っても、その言動によって、責任をとらされることもない。これは考えてみれば不思議な現象だが、いまの市民社会では市民が主人公であり、市民には発言をする権利があり、知る権利があり、自由にものを言う権利がある。それでいて、間違った場合でも、許されるのが市民である。要するに、市民は神様なのである。ある市民(女性)が「長生きしたければ、肉を食べるな」という内容の本を書いてベストセラーになったことがある。食品添加物や白い砂糖などを避ければ、がんを克服できるといった本を書いてベストセラーになった例もある。どちらも根拠なき一個人の主張、体験に過ぎないが、そんなおかしなことをいいふらしても、責任をとらされることは全くない。この本の内容を信じて、まねして、早く死んでも責められることはない。市民ジャーナリズムは無敵なのである。間違っても、非難されないという特権をもっている。その一方、おかしなことを言えば、すぐに世間から悪のレッテルをはられて追放されるのが専門家である。市民は素人ゆえの恐るべきパワーをもっているのだ。原子爆弾はゲノム編集と同じなのか?元農水大臣の山田氏(弁護士)も、一市民であり、科学者ではない。一市民なので自由になんでも言える。山田氏のブログ(9月21日)を見ていたら、インタビューしたカリフォルニア大学のイグナシオ・チャペラ教授の話として、山田氏は最近、注目されているゲノム編集について「100%副作用が出るし、原子爆弾とゲノム編集は全く同じ物です」と書いている。どうみても言論が軽すぎる。人権に配慮するはずの元大臣の発言とは思えない物言いである。自分に都合のよい専門家の話を引用して、ゲノム編集の危険性を広めたい気持ちは分からないでもないが、どうみても原子爆弾を例に挙げるのは原子爆弾の被爆者の心、尊厳を傷つけるものだ。一度に数十万人の生命を奪う原子爆弾と、単なる品種改良のひとつに過ぎないゲノム編集技術を同列に扱うとは、被爆者の生命(いのち)をあまりにも軽く見過ぎる発言にしかみえない。狙った遺伝子を思うように書き換えるゲノム編集技術が、仮に原子爆弾と同じような危険性をかかえているとすれば、医療分野でゲノム編集による治療に取り組んでいる医師や学者は、危険性に全く気付いていない大愚者なのだろうか。ノーベル賞の候補ともいわれるゲノム編集技術で動植物の品種改良に挑んでいる研究者は無学の徒とでもいうのだろうか。このように何を言っても許されるのが市民の強みである。それが市民ジャーナリズムの武器でもある。第三の「専門家ジャーナリズム」が必要これに対し、科学者はそうはいかない。根拠なき言論で市民を惑わせ、市民の気持ちを逆なでしようものなら、「御用学者」「インチキ学者」とレッテルをはられ、世間から追い出される。科学者の世界では査読やピアレビューがあり、おかしな説や根拠なき理論は淘汰されるというメカニズムが働く。だからか、科学者の物言いは慎重になる。「絶対に危ない」とか「100%安全です」とか断定調の言葉を発信することに慎重になるのだ。その結果、なんでも自由にものを言う市民(素人)のパワーに負けてしまう。そして、市民社会では素人が勝ち、専門家が負ける。ゲノム編集や遺伝子組み換え作物、農薬のグリホサート、食品添加物、福島のトリチウム水などに関するネット情報界隈の生態を見ていると、そういう危ういけれど、強い影響力をもつ市民ジャーナリズムの姿がしばしば見える。そうはいっても、市民ジャーナリズムが科学的にどこまで的確なことを言っているかをちゃんと知りたい市民も多いことだろう。しかし、いまのところ、市民ジャーナリズムの言論を厳しくチェックする専門家の集団はほとんど存在しない。専門家による第三のジャーナリズムの出現を期待したい。
- 26 Dec 2019
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農薬をめぐるバイアス記事の好例
除草剤グリホサートをめぐる恐るべき事態が勃発 ─ 科学者へ、決して他人事ではありません ─悪意に満ちたバイアス(偏った)記事がいまなお健在だという好例の記事を見つけた。知識層が最も好むとされる大手新聞(8月24日付)の朝刊記事だ。グリホサートという除草剤が発がん性や胎児への影響をもたらすと指摘する記事だが、先進国の公的機関は明確に否定している。こういう記事が続く限り、活字メディアはいよいよ専門家から見放されるだろうとの思いを強くする。記事の冒頭の前文は、記事全体の顔だ。まずは、記事の冒頭を以下に記す。──発がん性や胎児の脳への影響などが指摘され、国際的に問題になっている農薬が、日本では駐車場や道ばたの除草、コバエやゴキブリの駆除、ペットのノミ取りなどに無造作に使われ、使用量が増えている。代表的なのが、グリホサートの除草剤とネオニコチノイド系の殺虫剤だ。海外では規制が強化されつつあるのに、国内の対応が甘いことに、研究者は懸念を抱いている。──この前文を読むと、世界中の科学者がグリホサート(製品名ラウンドアップ)という除草剤が、がんを起こすことを認めているかのような書きっぷりだが、事実は全く違う。さらに、同記事は「国内の対応が甘いことに、研究者は懸念を抱いている」と書いているが、私がこれまでに農薬問題を約30年間取材した経験から言って、この種のリスクの問題で「懸念を抱いている」とみられる研究者は100人の科学者のうち、多くて数人だろう。そのたった数人の研究者の異端的な意見を、さも大多数の研究者が抱く懸念かのごとく、記事の前文で報じることに作為的な悪意を感じる。この前文を読むだけで、この記者は科学的で正確な事実を読者に伝えようと努力していないことが読み取れる。米国で恐るべき訴訟同記事にも出てくるが、いまグリホサートをめぐって、米国では恐るべき訴訟が起きている。科学を重視する科学者にとっては、背筋が寒くなるような訴訟ビジネスの実態だ。──どんな訴訟なのか?グリホサートを使っていた市民たちが「白血球のがんになったのはグリホサートが原因だ」とカリフォルニア州地方裁判所に訴訟を起こしたのだ。これまでの3件(2018年8月~2019年5月)ではいずれも原告側の市民が勝訴している。なんとこの3件で陪審員は補償的損害と懲罰的損害を合わせて、約300億円、約80億円、約2200億円(1ドル100円で換算)もの賠償金の支払いを命じた。のちに判事の裁定でそれぞれ約80億円、約25億、約90億円に減額されたものの、途方もない賠償金に違いはない。被告の農薬メーカーは旧モンサント社(現在はドイツのバイエル)。控訴中でまだ決着はついていないが、恐るべきは、同様の訴訟が米国内で18000件以上も起きていることだ。グループ分類の意味訴訟が起きた背景には、2015年3月に国際がん研究機関(IARC)がグリホサートを発がん性分類で「グループ2A」にしたことが大きく影響している。おそらく陪審員たちは弁護士の巧みな論法に説得され、グループ2Aという印籠にひれ伏してしまったのだろうと推察する。しかし、がんのグループ分類は、実際の危険性やリスクの高低とは、全く関係がない。ちなみに、発がん性分類は「グループ1」(発がん性あり)▽「グループ2A」(おそらく=probably=発がん性がある)▽「グループ2B」(発がん性の可能性あり)▽「グループ3」(発がん性と分類できない)▽「グループ4」(発がん性なし)の5段階ある。いうまでもなく、この分類は発がん性の証拠の強さの順番に並んでおり、グループ1はがんの証拠が十分にそろっているという意味だ。そのグループ1には「ダイオキシン」「たばこ」「ハム・ソーセージなどの加工肉」「アルコール」「カドミウム」「ヒ素」などがある。アルコールを毎日、たくさん20~30年も飲み続ければ、がんになるリスクが高くなるという証拠が十分にそろっているという意味だ。逆に言えば、アルコールをときどき適量に飲んでいれば、がんのリスクはゼロに低い。グループ2Aには「熱い飲み物」もグリホサートに反対する市民グループは、このグループ2Aを盾に「グリホサートは発がん性」と主張しているが、実は、その同じグループ2Aには「肉類(鶏肉を除くレッドミート)」、「アクリルアミド」(ポテトフライやト―ストの茶色く焦げた部分などに含まれる)、「65度以上の熱い飲み物」などがある。言い換えると豚肉や牛肉も、外食産業で食べるポテトフライも、毎日自宅や喫茶店で飲む熱い飲み物も、みなグループ2Aである。ちなみにポテトフライに含まれるアクリルアミドは毒劇物取締法では「劇物」に指定されているのに対し、グリホサートは同じ法律で「普通物」扱いだ。これを知るだけで「グループ2Aだから危ないとは言えない」ことが中学生でも分かるだろう。仮にグリホサートの使用者ががんになって、10億円を超す賠償金を獲得できるならば、毎日ポテトフライを食べていて、がんになった人も、ポテトフライを売る会社を相手取って訴訟を起こせば、10億円を勝ちとれるという理屈になる。熱いコーヒーを出す喫茶店からも高額の賠償金をもぎ取れるだろう。すでに察しがつくように、グループ1はグループ2Aよりも証拠がそろっているのだから、アルコールを売る会社やハムソーセージを売る会社にも訴訟を起こして、莫大な損害賠償を勝ち取ることも可能になるだろう。こういうたとえ話を聞けば、この訴訟のおかしさが分かるはずだが、米国の陪審員は科学者のような思考には慣れていないのだろう。勝訴で勢いづいた弁護側はいまテレビに広告(CM)を流し、「グリホサートを使っていて、がんになった人は訴訟に加わりましょう」と原告を募集している。見たこともない大金がもらえるなら、原告に加わる人も出てくるだろう。がん患者を食いものにする訴訟ビジネスの寂しい一面でもある。この訴訟の背景にはグリホサートに発がん性の警告表示が必要だとするカリフォルニア州特有の「安全飲料水および有害物質施行法(プロポジション65)」がある。そういう意味ではこの種のリスクに敏感な民主党の強いカリフォルニア州特有の動きともいえるが、この恐るべき訴訟がいつ日本に来ないとも限らない。正当な意見は無視さて、上記の大手新聞の記事は、こういうグループ分類の科学的な解説には全くふれず、グリホサートで発達障害や腸内細菌の異常、生殖毒性まで起きているとする海外の団体の偏った主張だけを載せている。市民グループの意見は長々と載せているのに対し、世界中の科学者の多数意見ともいえる欧州食品安全機関(EFSA)や米国環境保護局(EPA)の見解については、「発がん性を否定」しているというたった一言で済ませている。要するに記事の大半は、農薬に反対する市民グループとその市民グループに味方するごくごく一部の研究者の意見や主張だけが占めるという構図だ。こういう記事を書くときは、「私が共感する市民グループの意見だけを紹介する」と前置きして書くべきだろう。記事はいかにも客観性を装う内容にみえるが、単なるプロパガンダに過ぎない。よくあるパターンだと言ってしまえば、それまでだが、週刊誌ならまだしも、日本で最も信頼されているとされる新聞でこの状況である。この米国の訴訟の判決に対して、米国の環境保護局(EPA)は8月8日、「米国政府はグリホサートの発がん性警告表示を全く認めていない。国際がん研究機関よりもはるかに包括的に研究文献を精査した結果、発がん性の根拠はない」とするプレスリリースを出した。こういう重要な動きを記事は全く伝えていない。さらに言えば、IARCは2015年にグリホサートのほか、マラソン(殺虫剤)、ダイアジノン(殺虫剤)もグループ2Aにした。しかし、同じグループながら、マラソンやダイアジノンは全く話題にも上らない。訴訟にもなっていない。なぜかグリホサートだけが攻撃される。市民グループの恰好のターゲットとなっている旧モンサント社がからむからだろう。市民グループの主張だけを取り上げて、よい記事を書いたと自己満足している記者がいまも存在するということをぜひ知っておきたい。ここで強調したいのは、反対運動自体を問題視しているのではなく、科学的な根拠に基づく正確な情報を伝えない報道の目に余る偏りが問題だということだ。こうした海外の動きを受けて、日本の市民グループや国会議員もグリホサートへの反対運動を強めている。次回で続編をレポートしたい。 ※文中に出てくるグリホサートは除草剤の有効成分です。現在、世界で数多くの会社がグリホサートを含む除草剤を製造・販売していますが、米国での訴訟の対象になっているのは旧モンサント(現在はドイツのバイエル)の商品のラウンドアップです。ただ、記事では分かりやすくするため、成分名のグリホサートで統一しました。
- 19 Sep 2019
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メディア・ハラスメントの誕生 ─ 今後、メディアの信頼回復策はあるのか
いったいメディアはいま、どんな情報を市民に届ければ、信頼される存在になるのだろうか。新聞やテレビ、週刊誌などのメディアへの信頼性がますます低下する中でメディアの生き残り策はあるのだろうか。私は、読み手に「反論権」をあらかじめ与えるのが生き残り策のひとつだと考える。どういうことかを述べてみよう。一部週刊誌の非科学的言説最近の一部週刊誌の食品のリスクに関する記事を見ていると、もはや言論というよりも、非科学的な言説の一方的な垂れ流しであり、言論の自由の範疇に収まり切れない要素をもっているのではないかと感じることがある。「食べてはいけない国産食品の実名リスト」との派手な見出しで事業者と製品名を挙げて、「これが危ない食品のランキングです」といった週刊誌の記事のことだ。たとえば、「食品添加物が子供の自閉症の原因になっている」とか「うま味調味料のグルタミン酸ナトリウムが脳の障害を起こす」とか「パンに使うイーストフードは体に悪い」とか「アルミニウムは子供の発達障害と関連がある」とか、およそ科学的とは言いがたい言説を平気で記者たちが書いている。この種の記事に登場するコメント諸氏は、私から見れば、いつも偏った評論家か学者、市民活動家ばかりだ。その名前をリストに挙げることは簡単にできる。その数が10人程度と少ないからだ。名指しされた事業者は反論の機会も与えられず、ただただ泣き寝入りするしかないようだ。もちろん、この種の記事に対しても、無添加表示で商売をもくろむ一部の事業者は大喜びだろうし、食品添加物を敵視する一部市民は喝采を送るだろう。しかし、食品の科学に詳しい学者に聞けば、だれ一人として、そうした記事を称賛する人はいない。そうした記事は、科学論文のように第三者のレフリーの目(査読)を経たわけではない。いうなれば、雑誌側の記者たちと一部の評論家諸氏が勝手に作り上げた粗雑な物語といってもよい。では、なぜ、この種のひどい記事がいつまでも存在し続けるのか。モノを売買する市場では、欠陥商品を売る評判の悪い店や会社はいずれ淘汰されてもよいはずだが、なぜか生き残っている。メディア・ハラスメントではないか名指しで非難された事業者からみれば、一方的に書かれっぱなしのままであり、反論する術もない。私はいつしか、これは言論によるハラスメントではないかと思うようになった。相手の言い分を聞くかのようなポーズを見せながら、最初から結論ありきの記事を一方的に書きまくる。言論による「いやがらせ」としか思えないようなスタンスである。これを「メディア・ハラスメント」と呼びたい。そもそもハラスメント(Harassment)とは何か。ネットで検索してみると、分かりやすい大阪医科大学の定義が出てきた。どんな内容かを以下に記してみる。「いろいろな場面での『嫌がらせ、いじめ』を言います。その種類は様々ですが、他者に対する発言・行動等が本人の意図には関係なく、相手を不快にさせたり、尊厳を傷つけたり、不利益を与えたり、脅威を与えることを言う」本人の意図に関係なく、つまり、相手の言い分をよく聞かずに一方的に相手の嫌がることをしたり、不利益を与えたりする行為である。週刊誌による一方的で横暴な言論はどうみても、この定義にあてはまるように思える。勇気をもって行動し、評判をつくるでは、ハラスメントを受けたら、どう対処すればよいのか。大阪医科大学は先ほどの説明のあと、次のような提言をしている。「一人で我慢せず、勇気をもって行動し、はっきりと自分の意思を伝える。受けた日時を記録し、相談窓口に助力を求める」つまり、泣き寝入りせず、勇気をもって行動することが大事だといっている。これは通常のセクシャルハラスメント(セクハラ)などではごく常識的な対処法だろうが、この言論によるハラスメントの世界では、この種の対処法が全く機能していないことに気付く。私と唐木英明・東大名誉教授が共同代表を務めるメディアチェック団体「食品安全情報ネットワーク」(個人で集まったボランティア集団)はこれまでにおかしな記事を見つけたら訂正を申し入れるなどの活動をやってきたが、これからは「この記事は不正確です。ミスリードする内容が多く、信頼性は低い」といったような評価作業を行い、その評価結果を当該メディアに送り、なおかつ他の多数のメディアにも送るというアクションを起こすことを決めた。試験的に、ある新聞の食品添加物に関する記事をみなで読み、「ミスリードする内容で不正確」との評価をくだした。評価する基準は主に「科学的な根拠が適切に示されているか」「大げさに伝える誇大な見出しになっていないか」「事実関係の説明に誤りがあるか」の3つだ。この評価に基づく評判を世間一般に知らせることによって、その評価にふさわしい報いを受けてもらおうという活動である。決して言論を否定するわけではない。目的はあくまで評価を通じた評判作りである。そもそも、この種のメディアチェック活動が必要なのは、当該メディアが読み手に対して「この記事への反論を載せます。ご意見をお寄せください」という反論権を認めていないからだ。メディアが読み手に反論権を与える姿勢に転じれば、その時はそのメディアは市民から信頼され、守るべき市民の代理人としてのメディアに格上げされるだろう。反論を載せることこそが言論メディアの生き残る道だと考える。
- 19 Jul 2019
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SNS時代にふさわしいメディアチェックとは ― おかしな記事を評価して、世間に知らせる活動をもっとやろう
おかしな新聞記事やテレビニュースを見つけたときに、まずだれもが思いつくのが「訂正の要求」か「抗議文の送付」だろう。しかし、相手が完全に無視したら、どうすればよいのか。そのひとつが相手の評判を落とすアクションだ。どのメディアも世間の評判には弱い。そのやり方を私なりに考えてみる。私が共同代表を務めるメディアチェック団体「食品安全情報ネットワーク」(もう一人の代表は唐木英明・東大名誉教授)は、科学的な根拠がないか、あるいは乏しい記事を見つけたら、その媒体に訂正を求めたり、意見書を出したりする活動を続けている。学者や記者、企業の品質保証担当者、公的機関の研究者など約50人が集まったボランティア団体である。会費もなく、おかしな記事を見つけたら、みなで手分けして検証して、訂正の内容をメディアに送るという純粋な検証団体である。ボランティアだから、自由にモノが言えるし、どの媒体に対しても等距離に身を置ける利点がある。2008年から活動を続けてきたが、一番の悩みは相手から無視されたときだ。幾度質問を繰り返しても、相手から全く音沙汰なしだとあきらめるしかなかった。そのときの気持ちは、一言で言えば「悔しい」だった。新聞系雑誌は「無視」知名度のない弱小ボランティア団体ゆえに無視されたのだろうと思うと本当に歯がゆい思いを何度も味わった。たとえば、2018年2月、週刊朝日が「健康寿命を延ばす食品選び」というタイトルで、どうみても非科学的な記事を載せた。添加物を避ければ、健康寿命が延びるかのような非科学的な言論を吐く評論家や市民団体は昔からあったが、それが堂々と新聞系の雑誌に載ったとあっては、黙って見過ごすわけにはいかない。さっそく質問状とその理由を書いて編集部に送ったが、全く返事は来なかった。しびれを切らして私たちの担当者が電話したところ、相手からは「特定の相手にだけ時間を割くことはできない・・」などといった冷淡な言葉だった。その後も、別の複数の週刊誌の記事に対して、何度か訂正を求めたが、ここ1、2年は「回答なし」が目立つようになってきた。ニュースの真偽を検証するこのまま敗北するわけにもいかない。どうすればよいかを思案していたときにヒントになったのが、最近、世界で大流行している「ファクトチェック活動」だ。ファクトチェックとは、簡単に言うと記事やニュースの真偽を検証することだ。たとえば、米国のトランプ大統領の発言とそれが掲載された記事がどこまで真実かを検証して、「大統領の発言はフェイクです」などとSNSなどを通じて、みなに知らせる活動である。欧米を中心に100を超えるチェック団体がすでに存在している。検証または評価のやり方はそれぞれ国や団体のカラーで異なる。たとえば、記事の評価を「ねつ造」「不正確」「やや不正確」「正確」と単純に分ける方法もあるだろうし、その一方、「科学的な根拠がなく、嘘に近い」「信じてはいけない真っ赤な嘘」「科学的な根拠があり、信じてもよい」という言い方で評価する方法もあるだろう。評価結果の知らせ方は、これまた国や団体で異なる。ただ基本的には、あらかじめ評価項目とその判断基準を決めておき、それぞれの団体がくだした評価結果を自らのウェブサイトに載せるという点は一致している。その評価結果を当該メディアに送るほか、他のメディア媒体(新聞、テレビ、雑誌など)にも送り、さらにそれぞれの団体会員が個々にSNSに投稿するという形をとれば、影響力は大きいはずだ。欧米では、メディアチェック団体と提携した既存のメディアが評価結果を記事として載せるケースもある。既存メディアが協力すれば、確かに一般の人の目に触れる頻度は高くなる。これが理想的なあり方だろう。「評価結果」は他の媒体にも知らせるここで大事なことは、たとえば、週刊朝日の例なら、週刊朝日の記事に関する評価結果を他のメディア媒体にも送るということだ。実は私たちの団体も2018年から、他の媒体(全部で約20社)にも送っていた。おかしな記事を書いていないAという媒体に「B社の記事は、非科学的です。信じてはいけないという評価がくだりました。SNSにも投稿されています」という評価結果が届けば、他社の出来事とはいえ、おそらく、変な記事を書くブレーキになるのではと思う。この「おかしな記事の評価を他社にも知らせる」というアクションは、実は、ずっと以前に一般社団法人「日本アルミニウム協会」がやっていたことだ。「アルミニウムの摂取がアルツハイマー病の原因になる」といった記事が約20年前にはやっていた。私もそうした記事を書いた記憶がある。いまでは信じられない話だが、台所でアルミ鍋を使っていた主婦たちが恐怖のあまりアルミ鍋を捨てるという行為まで見られた。日本アルミニウム協会は、科学的な根拠の低い記事を見つけるたびに、どの部分が非科学的かの理由を明記して訂正要求リリース文を作り、当該の媒体のほか、他の新聞社にも送っていた。私の記憶では、この活動は10年近く続いた。その地道な活動の要因だけではないだろうが、アルミニウムがアルツハイマー病に関係するという記事は少しずつ減っていったように思う。どのメディアもNHKを除き、客商売なので、世間の評判を気にする。世間の評判が落ちたら、購読数(視聴者数)の減少に直結する。この商の論理は傍若無人ぶりの週刊誌も免れない。いま世界で流行しているフェイクニュースのチェックは、どちらかといえば、大手メディアが流すニュースの真偽よりも、政府要人など有名人の発言が真実かどうかをチェックすることに重きを置いている。個人的な意見では、日本では主要なメディアの流すおかしなニュースに翻弄されているケースのほうがより深刻だと思っている。ぜひ、それぞれの組織の有志たちでメディアチェック団体をつくり、おかしなニュースを見つけたら、その評価結果をあらゆる媒体に知らせていく活動を始めてほしいと思っている。5~10人いれば、できるはずだ。どんなことも、初めの一歩がなければ、成し遂げられない。私たちの団体もまもなく評価活動を始動させる。
- 25 Apr 2019
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メディアへの訂正要求は多角度から試してみよう
おかしな記事やニュースを見たとき、だれに、どうやって訂正を求めればよいのか。また、どんな方法で抗議をしたらよいのか。日本のメディア(新聞やテレビなど)には残念ながら、欧米のメディアと異なり、反論を載せてくれるコーナーや番組が存在しない。では、どうすればよいか。狙ったメディア内で、できるだけ多くの人(記者も含め)に周知してもらう作戦がよい。その具体的なやり方を紹介しよう。七つのルート新聞社やテレビ局などに訂正を求める場合、限られたルートしかないようなイメージがあるが、実は案外と多い。思いつくだけでも、以下の七つの方法がある。記事を書いた記者本人に抗議し、訂正を求める。記者の直属の上司(多くは部長か課長クラスのデスク)に訂正を求める。広報を担当する社長室に訂正を求める。社長あてに抗議文を出して訂正を求める。読者センターにメールか手紙で間違いを指摘し、回答を求める。新聞社内で紙面を審査する担当窓口にメールか手紙を出す。新聞社に設置されている外部の第三者委員会にメールか手紙を出す。意外に多いと思った人が多いのではなかろうか。ひと口に抗議や訂正といっても、実は、記事の間違いの程度いかんで対応は異なる。ちょっと表現(言葉)がおかしいとか、記者への説明と記事の内容が少々食い違うといった軽いミス(許容できる間違い)の場合には、記者本人に伝えて、「今回は目をつぶるけれど、次回はちゃんとこちらの言い分を書いてくださいね」とか「もう一度、記事を書いてくださいよ。ただ、今度は正しく書いてくださいね」とか言って、恩を売っておくのもよいだろう。私の経験から言って、記者は「もう一度、記事を書くから、今回は大目に見てほしい。次回の記事では正しく書くから」という受け入れ策を好む傾向がある。訂正記事を出すよりも、そのほうが記者個人の汚点にならないからだ。正直な話、私も記者生活40年間の中で、何度かこの手を使ったことがある。しかし、今回の話は、そういう恩を売っておくという程度で済むような間違いではないケースだ。間違いは全社的な話題にもっていく具体的な例を挙げたほうが分かりやすいので、前回で取り上げた毎日新聞の一面トップ記事の「もんじゅ設計廃炉想定せず ナトリウム搬出困難」(2017年11月29日付)を例に説明したい。前回は事実関係に絞って訂正を求めたほうがよいと書いたが、今回は、だれに、どのような方法で訂正を求めるのがよいかという問題だ。この記事をめぐっては、日本原子力研究開発機構の担当者は、記事を書いた記者の部署の直属上司(部長クラス)と面談して、訂正を申し入れたようだが、結局は、「取材源の秘密」を理由に「記事に間違いはない」と言われ、訂正やおわびを勝ち取ることはできなかった。一般的に言って、外部から訂正要求がくるということは、その記事は間違いだという可能性は高い。どんな人でも、記事が間違ってもいないのに、訂正を求めるようなことはしないからだ。そういう意味で、外部から「この記事は間違いです」と指摘されたメディア担当者(このケースでは部長クラスの上司)は、まずはなんとか自社組織の中で大きな火種にならいよう、ことを丸く収めようと内心で思うはずだ。訂正を求めるときは、その担当者の意識の弱さを突くことを考えたい。つまり、訂正を求める場合は、その間違いを全社的な問題(話題)にもっていくのがよい。一部署との交渉だけでは、その部署だけで問題が終わってしまう可能性があるからだ。外部からの通報で間違い記事に気づいた部長クラスの上司がまず気にするのは「社内にいる他の部長クラスのみんなが知ったら、まずいなあ。立場が弱くなるなあ」という自身への風当たりだ。つまり、その間違い記事が全社的な話題になってしまうことを恐れるのだ。間違いの指摘は社長室か読者センターへということは、訂正を求める場合は、第一段階として、記事を担当した記者や部署ではなく、広報担当の社長室か読者センターに通報するのがベストである。間違い記事に関する回答書を求められた読者センターは、すぐに関係する部署のほか、社長室にも連絡をする。そして、「これこれの間違いが外部から指摘され、訂正を求められている。訂正するかどうかの判断はそちらに任せるが、とりあえずは関係部署の上司と記者の釈明書を書いて、こちらに送ってほしい」と回答書の提出を指示するだろう。こうなると、間違い記事は一部署から一挙に広範囲に知れ渡る。おそらく部長クラスが集まる部長会議の議題にもなるだろう。私の経験からいって、間違い記事を指摘された部署は当然ながら、訂正の掲載に抵抗するだろうが、他の部署は意外に冷静な目で判断する傾向がある。間違ったときは潔く訂正を出したほうが読者の信頼を獲得でき、社会的な信頼度も上がると考える新聞人が最近は増えてきているので、その間違い記事とは関係のない部署の記者たち(部長クラスの記者たち)からは、意外にも訂正を出すことに賛成する意見が出てきやすい。開かれた新聞委員会も活用したいもうひとつの方法は、新聞社内に設けられた第三者委員会にメールか手紙で間違いを指摘し、そこで議論してもらうことだ。第三者委員会はどの新聞社にもあるわけではないが、毎日新聞社の場合は、著名なジャーナリストの池上彰さんら複数の外部識者で構成された「開かれた新聞委員会」がある。紙面に寄せられた抗議や訂正要求などを議論し、その審議内容を紙面に定期的に載せている。その中で「これこれの訂正要求が来ているが、これは訂正に値する間違いだ」といった内容の論評記事が出たりする。これはいわゆる訂正記事ではないものの、識者の意見として「あの記事は裏とりが不十分だった」との記事が載るため、事実上、訂正記事に近いものになる。この論評付きの意見は、簡単な訂正掲載よりも、記者が間違った背景も分かり、読者には親切である。残念なのは、こういう外部の意見を審議する第三者委員会をもっている新聞社がまだ半分にも満たないことだ。その意味で毎日新聞の開かれた新聞委員会は専門家からも高い評価を得ていて、おそらく新聞社の中ではもっとも先進的な例ではないかと思う。そういう意味では、この「もんじゅ設計廃炉想定せず」の記事は、第三者委員会に通報してもよかったケースだと言える。ちなみに第三者委員会の会議には部長クラスの上司はみな出席する。これまで述べてきたように、訂正要求にもいろいろな方法があることが分かるだろう。ただどんな場合でも、少なくとも相手の組織図を知っておくことは最低必要条件である。そしてもうひとつ、確実に実行したいことは、自社のホームページに「○○社の記事は○○の部分が間違いです。この記事は誤報です」といったメッセージを必ず載せることを忘れてはいけない。訂正を求めるという面倒な行為をしなくても、ただホームページに載せるだけでも、だれかがそれに気づいて、その間違い記事を拡散してくれる効果も狙えるからだ。何もしないのが最悪の行為である。次回は、間違いを指摘しても、メディアから無視された場合の対処法を考えてみたい。
- 28 Feb 2019
- COLUMN
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メディアの間違いにどう対処すればよいか ― 記事の弱点を突き、照準をしぼることが肝要
新聞やテレビをはじめメディアの“誤報”にたびたび苦杯をなめてきた体験をお持ちの方は多いはずだ。しかし、誤報と分かっても、たいていは文句も言えず、泣き寝入りで終わるケースがほとんどだろうと察する。では、どうすればよいか。果敢に訂正を求めるアクションを起こすしかない。ただアクションを起こすからには賢い方法を身に着けておくことが必要だ。どんな方法か?賢い方法のヒントは、日産自動車のカルロス・ゴーン前会長が逮捕された事件にある。東京地検は金融商品取引法違反(有価証券報告書の虚偽記載)の疑いで逮捕し、立件を進めている。犯罪を立件するなら、背任や横領のほうがニュース価値は高いが、なぜ、有価証券報告書の虚偽記載という微罪で逮捕したのか。虚偽記載なら、虚偽の記載という厳然たる事実があれば、立件しやすいからだ。まずは相手の確実なエラー、弱点を突き、追い込んでいく。これがメディア対応の基本である。もんじゅ「欠陥」の記事具体的な例をあげよう。2017年11月29日、毎日新聞の一面トップに「もんじゅ設計廃炉想定せず ナトリウム搬出困難」(東京版)との見出しの記事が大きく載った。大阪版の一面は「ナトリウム回収想定せず もんじゅ設計に『欠陥』 廃炉念頭なく」との見出しだった。東京版に比べ、「欠陥」という文字が大きく見出しにとられた。これを受けて、翌30日には福井新聞にも「一次取り出し困難」と題する記事が掲載された。これに対し、日本原子力研究開発機構は11月29日、ホームページに記事解説を載せた。毎日新聞の記事の概要を記したあと、その記事に関する事実関係について、「概ね事実」「一部事実誤認」「誤報」「その他」の4分類のうち、「誤報」に〇印をつけた。そのうえで「・・原子炉容器内のナトリウムの抜き取りについては、原子炉容器の底部まで差し込んであるメンテナンス冷却系の入口配管を活用するなどにより抜き取ることが技術的に可能と考えている・・」などの解説を記し、記事の主要部分が間違いであることを強調した(ちなみに、この記事解説はいまもネットで読める)。さらに、「事実関係を十分に取材せずに掲載されたものであることから、当機構としては甚だ遺憾であります。今後、このようなことが起こらないように強く抗議するとともに善処を求めてまいります」との見解を公表した。その後、同機構側は、記事を載せた関係部署の担当責任者と直接会って、訂正を求めたが、「記事は間違っていない」と言われ、結局、求めた訂正は実現されなかった。明らかな間違いに照準訂正を求めるときの最大の要諦は、記事の中で「明らかな間違い」を見つけることだ。その間違いに照準を定め、「ここは明らかに間違っています。間違った情報を信じた読者に対して、再び、正確な情報を流すのが報道機関の使命と考えます。読者のためにも、訂正をお願いします」と強く主張することだ。もんじゅの一面トップの記事の前文を読むと、「・・液体ナトリウムの抜き取りを想定していない設計になっていると日本原子力研究機構が明らかにした。・・・・廃炉計画には具体的な抜き取り方法を記載できない見通しだ」となっている。私が記事を読んでまず気づくのは、欠陥ともいえる設計になっていることを「同機構が明らかにした」という記述になっている点だ。つまり、「抜き取りが想定されていないことが毎日新聞の調査で分かった」という言い方ではなく、「同機構が明らかにした」という言い方になっている。同機構が公的にそんなことを言うわけはなく、また、そんな見解を述べた文書があるわけでもなく、これは明らかに間違いだと言える。さらに記事を改めてよく読むと、《同機構幹部は取材に対し、「設計当時は廃炉のことは念頭になかった」と、液体ナトリウム抜き取りを想定していないことを認めた》となっている。「ナトリウム抜き取りを想定していないことを認めた」という文章は、記者の地の文であり、幹部が抜き取りを想定していなかったと証言したという文章ではない。つまり、抜き取り想定せずは幹部の言葉ではなく、記者の拡大解釈だ。仮に幹部の一人がそのようなニュアンスを記者にもらしたとしても、それは一意見であり、「機構自体が明らかにした」という断言調の言い方は明らかに間違いだと言える。幹部がだれだったかは「取材源の秘密」で明かせないと言われたそうだが、それは関係ない。機構自体が明らかにしたという事実が全くないことを強く主張すれば、訂正は勝ち取れるはずだ。もうひとつ勝ち取れる点があった。「抜き取り方法を記載できない見通しだ」という表現である。そもそも記載する必要がないから記載していないだけで、記載することは十分に可能なのは明らかなことから、これは「間違いです」と突っ込める。記事には、他にもおかしな点は出てくるが、まずは訂正を勝ち取ることができる部分に絞ることが肝要である。これはゴーン氏の逮捕容疑と同じである。記事に抗議するとか、善処を求めるといった主張は必要ない。あくまで的をしぼって訂正を勝ち取ることを目標にしたい。記者は補助に軌道修正実は、毎日新聞はあのあと、記事の内容を軌道修正している。たとえば、2017年12月7日、もんじゅの廃炉に関する続報を載せた記事を見ると、その見出しは「もんじゅ廃炉課題山積 核燃料回収 複雑な手順」だった。この記事は、「同機構が12月6日、廃炉計画を原子力規制委員会に申請した」という記事の中で改めて解説を加えたもので、11月29日の記事では、「数百トンは抜き取れない構造」と書いていたのに、12月7日の記事では同機構の見解として「技術的には十分可能」との内容を載せた。もし技術的に十分可能なのであれば、そもそもあの一面トップの記事は特ダネとして成立しなかったことになる。最初の記事と8日後の記事には大きな矛盾が生じているが、ほとんどの読者はそんなことには気づかなったに違いない。さらに言えば、2017年12月6日の毎日新聞の朝刊では、同機構が福井県と敦賀市に廃炉計画の概要を示したとの記事が掲載されたが、その記事には欠陥を思わせる記述は全く出てこない。11月29日の記事を書いた記者とは別の記者が書いているからだ。記者たちはやや勢い余って「書き過ぎたかな」と思うと、前に書いた記事のトーンを少しずつ修正していく習性がある。私の見方では、これもその一例である。いったい何が事実なのか。混乱するのは読者だけだろう。メディアという媒体はどこも訂正を出すことを極度に嫌う。記者も嫌う。私も過去に平均して2~3年に一度は訂正記事を出してきたが、訂正のあとはいつも憂鬱な気分になったものだ。しかし、読者にとっては、訂正の掲載は正確な情報の担保条件であり、信頼の証でもある。あとで振り返れば、訂正を出してよかったと思ったのも事実である。訂正を求めるときはこう言おう。「訂正は読者のために必要です。報道機関として、読者に間違った情報を届けたままでよいのでしょうか」。次回のコラムは、メディア対応の次の手を紹介したい。
- 06 Dec 2018
- COLUMN