2026.03.16
なぜ大阪高校は、前例のない研究プログラム「Nプロジェクト」を受け入れたのか。放射線や原子力という、教育現場では扱いに慎重さが求められるテーマを高校生の探究活動の軸に据える判断は、外から見れば大胆にも映る。だが、当時校長として決断を下した岩本信久氏は、その判断についてはっきりとこう語る。
「賭けではなかった」。
その言葉の背景には、教育現場で長く向き合ってきた違和感と、大学側と共有した明確な問題意識があった。
「いい・ダメ」を大人が決めてよいのか
岩本氏が校長として抱えていたのは、個別の教育手法ではなく、日本の教育全体に対する根源的な問いだった。「これは良い」「これは危ない」「高校生には早い」「触れさせるべきではない」と、大人が先回りして線を引き、子どもに渡す材料を選別してしまってよいのか。それは本当に、子どもたちの成長につながっているのか。
特に放射線や原子力といったテーマは、その象徴だった。教科書やニュースで言葉としては知っていても、どこか遠い世界の話として処理され、「自分には関係ない」「誰か専門家が考えることだ」と無意識のうちに切り離されてしまう。岩本氏は、そうした状態こそが問題だと感じていた。危険か安全か、賛成か反対かを教え込む前に、本来は「考えるための材料」を渡すべきではないのか。
「専門家を育てたいわけではない。結論を与えたいわけでもない。自分で調べ、考え、判断するための材料を、きちんと子どもに渡したい」。中村氏からNプロジェクトの構想を聞いたとき、その考え方は岩本氏が抱いてきた違和感と重なった。だからこそ、放射線や原子力という扱いの難しいテーマであっても、「だからやらない」のではなく、「だからこそ、学校が引き受ける意味がある」と受け止めたという。
信頼関係から始まった受け入れ
Nプロジェクトは研究者である中村氏が構想した取り組みだが、その立ち上げは、ある一度の相談から始まっている。
2022年、中村氏が「こういう教育的な試みを高校でやってみたい」とアイデアを携えて川端祐司氏のもとを訪ねた。当時すでに研究所長を退任し、京都大学の特任教授という立場にあった川端氏は、「研究所として関与する話ではなく、一研究者として話を聞いた」と振り返る。中村氏にとっては、研究者としての先輩であり、長く議論を重ねてきたメンターのような存在だった。
川端氏は、その構想を聞いた瞬間に、単なる出前授業や単発イベントでは終わらない可能性を感じた一方で、「これは学校側の覚悟がなければ、絶対に成立しない」とも直感したという。高校生自身が主体となり、社会に向けて発信する設計は魅力的だったが、同時に高校教員の負担は決して小さくない。その点についても、川端氏は中村氏に対して率直に指摘し、どこが難しく、何がボトルネックになるのかを一つずつ整理していった。
「腰を据えてやるなら、世界的にもほとんど例のない教育実践になる」。そうした議論を重ねる中で、川端氏は、中村氏が学生時代から長年にわたり信頼関係を築いてきた大阪高校の岩本氏に相談を持ちかけた。「⼀緒にやるなら、学校の中にしっかり⼊る形でやる必要がある」。岩本⽒もまた、その話を受け⽌め、「この⼈たちなら、思いつきで終わらせない」と感じたという。こうして中村氏は、研究者と研究者、研究者と高校教員という複数の関係性を往復しながら、構想は少しずつ具体化していった。
2007年11月の「失敗」が残した記憶
岩本氏がNプロジェクトの受け入れを決断した背景には、もう一つ、個人的な記憶がある。2007年11月に経験した、“空振りに終わった取り組み”だ。
当時、科学教室の全国縦断を進めていた中村氏は、関東地方での成功を受け、生まれ故郷でも同様の企画を実現しようと考えていた。勤務先である(独)放射線医学総合研究所(当時)に加え、母校・大阪大学の研究者ら約20名と連携し、学力の平均層に位置する大阪高校の生徒たちに先端科学を届ける場をつくろうと、恩師でもある理系教員らと準備を進めていた。「意義ある企画として順調に進むはずだった」。
しかし当日、会場前の運動場が遊び場となって生徒たちで埋め尽くされる一方で、600席規模の会場に足を運んだ生徒と教員は、合わせても一桁にとどまった。広い会場に残ったのは、静けさと、拭いきれない悔恨だけだった。
「申し訳なかった」。岩本氏は当時を振り返り、「正直、トラウマのように残っていました」と語る。いま振り返れば、その失敗は理念ではなく「やり方」の問題だった。
現場との対話が足りず、子どもが主体的に動く設計にもなっていなかった。だからこそ、Nプロジェクトの話を聞いたとき、岩本氏は即断しなかった。「同じことを繰り返してはいけない」。受け入れるなら、単発のイベントではなく、学校の中に根を張る取り組みにしなければならない。その意味で、Nプロジェクトは2007年とは決定的に違っていた。
研究者が教えに来るのではなく、高校生が自分の言葉で外に出ていく。学校は場所を貸すだけでなく、責任を持って伴走する。「昔の失敗があったから、今回は行けると思えた」。その判断には理屈だけでなく、人としての義理や感情も含まれていた。
150人と話す――学校に入るための作業
Nプロジェクトが大阪高校に根づいていった背景には、あまり表に出てこない事実がある。中村氏は大阪高校の教員約150人、ほぼ全員と個別に対話を重ねていたのだ。
職員会議で説明して終わりではなく、会議後に声をかけ、放課後に時間をもらい、賛成の教員だけでなく、戸惑いや懐疑を示す教員とも一人ずつ向き合った。「同じ学校でやる以上、話をしないまま進めるわけにはいかなかった」。その対話は、説明や説得にとどまらなかった。背景には、中村氏が2006年から科学教室を全国で展開する中で抱いた疑問があった。教育現場で窓口となるスタッフは、必ず理系教員だった。
なぜだ?
文系生にも科学を届けたいのに、文系教員が関わらない。そこで中村氏は、あえて文系教員に放射線の基礎から学んでもらい、放射線取扱主任者の資格取得にも挑戦してもらった。さらに関連学会に入会し、研究発表や議論の場に実際に触れてもらうことで、「分からないから距離を置く」という状態を一つずつ解消していった。そして文系教員が文系生との懸け橋となる体制をつくり上げていく。
一方、教育現場では、新しい取り組みは理念より先に「業務は増えるのか」「責任は誰が取るのか」「うまくいかなかったらどうなるのか」といった現実的な問いにさらされる。そこで中村氏は、志を示した教員らに寄り添い、自ら教育現場の教えを請いながら、教員と同じ立場で考える姿勢を貫いた。岩本⽒は、その過程を間近で⾒ていた。「150⼈と話すだけでも普通はできない。その上で、⽂系の先⽣まで⼀緒に勉強し、資格や学会に向き合ってもらった。あれをやらなかったら、このプロジェクトは学校に⼊らなかったと思う」。
トップの了承だけでは⾜りない。現場の納得と当事者意識がなければ教育活動は動かない。N プロジェクトが⼤阪⾼校で継続的に展開できたのは、この“⾒えない作業”が積み重ねられていたからだった。
地下街で立ち尽くす――京都大学アカデミックデイ
転機の一つが、2023年9月に行われた京都大学主催の一般公開イベント「アカデミックデイ」だった。会場は烏丸御池に直結する地下街「ゼスト御池」。通勤や買い物で行き交う人々が足早に通り過ぎる、開放的でありながら逃げ場のない空間だ。
高校生たちは研究成果をまとめたスケッチブックを手に、見知らぬ大人に自分から声をかけなければならない。
「こんにちは」「少しだけお時間いいですか」。その一言が、なかなか出ない。大阪高校3年の玉置楓花さんも、最初は立ち尽くしていた一人だった。「正直、めちゃくちゃ怖かったです」。
駅へ急ぐ人、視線を合わせない人、通り過ぎていく背中。だが、ある瞬間に吹っ切れた。「いきなり説明から入るんじゃなくて、クイズから声をかけてみようって思ったんです」。
休憩中の人に「ちょっとクイズしませんか」と話しかける。反応が返り、足が止まり、言葉がつながり始めた。「一回できたら、次はいけるって思えた」。その感覚を掴んだ後、楓花さんは次々と声をかけていった。教員たちはその様子を固唾をのんで見守っていた。「生徒が目に見えて変わっていく」。川端氏が語る「やってみて初めて分かった教育効果」は、まさにこの瞬間に現れていた。
想定外だった教育効果
プロジェクト当初の主眼は、放射線や原子力を題材にした科学リテラシーの向上だった。ところが実際に活動が始まると、教員たちの想定を超える変化が次々と現れた。
知識の理解以上に、生徒が自分の言葉で説明しようとするようになり、分からないことをそのままにせず調べ直し、相手の反応を見ながら話し方を変える姿が見られるようになった。見知らぬ人に声をかける、年下の子どもに教える、仲間の前で自分の考えを述べるといった場面で、戸惑いながらも一歩踏み出す経験を重ねるうちに、自己表現や対話への抵抗感が徐々に薄れていった。成果がすぐに形として表れなくても、試行錯誤を続ける粘り強さが育っていく様子も確認された。
こうした変化を前に、教員の生徒を見る目も変わった。発表が上手いかどうか、知識をどれだけ覚えたかではなく、「昨日より一歩前に出たか」「前回できなかったことに挑戦したか」を見るようになったという。岩本氏は、この視点の転換こそがNプロジェクトの最も大きな教育効果だったと語る。
学校の外、家庭にも届いた変化
その変化は、教室の中だけで起きていたわけではない。保護者へのインタビューからは、家庭での具体的な光景が次々と語られた。
ある保護者は、万博での発表を控えた時期、子どもが自宅でスケッチブックを広げ、説明の順番や言葉の選び方に悩みながら、何度も書き直していた様子を覚えているという。分かりやすく伝えたい一心で、家族に向かって説明を試し、年下のきょうだいに「これ、分かる?」と問いかけながら内容を練り直す姿もあった。
別の保護者は、万博会場で知らない来場者に声をかけ、楽しそうに説明している我が子の姿を見て、「嫌々やらされているのではなく、自分でやると決めて動いている」と感じたと語る。1年生の保護者からも、「人に教えるのが面白かったと言っていた」「家では多くを語らないが、会場では生き生きと話している姿に驚いた」といった証言が寄せられた。
もともと人前に出ることや対話が得意ではなかった子どもが、完璧ではなくても一歩踏み出している。その事実を、家庭という最も近い場所で保護者が実感していた。岩本信久氏は、こうした声を「判断の答え合わせ」だと受け止めている。「半歩しか動けなかった子が、半歩動いた。その変化を、学校だけでなく家庭でも確認できたかどうか。それが、このプロジェクトを学校に入れる際の最大のポイントだった」。
マニュアルでは広がらない
では、この取り組みは他校でも再現できるのか。この問いに対し、川端氏は慎重な姿勢を崩さない。
「マニュアルだけでは動かない」。
教育は人が関わる営みであり、研究者の熱意、学校側の覚悟、現場の教員の試行錯誤が噛み合って初めて意味を持つからだ。仮に手順書を整え、教材を用意し、同じことをなぞったとしても、そこに関わる人の納得や当事者意識が伴わなければ、形だけの活動になりかねない。
一方で、Nプロジェクトが特別な才能や例外的な条件に依存しているわけではないとも指摘する。研究者によるインプット、生徒自身によるアウトプット、他者との対話、世代を超えた学びといった要素は、教育学的には既に知られた手法だ。重要なのは、それらを単独で導入するのではなく、学校の実情や生徒の特性に合わせて組み合わせ、現場で調整し続けることにある。だからこそ、川端氏は「広げるには、マニュアルを配る前に、まず一緒に議論できる人を見つける必要がある」と語る。
Nプロジェクトの本質は、完成形を移植することではなく、考え方とプロセスを共有し、それぞれの現場で作り直していく点にある。
「やってみよう」と言えた理由
大阪高校がNプロジェクトを受け入れたのは、あらかじめ成果が約束されていたからではない。
参加した生徒がどこまで成長するのか、どのような形で変化が表れるのかは、誰にも分からなかった。それでも「やってみよう」と言えたのは、子どもが動き出す可能性そのものを信じることができたからだ。
「これが正解だ、というゴールを最初から示すつもりはなかった」。岩本信久氏はそう前置きした上で、「成果物を出すことや、分かりやすい成功例を作ることが目的ではなかった。子どもたちが戸惑いながらも一歩踏み出し、昨日より少し前に進む。その過程を学校として引き受ける覚悟が持てるかどうかが問われていた」と語る。
2007年の失敗の記憶、150人の教員との対話、文理を超えた学び直し、そして地下街で立ち尽くす生徒の姿。その一つ一つを積み重ねた先にあったのは、「うまくいくかどうか」ではなく、「子どもの変化を信じて伴走できるか」という判断だった。だからこそ、この決断は賭けではなかった。それは、教育に携わる大人が、結果ではなく過程を引き受け、子どもの可能性を信じ切れるかどうか。その問いに対する、大阪高校なりの答えだった。





















