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原文財団「原子力に関する世論調査」の最新版を発表
日本原子力文化財団はこのほど、2024年の10月に実施した「原子力に関する世論調査」の調査結果を発表した。18回目となるこの調査は、原子力に関する世論の動向や情報の受け手の意識を正確に把握することを目的として実施している。なお、同財団のウェブサイトでは、2010年度以降の報告書データを全て公開している。今回の調査で、「原子力発電を増やしていくべきだ」または「東日本大震災以前の原子力発電の状況を維持していくべきだ」と回答した割合は合わせて18.3%となった。一方、「しばらく利用するが、徐々に廃止していくべきだ」との回答が39.8%となり、両者を合わせると原子力の利用に肯定的な意見は過半数(58.1%)を超えた。このことから、現状においては、原子力発電が利用すべき発電方法と認識されていることが確認できる。一方、「わからない」と回答した割合が過去最大の33.1%に達し、10年前から12.5ポイントも増加していることが明らかになった。「わからない」と回答した理由を問うたところ、「どの情報を信じてよいかわからない」が33.5%、「情報が多すぎるので決められない」が27.0%、「情報が足りないので決められない」が25.9%、「考えるのが難しい、面倒くさい、考えたくない」が20.9%となっている。この「わからない」と回答した割合はすべての年代で増加しているが、特に若年世代(24歳以下)の間で増加傾向が高かった。また、同調査は、「原子力やエネルギー、放射線に関する情報源」についても分析を行っている。その結果、若年世代(24歳以下)は、「小・中・高等学校の教員」(27.2%)を主な情報源として挙げており、また、SNSを通じて情報を得る割合が、他の年代と比較して高いことがわかった。原文財団では、若年世代には、学校での情報提供とともに、SNS・インターネット経由で情報を得るための情報体系の整備が重要だと分析している。また、テレビニュースは年代を問わず、日頃の情報源として定着しているが、高齢世代(65歳以上)においても、ここ数年でインターネット関連の回答が増加している。「原子力という言葉を聞いたときに、どのようなイメージを思い浮かべるか」との問いには、「必要」(26.8%)、「役に立つ」(24.8%)との回答が2018年度から安定的に推移している。「今後利用すべきエネルギー」については、2011年以降、再生可能エネルギー(太陽光・風力・水力・地熱)が上位を占めているものの、原子力発電利用の意見は高水準だった2022年の割合を今も維持していることがわかった。再稼働については、「電力の安定供給」「地球温暖化対策」「日本経済への影響」「新規制基準への適合」などの観点から、肯定的な意見が優勢だった。しかし、再稼働推進への国民理解という観点では否定的な意見が多く、再稼働を進めるためには理解促進に向けた取り組みが必要であることが浮き彫りとなった。また、高レベル放射性廃棄物の処分についての認知は全体的に低く、「どの項目も聞いたことがない」と回答した割合が51.9%に上った。4年前と比較しても、多くの項目で認知が低下傾向にあり、原文財団では、国民全体でこの問題を考えていくためにも、同情報をいかに全国へ届けるかが重要だと分析している。
- 28 Mar 2025
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洋上風力発電に逆風 メディアはもっと風力の問題を多角的に検証しよう!
二〇二五年三月三日 風力発電に逆風が吹き始めたというニュースが目立ってきた。米国のトランプ大統領が風力を敵視しているのも逆風になっているようだ。ただ、よくよく考えてみれば当たり前の風が吹いているに過ぎない。大手メディアはもっと風力の限界を定量的にしっかりと検証してほしい。NHKのニュースウオッチ9 「洋上風力発電に逆風」と題して報じられたNHKの「ニュースウオッチ9」(二〇二五年二月十八日放送)を見た人は、日本各地の沖合で計画されている洋上風力発電事業がコスト高で暗礁に乗り上げているとの印象をもったのではないか。私も見ていて、そう思った。 同ニュースによると、卸電力大手の電源開発(J-POWER)が福岡県沖で工事を進める洋上風力発電事業において、風車の羽根に使う強化プラスチックやコンクリートなどの資材費が三年前に比べて約四〇%も上がり、黒字が確保できるのか先行きに不安が広がっているという。同社幹部の「お金の使い方として本当にいいのかと悩み、逡巡している」との悲観的なコメントまで流れた。 NHKは翌十九日にも水野倫之解説委員の「洋上風力に逆風 再エネの切り札に何が?」と題した解説記事をオンラインで公開した。その内容の一部はこうだ。 「洋上風力の先行きが見通せなくなってきている。 三菱商事と、中部電力の子会社などでつくる企業グループは、秋田と千葉県沖の三つの一般海域で、四年前に国の選定を受け洋上風力発電事業を進めており、大規模事業の先駆けとして注目されてきた。しかし今月、三菱商事が五百二十二億円、中部電力が百七十九億円の損失を計上し、『事業をゼロから見直す』と発表。トランプ大統領が風力に批判的なこともあり、すでに米国では事業見直しが相次いでいる」(一部要約)大手新聞も「逆風」を報道 NHKだけではない。読売新聞(二月六日付千葉版)は銚子市沖で進む洋上風力発電事業に関して「着工めど立たず 資材高騰で事業再評価へ」と報じた。翌七日付では全国版でも秋田県と千葉県銚子市沖の三海域で進む洋上風力事業について「洋上風力五百二十二億円減損 三菱商事 資材高騰 事業見直し」と報じた。さらに二月二十日付では全国版経済面で「洋上風力物価高が逆風 政府 撤退防止へ対策導入」との見出しで「政府は二〇四〇年度に再エネの割合を四~五割に引き上げる目標を示したが、政府目標に暗雲が漂い始めている」と長文の記事を載せた。 朝日新聞(二月六日夜オンライン)も三菱商事が洋上風力発電で「五百二十二億円の減損」と報じた。日本経済新聞(二月十九日)も「先行事業者の三菱商事が巨額の損失計上に追い込まれるなど逆風も吹き始めた」と報じた。 また、毎日新聞(二月十八日付)はトランプ大統領の「風車は鳥を殺し、美しい風景を台無しにする。大きく醜い風車はあなたの近所を破壊する」など過激な発言を紹介し、風力を敵視している状況を伝えた。記事自体はトランプ大統領を批判する内容だが、米国でも風力発電は資材費の高騰や金利の上昇などで計画の中止や見直しが相次いでいるとの内容も報じた。風力はバックアップ電源が必要 これらのニュースで分かるように、これまで洋上風力発電は再生可能エネルギーの切り札としてたたえられてきたが、もはやその名称にふさわしくない状況がうかがえる。 しかし、考えてみれば当たり前である。風力はそもそも風まかせの発電である。一年中、常に風が吹いているわけではない。雨や雪、夜に稼働しない太陽光発電よりはややましとはいえ、経済産業省によると、風力の平均的な設備利用率は陸上風力で約二〇%、洋上風力でも約三〇%しかない。 これは、風車が動いていないときは、火力発電や原子力発電などのバックアップ電源が必要になるという意味で根本的な弱点である。風力発電事業に関わる商社マンの知人の話では、「風力を導入する場合は、バックアップ電源として液化天然ガス(LNG)の火力発電所をセットで導入する必要がある。このことが一般市民にほとんど知られていない。それを言っちゃうと風力の魅力がなくなっちゃうからね」と話していた。 つまり、風力発電への投資はマクロ経済的に見れば、二重投資なのだ。バックアップ電源や電気を送るための送電網費用などを含めると、風力発電のコストはさらに高くなる。 大手メディアのニュースを読んでいて、何か物足りなさを感じるのは、風力発電に伴うバックアップ電源の必要性に関する検証内容が、ほとんど出てこないからだ。洋上風力のメリット これまでメディアでは洋上風力発電のメリットとして、①発電時にCO2を排出しない②発電コストが安い③化石燃料に依存せず、自国のエネルギー安全保障につながる④地域の雇用確保と地域経済の振興に寄与する⑤陸上風車よりも設置しやすく、騒音や景観問題が少ない⑥沖合では強い風が持続的に吹く──などが言われてきたが、どれも大きなメリットとは言い難いことが露呈してきたのではないか。 経産省によると、欧米での洋上風力発電(着床式)の発電コストはkWhあたり約九円といわれるが、その欧米でさえ、資材の高騰などで発電事業への入札が成立せず、事業の撤退や縮小が相次いでいる。 秋田県沖の二海域と千葉県銚子市沖での洋上風力発電事業で三菱商事が落札した価格はkWhあたり約十二円~十六円だった。この額は政府の想定を大幅に下回る額だった(読売新聞二月七日付)。コストを極力抑えようとした企業努力は評価したいが、事業の見直しが進めば、結局、電気料金の跳ね上がりとなって庶民の財布を直撃することになるのではと危惧する。自前の技術をもたない悲しさ いくら風力発電を増やしても、自国のエネルギー安全保障の強化につながるかが見通せないことも気がかりである。 かつては日本にも風力発電機メーカーが存在したが、いまでは二MW(二千kW)以上の大型風力発電機メーカーは存在しない(二〇二四年七月八日朝日新聞SDGs ACTION!)。つまり、日本が大型の風力発電機を導入したとしても、欧米のメーカーに頼らざるを得ないのが現状である。自前の技術者がいなければ、普段の維持運用だけでなく、何か故障が起きたときにも自前では復旧できないことを物語る。これではとてもエネルギーの安全保障が確保できるとは思えない。大手メディアは洋上風力の検証記事を 国が経済的な採算を度外視してまで洋上風力を推し進めるのは「脱炭素」という不可侵の目的があるからに他ならない。合理的な経済計算で判断すれば、コストの高い洋上風力よりも、いまは原子力の再稼働を一日も早く進めることが一番理にかなっているといえるが、大手メディアはそこまで踏み込めない。 洋上風力の舞台となっている秋田県能代市のホームページを見ていたら、次のような解説があった。 「洋上風力発電は一基二万点もの部品が必要で、事業規模も大きいため、関連産業への経済波及効果は大きいものがあります。風車設置後も設備メンテナンスや風車部品の供給など、地域活性化につながる産業となります。」 その通りになってくれればうれしいが、願望のように思える。大手メディアは、こうした洋上風力のメリットが本当に実現するかも含め、多角的な検証作業をしてほしい。
- 03 Mar 2025
- COLUMN
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アツイタマシイ Vol.9 クリスティン&ザイツ
ディアブロキャニオンの延長を勝ち取る運転期間延長を勝ち取りましたね。20年でしたか?クリスティンありがとうございます。ディアブロキャニオン原子力発電所を所有するパシフィック・ガス&エレクトリック(PG&E)社が、運転期間の20年延長を申請し、米原子力規制委員会(NRC)が受理しましたので、いずれライセンスが更新されることは間違いありません。ですが発電所の運転期間に関してはカリフォルニア州にも決定権があるのです。今のところ州政府は、5年の延長が妥当だと考えているようです。私たちMothers for Nuclear(MfN)は、その期間をもっと延長するよう、州政府に働きかけているところです。運転期間延長が決まり、MfNはより幅広い活動を展開するようになったのですか?ハザーそれは違います。2016年にMfNを始めたとき、カリフォルニア州における原子力発電所は非常に厳しい状況に置かれていました。ディアブロキャニオンの閉鎖は既にPG&Eによって決定されていたので、MfNは他の州や国で、原子力を支持する活動を行っていたのです。ですがここ数年間で、カリフォルニア州の状況は大きく変わりました。州政府は、停電を回避するには原子力が必要であることを認識したようです。そのためMfNも、ディアブロキャニオンを護る活動に力を入れ、原子力の重要性についてのコミュニケーションを展開しています。他の地域でも引き続き活動を続けているので、活動の幅が広がったように見えるのでしょうね(笑)カリフォルニアの現在のエネルギー構成は?クリスティンカリフォルニア州には多くの再生可能エネルギーがありますが、既存の原子力発電所を閉鎖するとエネルギー不足に陥ります。原子力はカリフォルニアのエネルギーミックスの欠かせない一部なのです。カリフォルニアの世論はどうですか?クリスティン2016年に始めたとき、全米で原子力の支持率は低下していました。しかし、最近では、電力供給の現実を直視するようになり、原子力が必要だという意識が高まってきています。2024年には、カリフォルニア州民の大多数が原子力を必要だと考えているという驚くべき数字が出ました。カリフォルニアの人々はシュワルツェネッガーのように、太陽光や風力が好きだと思っていました(笑)クリスティンはい。私たちは再生可能エネルギーを愛していますが、再生可能エネルギーと原子力は両立できるものだとも思っています。再生可能エネルギーだけでは限界があるので、原子力も重要な役割を果たすべきです。ハザーカリフォルニア州はすでにかなり多くの再エネ電源を持っていますが、そろそろ限界に近づきつつあります。再生可能エネルギーは特定の時間帯にしか電力を生産できないため、貯蔵設備を作らなければならず、そのためのコストもかかります。そのため、カリフォルニア州の電力は米国で最も高いレベルとなっています。この現実が、私たちの議論を原子力という選択肢にシフトさせる要因となっているのです。また、私たちの電力供給の半分は天然ガス火力であり、30%は他州から輸入しています。つまり、まだ多くの課題が残っており、あらゆる選択肢が必要だと実感しています。クリスティン実は、日本と似た状況なのだと思います。カリフォルニアもエネルギーを輸入しています。日本はもっと多くを輸入しているかもしれませんが。一方でカリフォルニアは隣の州から電力を送ることができるという利点がありますが、日本は島国なのでそのような選択肢がありませんね。そのため、カリフォルニアは日本よりも少し長い間、現実から目を背けていられるような形です。日本はその地理的制約から、早く現実と向き合わなければならないと思いますよ。カリフォルニアの反原子力運動は少数派MfNを始めた理由は?クリスティン私たちがMfNを始めた理由の一つは、カリフォルニアにも原子力に反対する活動家グループがあり、メディアの注目を集めていたからです。彼らは非常に声が大きく、コミュニティ全体が原子力に反対しているという印象を与えますが、実際には少数派なのです。だからこそ、MfNとして活動し、その“ナラティブ”に対抗することが重要だと思いました。反原子力の活動家は決して人々の声を代表していません。しかし、残念ながらメディアはそのように取り上げています。ハザーもう一つ、MfNを始めた理由は、会社(PG&E)が言わないことや言えないことを言いたかったからです。幸いにも、会社は私たちがそれを行うことを許してくれました。私たちが会社を代表していないこと、会社とは別の組織であることを明確にする限り、非常にうまくいっています。ソーシャルメディアが企業にとってリスクがあることを、私たちは認識しています。企業は将来的な経営を見据えて、常に保守的なメッセージを発信しますが、私たちがそれを損なうようなことをしたくありません。ですから、会社が懸念を持った場合は、常に私たちに連絡するように伝えています。私たちからも、私たちが何をしているのか、なぜそれをしているのかを伝え、常に透明性を持って会社と話し合っています。MfNのメインでのコミュニケーション活動は、対面での対話集会でしょうか?ソーシャルメディアを使った活動も多いようですが。クリスティン対面でもSNSでも、あらゆる機会をとらえて活動しています。最近は原子力産業界を対象に、どのようにコミュニケーションをしていくべきかをお話ししています。より多くの人が原子力の価値を共有し、それを地域社会に持ち込むことで、さらに加速的に広がるのです。原子力業界のイベントでお話することもありますが、原子力を支持しないグループや政治団体、学校などでもお話します。もちろん、SNSやウェブサイトも活用しています。ハザーSNSは、対面のイベントでは届かない広い範囲にリーチすることができます。クリスティン対面イベントは素晴らしい機会なのですが、どうしても限定的になります。十分な人々に届きません。ですから、もっといろいろな方法でコミュニケーションを図る必要があります。STEM分野に女性を対面でのコミュニケーションは限定的とはいえ、効果が絶大で強力なツールなのではないでしょうか?昨春JAIFは米国からグレース・スタンケさんを招聘し、日本の中学生や大学生たちとディスカッションする場を設けました。ハザー素晴らしい。若い人同士のディスカッションは盛り上がったのではないですか?特に女学生たちが大いに影響を受けていたようです。日本では、STEM分野(科学、技術、工学、数学の4分野)の女性が少ないことが問題になっているのですが、その理由の一つに、ご家族がSTEM分野へ進むことに反対しているということがあるのです。クリスティン興味深いですね。ご家族はSTEM分野全体に反対しているのですか?それとも原子力に反対しているのですか?私も驚いたのですが、ご家族は娘さんがSTEM分野に進むこと自体に反対しているそうです。もちろん、原子力なんてもってのほかかもしれません。クリスティンSTEMという分野では、時には危険なこともありますからね。スタンケさんのようなSTEM分野で活躍する女性たちは、後に続く女性たちにとって大変良いモデルケースになります。特に日本の女学生にとっては、大きな励みになると思います。クリスティンそうですね。私たちも、もっと多くの女性たちがSTEM分野に進み、特に原子力業界に関わってくれることを強く望んでいます。女性が増えることでチーム全体が強くなり、より良い仕事ができると思うのです。ハザー私は原子力発電所のオペレーターとして、男性たちとチームを組んで仕事をしていますが、自分の貢献は少しばかり特別で、ユニークだと感じています(笑)コミュニケーションの方法が違いますし、気に掛ける点も違います。こうした「違い」がチームを強くし、どんなに異常事態にも対応できるようになるのです。そのためにも女性の力が必要です。もっと多くの女学生にSTEM分野に関心を持ってもらいたいですね。原子力コミュニティが大きく成長COPにも参加されたそうですね。クリスティンはい。ドバイのCOP29に参加しました。11歳の娘と一緒に。とても特別な経験でした。エネルギッシュな会議でしたね。原子力に対する世界的な支持を見るのは本当に励みになりました。またドバイでは、「エコ・ニュークリア」というスペインのNPO団体と知り合いました。スペインで原子力発電プラントを閉鎖の危機から救うために非常に努力しているグループです。彼らはMfNがカリフォルニアで経験したのと同じような課題に直面しています。ですから、私たちはそのことに多くの共感を感じました。MfNは最初、二人の個人から始まりました。原子力の価値を強く信じて活動を開始したのです。自分たちの国が間違った方向に進んでいると感じ、それを正すために声を上げました。ハザー私たちはこうした原子力の支援活動を、世界中にもっと拡大していこうと考えています。世間の人々はこうした活動に従事するメンバーの真摯な姿勢を見て、共感し、信頼するものです。自分たちだけでできることは限られていますが、同様の活動を行っている他のNPOグループをサポートし、互いに協力して使命を達成することを目指しています。クリスティン2016年に活動を開始したとき、私たちはとても孤独を感じていました。原子力を支持するグループは、ほとんど存在しませんでした。私たちは多くのネガティブな反応を受けました。原子力産業界からお金をもらっていると言われたり、悪意があると非難されたりしました。しかし現在では、原子力を支持するコミュニティがソーシャルメディア等を通して成長し、同じような活動をするグループも出てきました。MfNとしては他のグループをサポートし、より効果的な活動ができるよう連携しています。ハザー今では、米国内のみならず世界中に原子力を支持するグループが増えてきています。私たちはその活動をサポートしています。クリスティンハザーと私がMfNを始めた2016年には、原子力を支持する声はほとんどなく、企業からのメッセージだけがありました。少なくとも米国では、企業のメッセージには警戒感を持つ人が多かったので、私たちはそれとは異なるアプローチを取ることが必要だと感じました。ハザー多くの人が企業や政府に対して懐疑的ですから、異なるコミュニティグループからの声が重要です。ですから、さまざまなコミュニティグループが、さまざまな理由から原子力を支持するような、社会全体に広がるような支援の輪を作っていきたいと思っています。クリスティンもし企業がすべてをコントロールしようとすると、それが逆に広がりを妨げることがあります。私たちは、企業が何を言っているのかに加えて、私たち自身がどんな活動をしているのか、そして私たちが何を伝えたいのかをしっかりと示すことが大切だと思います。私たちは個人的に原子力を支持するようになったからこそ、この活動を始めました。原子力が私たちの生活をどれだけ向上させるかを学んだとき、私は母親として、これが私の子供たちの未来のために必要なことだと感じたのです。次世代層は原子力にオープン他の環境系のグループと対面で議論する機会があると思いますが、原子力についての誤解を解くこともあるのでしょうか?クリスティン環境グループのリーダー層とは理解し合うことは難しいですが、メンバーや地域のオーガナイザーとは話しやすいです。学校を訪問すると非常に励みになります。特に高校や大学では、若い人たちは気候変動について多くのことを聞いていますが、実際の解決策についてはあまり学んでいません。原子力について聞くと、ほとんどの学生が興奮するんです。私は彼らに原子力についての正確な情報を提供し、あとは自分で判断してもらいます。若い人たちは心が開かれており、非常に励みになります。ハザー若い人たちは気候変動についてただ論じるだけでなく、自分たちが行動することで、何かを達成することができると信じています。自分たちの未来に希望を持ちたいのです。若い学生たちと会う機会がたくさんあるでしょうが、彼らは原子力をエネルギーの選択肢としてどう見ているのでしょうか?クリスティン現在のカリフォルニア州におけるエネルギー教育には多くの課題があります。現在のカリフォルニアの教育カリキュラムでは再生可能エネルギーに重点が置かれていますが、私たちはその教育をもっと正確にし、エネルギーの現実と課題を伝えていく必要があると感じています。しかし、実際に学校で1コマ(45分間)話すだけで、多くの学生たちは原子力の必要性を理解してくれます。ハザー若い学生たちは、原子力について学ぶと、非常に支持的な姿勢を見せてくれます。しかし問題に思うのは、彼らがそもそも原子力という選択肢があることをこれまで学んでこなかったことです。私たちは、他のグループと協力して、教科書に原子力についてもっと公平に載せるよう求める運動に取り組んでいます。米国やカナダでSMR(小型モジュール炉)がブームになり、多くの若者に人気があるようですが。一方で大型軽水炉への関心はどうでしょうか?クリスティン確かにSMR開発は進展しています。しかし、実際に商業化されて運転される段階には至っていません。ゴールまでかなり近づいている企業もあるようですが、私たちの大きな課題は、より多くの電力が必要だという現実に直面していることです。ジョージア州のA.W.ボーグル原子力発電所4号機が、2024年4月に営業運転を開始しました。これは出力が125万kWの大型炉「AP-1000」です。私たちはもっと多くの電力が必要なのです。ハザーもちろん、小型炉から大型炉までさまざまなタイプの原子力発電プラントが効率良く建設され、地理的な条件に応じてさまざまな用途に導入されるようになれば、気候変動への対応にも有効だと思います。クリスティン大型の軽水炉は本当にワクワクするテクノロジーなんですよ。私とハザーは20年以上ディアブロキャニオン発電所で働いていますが、毎日そのテクノロジーの数々に新鮮な驚きを覚えています(笑)ハザー大きくて迫力のあるクールな機器に囲まれることを想像してみてください。大型炉も最高ですよ(笑)
- 23 Jan 2025
- FEATURE
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「大手既存メディアへの不信」これが今年の言論空間のキーワードか
二〇二五年一月十四日 二〇二五年を特徴づけるキーワードは何だろうか。最近の米国大統領選や兵庫県知事選を見ていて、「大手既存メディアへの不信」がキーワードのひとつのように思えてきた。特にリベラルメディアへの不信感とその影響力の低下が確実に起きているような気がする。原子力の話題も交えて、その背景を論じてみたい。大手既存メディアへの不信が根底に みなさんもすでにご存じのように昨年十一月の兵庫県知事選で前知事の斎藤元彦氏が再選された。斎藤氏は議会の不信任決議を受けて失職したあと知事選に臨んだ。当時、どのテレビ番組や新聞を見ても、斎藤氏を批判するニュースばかりだった。そのような言論空間で斎藤氏が勝つ見込みはなく、落選の可能性が強かった。ところが、ふたをあけてみたら、斎藤氏が快勝した。 その背景の分析については、いろいろな媒体で取り上げられているが、私なりにひと言で言えば、大手既存メディアへの「不信感」が間違いなく根底にあった。知事選前、既存メディアはどのニュースでも、斎藤氏の「パワハラやおねだり疑惑」を表面的におもしろおかしく報じ、内部告発のどこが本質的な問題かを報じたニュースは少なかった。そういう言論空間を見る限り、選挙前の斎藤氏のイメージは限りなく「悪」=(知事にふさわしくない人物)に近かった。大手メディアが報じない情報をSNSが補完 ところが、大手メディアが報じない裏の世界では斎藤氏側のSNS戦略が功を奏し、さらに斎藤氏の当選を目指すという奇抜でウルトラC的な出馬をした立花孝志党首(NHKから国民を守る党)の動きもあって、既存メディアよりもSNSの情報のほうが県民の心をとらえていた。 では、なぜSNSのほうが県民の心をつかんだのか。私流の解釈では、SNSのほうが玉石混交とはいえ、ニュースの中身が豊富(選べる材料が多い)だったからだ。 大手既存メディアは知っていても書かない(または書けない)ことが多々ある。プライバシーもあって、タテマエしか報道できないためだ。自死したとされる県民局長の公用パソコンに残っていた私的な情報に関しても、具体的にはほとんど報じない。しかし、アウトサイダー的な週刊誌やSNSなら、そういうタテマエ(世間体的思慮)に気を遣うことなく、ニュースを発信できる。 兵庫知事選のそのあたりの事情は「斎藤氏への世論『批判から熱狂』に変わった本質」(東洋経済オンライン・安積明子ジャーナリストの記事(二〇二四年十一月の上・下)を読むとよく分かる。この東洋経済の記事も、大手メディアだとまず書けない。大手メディアの影響力は低下したのか? ここで私が強調したいのは、もはや既存の大手新聞とテレビ局が流す情報(ニュース)は諸現象のごく一面でしかないことを皆が知ってしまったということだ。NHK党の立花氏が「斎藤氏は悪くないですよ」と具体的な例を挙げて自信ありげに演説するのを聞いた多くの人は「えー、そうなのか。大手新聞やテレビは本当のことを報じないのか」と立花氏の新鮮な内容を信じたに違いない。 そう信じてしまうのは、その根底に大手既存メディアへの不信感があるからだ。斎藤氏が当選した昨年十一月十七日、フジテレビ系「Mr.サンデー」(日曜午後十時)のキャスターを務める宮根誠司氏は選挙戦の結果に対して、真顔で「大手メディアの敗北」だと語った。おそらく宮根氏の心の中には「これだけ我々テレビ側の人間が来る日も来る日も斎藤氏を批判的に報じてきたのに、その威力は通じなかったのか。もはやテレビの影響力は想像以上に小さいのかもしれない」といった苦い思いがあったのだろうと推測する。 私もちょうどその宮根氏の言葉をテレビで聞いていて、確かにその通りだとうなづいたのを覚えている。 もはや大手メディア(新聞とテレビ)がどんなニュースを流そうが、SNS(インフルエンサーのブログ的ニュースも含む)で情報を見たり、確認している人たちにとっては、大きな影響力を持たなくなったということを実感した瞬間だった。 兵庫県知事選の検証記事を載せた毎日新聞(十一月二十四日付)でインタビューを受けた西田亮介・日本大学教授は「斎藤氏や知事選について、有権者がネットで検索しても、有権者が知りたいことはマスメディアの記事には出てこない。その代わりに斎藤氏の陣営や支援者らが発信する『切り抜き動画』など大量の情報が目に触れた」と述べている。知事選という特殊なケースだった要因もあるだろうが、大手メディアが発信する情報はもはや読み手の期待に応えていないことが分かる。大手メディアの情報発信は一方通行 そもそも大手既存メディアが流すニュースは、読者の期待とは関係なく、一方通行である。どんなニュースが流れてくるかは、ニュースが出てくるまで分からない。しかも読み手が知りたいと思ったニュースが流れてくる確率は非常に低い。さらに、期待したニュースが流れてきたとしても、そのニュースは記者やその媒体のフィルターを通じたゆがんだ情報であり、多様性に欠けることは否めない。 さらに言えば、大手既存メディアへ「こんなニュースを書いてほしい」とアクセスする手段は限られている。いやほとんどアクセスする手段はないといってもよい。テレビ番組を見ていて、「これはおかしい」と思っても、黙認するしかなく、それを伝える手段はない。仮に取材を受けても、期待した内容のニュースが作られるとは限らない。つまり、既存メディアは国民の手の届かないところにある。そういう疎外感がある中でSNSの世界なら、自ら発信もできるし、ニュースへのコメントもできる。SNSの世界には記者よりも知識の豊富な専門家がたくさんいる。そういう専門家とつながれば、大手メディアよりもSNSのほうがはるかに頼りがいがあり、親近感が感じられるはずだ。トランプ大統領の誕生と酷似するメディア空間 みなさんも薄々感じておられるだろうが、兵庫知事選の構図は、ちょうど同じ時期に誕生した米国のトランプ大統領の誕生と似ている。むろん斎藤知事とトランプ大統領は思想も政治的背景も異なるが、私から見て酷似していると思われるのはメディア空間である。 よく知られているように米国のメディアの大半(ワシントンポスト、ニューヨークタイムズ、テレビのCNNなど)はジョー・バイデン氏の率いる民主党を支持し、共和党に対しては批判的な記事を普段から発信している。共和党の支持者にとっては、米国のメディアはリベラル派に寄り過ぎており、フェイクニュースばかりを流していると映る。つまり、米国の言論界を牛耳っている民主党寄りのリベラルメディアへの反感である。 トランプ大統領はリベラルメディアのニュースを常に「フェイク」だと口にしていた。これは、トランプ大統領の支持者から見ると、「リベラルメディアは真実を報道していない」と映る。NHK国際部の辻浩平記者がホワイトハウスを取材(二〇二〇年~二三年)した第一級レポートといえる「トランプ再熱狂の正体」(新潮社)を読むと、リベラルメディアへの不信がトランプ支持者たちの心をとらえたことは間違いない。 いったん強固なトランプ支持者になると、いくらリベラルメディアが共和党やトランプ大統領を批判しても、そのニュースはフェイクだと認識され、びくともしない構図ができあがる。トランプ支持者の心境は「どうせアメリカの主要メディアはオレたち(私たち)の声を聞いてくれない」だろう。その結果、トランプ支持者たちは、大手メディアを信用せず、共和党サイドの交流サイト(SNS)やユーチューブで情報を入手するようになる。原発推進の国民民主党はなぜ躍進したのか 日本でも米国でも、大手既存メディアへの不信感は以前からあったのだろうが、最近になってその傾向がより露わになった気がする。 日本新聞協会によると、二〇二三年の一世帯当たりの新聞の発行部数は〇・四九部だ。もはや半分の世帯が新聞を購読していない。私のような新聞愛好者にとっては悲しいことではあるが、今後も大手新聞の影響力はますます低下するだろう。確かに新聞を読んでいれば、世の中の政治や経済に関する全般的な動きは良く分かる。しかし、新聞を読まない人にとっては、SNSだけが情報源であり、私とは全く異なる世界を見ていることになる。 しかし、そのことはマイナスばかりではない。昨年秋の衆議院議員選挙で国民民主党は七議席から二十八議席へと大躍進した。これは大手メディアが国民民主党を紙面で応援したからではない。国民民主党の玉木雄一郎代表は昨年十一月二十七日、石破茂首相を訪ね、原子力発電所の新増設を要望した。これまで「原発の推進」を口にすれば、マイナスイメージが響いて選挙では不利だとされてきた。それでも国民民主党は議席を増やした。大手メディアがつくり出す言論空間とは異なる、もうひとつの言論空間がいよいよ生まれつつある。
- 14 Jan 2025
- COLUMN
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令和七(2025)年は元旦の社説読み比べから
昨年は新聞への不信や衰退論が盛んに聞かれた。それでも元論説委員の筆者としては新聞力を信じたい。そこで今年の初仕事は、朝日、毎日、読売、日経、産経5紙の元旦社説の読み比べ。なお元旦社説は通常の2本ではなく、全紙1本である。まずは見出しから。『不確実さ増す時代に 政治を凝視し 強い社会築く』▼『戦後80年 混迷する世界と日本 「人道第一」の秩序構築を』▼『平和と民主主義を立て直す時 協調の理念掲げ日本が先頭に』▼『変革に挑み次世代に希望つなごう』▼『未来と過去を守る日本に』となる。社名を全部正解出来たら、お年玉モノだ(正解は朝毎読日産の順)。中身に入ろう。朝日は不確実さの主因を米大統領に返り咲くD.トランプ氏に求め、昨年のノーベル経済学賞受賞者、D.アセモグル氏と19世紀の米詩人W.ホイットマンを援用し、時代を読み解く。両者は市民の力を強調する点で共通する。《放置すれば「国家」は市民を圧しにかかる。「社会」の側が国家を監視し、足枷をはめる必要がある》(アセモグル氏)も《堅実な民衆ならもっと強く政治に介入せよ》(ホイットマン)も、新聞の使命を「権力の監視」としてきた朝日らしい。不確実な時代こそ、有権者はしっかり声を上げ強靭な社会を築けと説く。とは言え国家と社会の線引きはそう単純ではない。国家は悪とばかりに、何ら期待しない点も気になる。アセモグル氏については「社会制度が国家の繁栄に与える影響の研究」との授賞理由に言及した方が親切だったろう。毎日は世界の現状分析から始め、ウクライナ、トランプ、国連、ガザなどを暗澹たる状況と見る。新たな国際秩序の青写真にも悲観的だ。それゆえ《戦後80年間、平和国家として不戦を貫いてきた日本は秩序作りで役割を果たすべきだ》とし、「自国第一」から「人道第一」の世界へ軌道修正する外交努力を日本に求め、《日本は『人間の安全保障』を行動指針にすべきだ》(長有紀枝・立教大学教授)との見解を紹介している。日本の役割を明示することは社説の重要な要素だ。後段の市民活動家たちの紹介も悪くはないが、『人間の安全保障』をもっと掘り下げるとか、外交努力を具体的に論じた方が社説により相応しいと感じた。読売は世界が歴史の変動期のただ中にあるとし、3つの危機――「平和の危機」「民主主義の危機」「自由の危機」が同時進行していると警告した。そして《新しい秩序作りに向けて、日本こそがその先頭に立たねばならない》と主張。ここまでは毎日と同じ。続く《危機の中に希望の芽を探し出そう》から違いが出てくる。「自分なら停戦させられる」と豪語するトランプ氏を活用しようと提案し、そのためには世界が侵略も殺戮も許されないと声を一つにする必要があるとする。世界の声を圧力にトランプ氏を有効利用するわけだ。ナルシストと言われるトランプ氏のこと。それもアリかもしれない。成功は保証の限りではないが、トランプ対策が世界だけでなく各国にとっても喫緊の課題であるのは確かだ。日経も冒頭は《不確実性という霧につつまれた2025年が始まった》と朝日と似ているが、《すくんでいるだけでは未来は開けない。危機は変革の生みの親だ。より良い秩序作りに挑み、次世代に希望をつなぐ道筋を付けたい》と、終始プラグマティックなところに同紙の特徴が出ている。また民主主義と選挙に関する文脈で、《新聞などのメディアが正確で信頼される情報をいかに発信するか。わたしたちも変革を肝に銘じる必要がある》と自省した。メディアへの言及が日経だけなのは残念だが、皆無でなくて良かった。産経はへそ曲がりの読者なら見出しを見て「現在はどうなのだ」なんて言いそうだが、《戦後80年である。大東亜戦争(太平洋戦争)について中国や朝鮮半島、左派からの史実を踏まえない誹謗は増すだろう。気概を以って反論しなければ国民精神は縮こまり、日本の歴史や当時懸命に生きた日本人の名誉は守れない》の一文に見るように、現在つまり今年は、過去と未来を守る年との位置づけだろう。自衛隊制服組トップ、統合幕僚長の「国際社会の分断と対立は深まり、情勢は悪化の一途をたどり、自由で開かれた国際秩序は維持できるか否かのまさに瀬戸際にある」(年末記者会見)など有事への危機感溢れる言辞を引用しながら、政治と国民に情勢への備えはあるかと問いかける。情勢認識には異論もあるだろう。当然だ。社説は熟議への土台でもあるのである。ところで産経は「年のはじめに」と題して唯一論説委員長の署名入りだ。無記名より書き手への注目度もプレッシャーも上る。実は筆者も経験者で、テーマは、題材は、と毎回試行錯誤し、読者の反応にドキドキ、ハラハラしたものだ。SNS隆盛の今は、署名の有無を問わず、反応は昔と大違いだろう。分断や対立を煽らず、真っ当で活力ある議論にチャレンジする新聞人にエールを送りたい。
- 07 Jan 2025
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敦賀2号機の不許可理由 「可能性を否定できない」は科学的な判断か?
二〇二四年十二月二十五日 原子力関連で令和六年(二〇二四年)最大のニュースと言えば、福井県の敦賀2号機の再稼働の不許可だろう。「不許可」自体もビッグニュースだが、それを決めた原子力規制委員会の「活断層の可能性は否定できない」という主観的な判断理由も、歴史に残るだろう。ただ何か釈然としない気持ちがわいてくるのはなぜだろうか。 原子力規制委員会(山中伸介委員長・委員五人)は十一月十三日、定例の会合で日本原子力発電株式会社が所有する敦賀原子力発電所(福井県敦賀市)の2号機(PWR・百十六万kW)の再稼働申請を不許可(不合格)とすることを全会一致で決めた。二〇一二年に原子力規制委員会が発足して以来、初めての審査不合格だ。2号機は一九八七年に運転を開始したが、二〇一一年にトラブルで停止したあと、二〇一五年十一月、新規制基準への適合性審査を同規制委に申請していた。不許可の理由は「活断層の可能性を否定できず」 私は原子力問題の専門家ではない。この問題を大手新聞や雑誌がどう報じたかに関心がある。どんな理由で不許可になったかを知るために当時の新聞を読んでみた。 審査の主な焦点となったのは、2号機から北へ約三〇〇mのところにある「K断層」が将来、地震を起こす活断層かどうか、そしてその活断層が原子炉直下まで延びている(連動もしくは連続している)かどうかの二点だ。 まずは各紙を見てみよう。朝日新聞(十一月十四日付)は「活断層否定できず」の見出しで「規制委は活断層の可能性は否定できないと判断した」と報じ、さらに「原電の説明が十分な根拠をもって受け入れられなかった」という理由を挙げた。毎日新聞(十一月十四日付)は「原子炉直下に活断層があることを否定できず新規制基準に適合しない」と報じた。東京新聞(十一月十四日付)も「原子炉直下に活断層がある可能性を否定できない」とした。さらに読売新聞(十一月十四日付)は「規制委の審査チームは『活断層の活動性、連続性とも否定できない』と判断した」と報じ、産経新聞(十一月十四日付)も「原子炉直下に活断層が走る可能性を否定できない」と報じた。 つまり、どの新聞も「活断層の可能性を否定できない」という理由を挙げて報じたことが分かる。処理水に反対した地方紙はおおむね不許可を称賛 この不許可の決定に対し、予想通り、反原発路線の朝日、毎日、東京は「否定できない以上、不許可は当然である」と断じた。念のため、地方紙の社説をネットで見つけて読んでみた。おもしろいことに気づいた。どういうことかといえば、福島第一原発の処理水の海洋放出に反対する社説を載せていた地方紙(神戸新聞、中国新聞、北海道新聞、信濃毎日新聞、西日本新聞、京都新聞など)は、今回も「不許可」に対して、「再稼働を認めないのは当然だ」「妥当な判断だ」と称賛していることだ。 要するに、原発に否定的な新聞社は「可能性を否定できない」という、私から言わせれば、極めて科学から程遠い判断理由に対して疑問を呈していないことだ。科学的なデータを突き詰めて解析した結果、不許可はやむを得ないといった論調なら科学的な匂いを感じ取ることができるが、そういう論調ではない。「悪魔の証明」は危うい論理 地方紙の社説を読むといとも簡単に「可能性を否定できないなら、廃炉は当然だ」と主張している。世の中に「可能性を否定できる」現象などない。どんなテクノロジーでも「良くない出来事が決して起きないことを証明せよ」と言われたら、それを事前に証明することは不可能である。これはよく「悪魔の証明」と言われる。 そういう危うい論理にもかかわらず、いとも簡単に「不許可は当然だ」と堂々と主張しているところを見ると、最初から結論は決まっているように思える。なにしろ、ほぼ環境や人体へのリスクがゼロに近い処理水の放出にも反対したくらいだから、「どうみても活断層が動く可能性を否定することは無理だよね」という判断に傾くのは自然の流れである。そもそも原発自体に否定的なのだから、どんな証拠を突きつけられても、活断層の恐れがあるから再稼働は認めないという判断に行く着くのは理の当然である。産経新聞だけは果敢に反対の論陣を張る 大手各紙を見ていて、つくづく感じたのは主要な新聞を読んでいても、細かい科学的な議論が分からないということだ。ただ、産経新聞だけは「悪魔の証明は禁じ手だ」(七月十七日付)、「規制委の偏向審査 強引な幕引きは許されぬ」(八月七日付)、「効率性と対等性の新風を」(九月二十六日付)と一貫して審査の偏向ぶりを指摘していた。 真骨頂は、長辻象平・産経新聞論説委員の書いた「『悪魔の証明』を求める原子力規制委 敦賀2号機の受難」と題した八ページにわたる論稿(月刊「正論」二十四年十月号)だ。長辻氏は「K断層は両側からの圧縮力で生じる逆断層だが、ぐにゃぐにゃで左右に湾曲し、しかも、とぎれとぎれでふらついて息も絶え絶えという代物だ」と形容して、「2号機に脅威を及ぼす断層の姿からはほど遠い」と指摘する。 そして、各紙が「原電による審査資料の無断書き換えと誤記」((筆者注 「無断書き換え」という表現は、原電が意図的にデータを改ざんした、と読める。))と報じた点に関しても、長辻氏は「規制委の審査官が『ここが変わったとかではなく、きちんとした形で更新して最新の形で審査資料として提出するよう』指示したのを受けて更新したところ、『説明なしの書き換え』ととがめられた」と書いている。誤記に関しても「肉眼で観察したものを、新たに顕微鏡で詳細に確認した結果を修正したものだ。そこに悪意はなかったとされて、審査は再開されたが、規制委はその間に原電本店への立ち入り検査を行った。印象操作と批判されても仕方あるまい」と書いている。 ついでに言うと、天野健作氏(大和大学社会学部教授・元産経新聞)が書いた「敦賀原発『不合格』にみる公正審査の疑わしさ」と題した論稿(十一月十四日「国際環境経済研究所」のウェブサイトに掲載)も非常に参考になる。 長辻氏や天野氏の論考を読むと、ことの真相の一端を知ることになるが、これに対する反論も当然あるだろう。私としては、真実に少しでも迫る論争記事を読みたいのだが、残念なことにそういう論争的な記事を大手新聞は載せてくれない。 やはり現状では真相(深層も含め)を知るには、主要各紙を丹念に読み比べることしかなさそうだ。「予防原則の乱用」が怖い 最後にひと言。今回の不許可報道で私が危惧の念を抱くのは「予防原則の乱用」が広がる恐れだ。「良くないことが起きる可能性が否定できない」という論理がまかり通れば、どんなテクノロジーも為政者の思うままに規制できてしまう。現に敦賀2号機の再稼働に対しても、「疑わしきは安全な側に判断すべきだ」(朝日新聞七月二十七日付)という主張が見られる。この主張は、少しでも疑わしき点があれば、あるテクノロジーや化学物質の使用、化学工場の運転などを止めるということを意味する。 一般に「予防原則」は、科学的な因果関係が十分証明されていなくても、規制措置を可能にする考え方を指す。この論理は「可能性を否定できないときは、安全側に立つ」という論理とほぼ同じである。こういう論理がまかり通ると石炭や天然ガス火力は廃止になり、原発の稼働も中止になるだろう。すでに約三十年間、世界で流通している遺伝子組み換え作物にしても、「将来何か良くないことが起きる可能性を否定することは難しい」という判断を為政者がくだせば、いとも簡単に流通や栽培を禁止することも可能になってしまう。これを機に「可能性を否定できない」という論理の適用を限定させる科学的な議論が必要だろう。 もう一言。原発を動かすかどうかは、日本全体の未来を左右する極めて社会経済的な問題である。原子力規制委員会(五人の委員)に経済学やエネルギー、社会心理学など社会工学的な専門家がいないのはどうにも腑に落ちない。国民の代表である政治の側からの参戦をもっと期待したい。
- 25 Dec 2024
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リニア中央新幹線と原子力 同じ巨大プロジェクトでも何が違うのか?
二〇二四年十一月十八日 東京と名古屋を四十分で結ぶリニア中央新幹線に関するニュースが最近になって増えてきた。ちょうど十月半ば、山梨のリニア実験線の体験試乗会に参加した。時速五〇〇kmを実感しながら、同じ巨大プロジェクトの原子力との「差」を考えてみた。時速五〇〇kmを実感 私が体験乗車したのは十月十六日。JR東海がメディア関係者を招いて行った。現在、山梨県笛吹市から上野原市までの約43kmの路線が完成している。この実験線は東京~名古屋間の路線の一部であり、完成したあとはそのまま利用される。 ワクワク気分でさっそく乗ってみた。リニアは超電導磁石を用いた浮上走行だ。最初のうちはレールの上を走るが、まもなく浮上走行に替わる。加速して浮上するときは飛行機に乗って離陸するときのような感覚だ。ほとんどがトンネル内を走るため、窓を見ても、宇宙空間を走っているような感じだ。時速五〇〇kmに達したとき(写真1)は、さすがに記者たちも歓声を上げ、時速五〇〇kmの文字を示す速度計の前に立ち、記念写真をパチパチ撮っていた(写真2)。私もミーハー気分で記念撮影に収まった。写真1 思ったよりも揺れは少ない。飛行機に乗っているときのような轟音というか雑音はするが、飛行機ほどではない。座席のテーブルにコーヒーカップを置いても、コーヒーの液体がこぼれ落ちることはないという。これなら、仮に東京から名古屋までリニアに乗り、40分間で着くとしたら、新聞や本を読んだり、コーヒーを飲んでいるうちに到着し、疲れることはないだろうと感じた。写真2 今の予想では、完成は早くても10年後と言われているだけに、未来の科学技術空間をいち早く体験できたのはとても貴重だった。リニア自体を否定するニュースはなし リニアに体験試乗したせいか、リニアに関するニュースが以前よりも目に止まるようになった。私にとって興味があるのは原子力に関するニュースとの相違である。 十一月八日のNHKニュースでは、リニア中央新幹線の地下のトンネル工事が行われている東京都町田市の住宅で水と気泡が湧き出て、JR東海が掘削機による工事を中断しているというニュースが流れた。同様のニュースは十一月十一日朝、フジテレビの「めざまし8」でも流れた。同番組はこの問題を意外に詳しく報じ、気泡剤と水がボーリング跡から漏れ出したのではという指摘もしていた。 ついでに最近の新聞記事もネット検索で読んでみたが、原子力との大きな違いに気づいた。私が見た限り、どのニュースを読んでも、リニア自体を否定する内容がないことだ。原子力発電所の場合は反対派のコメントが記事中に載り、原発反対の大きな見出しも踊るが、リニアにはそれが見られない。もちろん住民による反対運動はあるし、リニア工事の認可取り消しを求める訴訟も起きているが、原子力のような反対の嵐はない。 巨大工事にともなって地下水が枯れたり、住民や工場の立ち退き問題が起きるというニュースはローカル的に流れているが、それらの問題が連鎖反応を起こし、「リニアを止めろ!」という一大合唱にはなっていないようだ。朝日新聞、毎日新聞とも否定的ニュアンスなし 朝日新聞は十月五日付け経済面で「リニア開業遅れ 突きつけられた『延命』」との見出しで記事を載せたが、否定的な論調ではない。「リニアには圧倒的な速度による輸送力と並んで、東海道新幹線の『バイパス』の役目を期待する声がある。しかし、その全線開業の時期がいまだ見通せない」とある。記事の最後は「完成から61年目に突入した新幹線は、さらなる完成への途上にあるのかもしれない」と結んだ。どう見てもリニア自体に否定的なニュアンスは読み取れない。 毎日新聞も十月三日付け記事で「進む移転 迫られる決断」との見出しで、長野県飯田市で明治時代から染色業を営む職人の工場がリニア工事で移転を迫られる苦境を伝えていたが、リニア自体を止めろ、という文言や住民の声は出てこない。 リニア工事に伴う問題点とメリットを詳しく報じたフジテレビの「めざまし8」が、これらのニュースを象徴するかのように思えた。女性のコメンテーターは「人口が減っているのに必要なの?」とコメントしたのに対し、コメンテーターの橋下徹弁護士は「リニアについては賛否両論あるが、リニアは国家戦略上必要だ。高速道路など過去の工事でも問題点を乗り越えて私たちは利益を得てきた。何か問題があるからやめろ、では将来の世代に利益を与えることができない。問題があるからといって工事自体を止めるべきではない」(筆者で要約)と述べた。原子力発電所の問題だと、こういう歯切れのよいコメントは期待できない。移動時間は短いほうが疲れは少ない 私が気になるのは採算だ。JR東海によると工事費は全額自己負担で東京~名古屋間で七兆円以上かかるという。今後の工事の進展いかんでは社会的な補償費用がかさみ、コストが増えていく恐れがある。なんとか10年後には開業にこぎつけてほしいものだ。 最後にひと言。よく「そんなに速く移動する必要があるのか。いまのままで十分だ」という批判を聞く。こういう物言いは、戦後の高度経済成長の真っただ中で「これ以上、経済成長は必要なのか」という議論があったが、これと似ている。いくら「ゆっくりズム」がいいからといって、いまどきあえて東京~名古屋間を移動するのに「こだま」号か在来線の列車に乗る人はいない。だれしも早く目的地に着きたいのだ。日頃「ゆっくりがいい」と言っている人も、間違いなく「こだま」ではなく、「のぞみ」に乗っているはずだ。 また、アメリカへ行くのにあえて船を利用する人はいないだろう。脱炭素を訴えている人でも、みなごく普通に飛行機に乗って世界を駆けまわっている。 移動を目的とした列車や飛行機の旅は、けっこう疲れる。移動時間は短いほうが疲れは少なく済む。口先だけの観念論(理想論)にはくれぐれも要注意だ。リニアの魅力は分かりやすい。原子力のメリットとしては、電力の安定供給(エネルギーの安全保障)をもっと見える化する形で伝えていくことが必要だと、リニア試乗体験から感じた。
- 18 Nov 2024
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処理水放出から一年 新聞は「歴史の記録者」としての任に堪えられるか
二〇二四年九月二十日 新聞の役割とは何だろうか。世の中で起きている数々の現象を伝えることが主な役割であることは間違いない。だが、もうひとつ重要な使命として、歴史的な記録資料を残すことが挙げられる。三十年前の日本がどんな状況だったかを知ろうとすると、やはり新聞が筆頭に上がるだろう。では、福島第一原発の処理水放出から一年経ったいまを記録する資料として、新聞はその任に堪えているだろうか。 処理水の放出から一年が経った八月下旬、どの新聞社も特集を組んだ。中国が日本産水産物の輸入を禁止したことによって、その後、日本の水産物がどうなったかは誰もが知りたい情報だろう。そして福島の漁業がどうなったかも知りたいはずだ。そういう観点から、新聞を読んでみた。福島の漁業に活気は戻っていない? 毎日新聞の社会面(八月二十三日付)を読んだ。主見出しは「福島の海 活気返して」で、副見出しは「操業制限 漁師、東電へ不信なお」。地元の漁師を登場させ、「放出への不安や東電への不信感を拭えずにいる。いまも操業制限が続いており、かつてのような活気は戻っていない」と処理水の放出から一年経っても、活気は戻っていないと極めて悲観的なストーリーを載せた。 その一方で、福島の水産物の価格は高い水準を維持し、放出前より高値を付けることもあり、風評被害は出なかったと書く。ならば福島の水産物の明るい部分もあるはずだが、そのレポートはない。逆に、国と東電は「関係者の理解なしに、いかなる処分も行わない」と約束したのに、海へ放出し、いまも県漁連は反対の姿勢を崩していないと書き、国や東電への不信感を強く印象づける記事を載せた。 さらに三面では、東京電力は二三年十月から風評被害を受けた漁業者や水産加工業者などに賠償手続きを開始したが、約五五〇件の請求のうち、支払いが決まったのは約一八〇件(約三二〇億円)しかなく、賠償が滞っている様子を強く訴えた。しかも、大半は門前払いで泣き寝入りだという大学教授のコメントも載せた。同じ三面の別の記事では水処理をめぐるトラブルを取り上げ、見出しで「後絶たぬトラブル 東電に疑念」と形容するなど東電への批判を繰り返した。 かなり偏った内容(歴史的記録)に思えるが、同じ毎日新聞でも千葉支局の記者がルポした千葉版の記事(八月二十七日付)は違った。こちらは見出しが「福島原発でヒラメ飼育 1号機『普通の服装』で見学 処理水の安全、魚でテスト」と、敷地内の様子を極めて素直な目線でレポートしていた。これを読む限り、処理水の放出と廃炉作業は少しずつではあるが、前進している印象を与える。 ただ、毎日新聞からは水産物のその後の全体像はつかめず、一紙だけでは歴史的記録としては不十分なのが分かる。東京新聞はネガティブな印象を強調 毎日新聞の記事は全体として悲観的なトーンだが、東京新聞はさらにネガティブだ。一面で「七回で五・五万トン 収まらぬ漁業被害」「今も反対、政府は責任を」「首相近く退陣 漁師不安」と不安を強調し、二面では「汚泥 待ち受ける難題 タンク解体」「過酷作業 被ばくの不安」と、今度はタンクの「解体」や汚染水の処理過程で発生する「汚泥」の保管・処分をどうするかという難題が立ちはだかると厳しい内容を載せた。記事からは課題は分かるものの、前進している材料は全く見えない。これも歴史的記録の一面しか伝えていないように思える。読売・産経はホタテの脱中国に着目 毎日新聞と東京新聞を読む限り、暗い気持ちになるが、読売新聞(八月二十五日付)を読むと、一面で「処理水放出一年異常なし」、社会面では「処理水放出 不屈の漁業」「国内消費拡大・輸出『脱中国』へ」との見出しで明るい面を強調した。社会面の記事では「風評被害の拡大も懸念されたが、好調な国内消費や支援の声に支えられ、漁業関係者らは踏みとどまってきた」と書き、希望を持たせる印象を与えた。 社会面記事は、北海道湧別町のホタテ漁の写真を載せ、「今の湧別町には活気がある。官民挙げて取り組んだ消費拡大キャンペーンの結果、国内消費が好調であるためだ」と書いた。ホタテはふるさと納税の返礼品としても人気があり、別海町は二三年度の寄付額が百三十九億三百万円と前年度の二倍になったという内容も載せ、脱中国に向けて欧米への輸出にも取り組む様子を力強く伝えた。 三面では「政府、水産業支援を継続」という文言を見出しにし、「タンク解体、来年にも開始」とほぼ計画通りに進む様子を伝えた。 読売新聞の記事を読むと、毎日新聞や東京新聞とは全く逆の印象を受ける。毎日新聞に登場する漁業関係者は東電への批判を口にするが、読売新聞では漁業関係者が以前の日常に向けて頑張っている様子が伝わってくる。 産経新聞(八月二十五日付)は三面で「ホタテ輸出 脱中国進む、上期ゼロ、米向けなど急増」との見出しでホタテの輸出が増えている様子を伝えた。ホタテに着目した点は、読売新聞と同じであり、内容も読売新聞と似ている。朝日は意外に穏当か では、朝日新聞はホタテの状況をどう報じたのだろうか。八月二十四日付の社会面を見ると、「ホタテ『王様』復活なるか 国内消費上向き 中国への輸出見通せず」との見出しで「(中国への輸出の)主役だったホタテは行き場を失い危機的な状況に一時陥ったが、国内消費は上向きで回復に向かっている」と明るい要素もあることを報じた。国は基金や予備費を使い、約一千億円を投入、北海道の森町などは水産加工業者からホタテを買い取り、全国の学校給食に無償提供したと書き、自治体の奮闘ぶりを紹介した。また、ホタテの輸出量は減ったものの、米国、ベトナム、タイの三か国が中国の禁輸で行き場を失った分の約五割をカバーしたとも書いた。「楽観はできない」と書きつつも、朝日の記事は読売のトーンに近く、意外に穏当な内容だ。歴史的な記録は全紙が揃って初めて成立? これまでの記事を読み、みなさんは新聞の歴史的な記録を残す価値をどう思われただろうか。同じ現象を報じた歴史的な記録と言いながら、中身は新聞によってかなり異なることが分かるだろう。どの新聞も現象の一断面を切り取って記録していることがよく分かる。 つまり、一紙や二紙では歴史の記録者としての任は果たせない。裏返せば、新聞社の数(記者の数)が多いほど、歴史の多面的な現象を後世に伝えることが可能になる。そういう意味では、いま新聞の販売部数(記者の数も)が減少の一途をたどり、新聞社がつぶれそうな状況になっているのは、多様な歴史的な記録物を残す観点からみると極めて由々しき事態だといえる。 では、新聞社を残す方法はあるのだろうか。提案したいのは、読売新聞の読者はたまには産経新聞を読む、そして朝日新聞の読者はたまには毎日新聞や東京新聞を読むといった「交互購読」で大手五紙を共存させる方法だ。新聞社が減れば、いまの歴史の真実を後世に残す手立てが消えることに通じる。処理水から一年経った各紙の記事を読み比べてみて、そのことに気づいた。前回のコラムの最後に「重大なことに気づいた」と書いたのは、このことである。
- 20 Sep 2024
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「宇宙開発フォーラム」宇宙と原子力の関わりを議論
9月6日より3日間、学生団体「宇宙開発フォーラム実行委員会」(SDF)が主催する「宇宙開発フォーラム2024」が日本科学未来館(東京都江東区)で開催された。7日に開催されたパネルセッションでは、石井敬之氏(原子力産業新聞・編集長)ら4名のパネリストが登壇し、「宇宙開発と市民理解(宇宙における原子力利用を例に)」について議論を交わした。同フォーラムは、宇宙開発の現状や今後の展望について、業界内外に広く発信することを目的としており、今年で22回目の開催。原子力利用をテーマとして取り上げるのは今回が初めての試みだったという。議論に先立ち、セッションの企画者であり、モデレーターを務めるSDFの山口雪乃氏(国際基督教大学2年)が、企画の趣旨を説明。「原子力」や「核エネルギー」という言葉に抱くネガティブな印象から、宇宙での原子力利用にも反射的に拒否感を示す人々がいる現状を紹介し、新しい技術への市民理解を促すためにはどのような伝え方ができるか、と問題提起した。宇宙原子力の開発は、1977年に宇宙探査機ボイジャー1号に原子力電池が搭載されるなど、米国で先行して取り組まれてきた。日本でもようやく、今年4月に発表された文部科学省による宇宙戦略基金事業に原子力電池の要素技術の開発が組み込まれたが、高木直行氏(東京都市大学理工学部・教授)は、同事業で「原子力電池」が「半永久電源システム」と称されていることを指摘。国の事業においても、「原子力」という言葉の使用が避けられている現状を強調した。石井氏は「現代の宇宙エンジニアたちと同じく、かつての原子力エンジニアたちも未来に夢を描いていた」とした上で、今後の宇宙開発においても、社会から理解を得られなくなる事態になることが十分予想できると指摘。放射線照射によって誕生した「あきたこまちR」への風評被害や、食品添加物に対する誤解を例に挙げ、科学面でのリテラシー不足こそが、新しい科学技術への市民理解を得る上で最大の課題だと懸念を示した。また同氏は、ゼロリスクの追求が社会を歪めているとの見解を示し、「安全ならば安心する、という正しい感覚を持つべきであり、『安全だけど安心じゃない』が通用する社会を許してはいけない」と、強く訴えた。「未知、または未来の技術への市民理解を促進する上で必要なことは何か」との問いに石井氏は、業界の垣根を越えて「科学リテラシー全体の底上げ」に取り組むことであると主張。ニーメラーの警句を引用し、「『世間が宇宙業界を叩いた時、宇宙業界のために声を上げるものは一人もいなかった』とならないよう、日頃からアンテナを高く伸ばし、宇宙分野以外にも広く意識を向けて、積極的に発言してほしい」と学生たちに呼びかけた。
- 12 Sep 2024
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処理水放出から一年 奇しくも朝日と産経が 絶妙なコンビで中国批判
二〇二四年九月六日 福島第一原発の処理水の海洋放出が始まって、一年がたった。大手新聞がどんな報道をしたかを読み比べしたところ、驚愕の事実を発見した。なんと朝日、毎日、産経の各新聞が足並みを揃えたかのように、中国の日本産禁輸を批判する内容を載せた。特に朝日と産経が似た論調を載せたのは極めて異例だ。いったいどんな論調なのか。最大の武器は「自己矛盾」を突くこと だれかを批判するときに最も効果的な武器は、相手の言い分の「自己矛盾」を鋭く突くことである。相手に「痛いところを突かれた。勘弁してくれ」と言わしめる急所を突く論法である。 では、処理水の自己矛盾とは何だろうか。 中国政府は処理水を「核汚染水」と呼び、国民の健康と食品の安全を守るためと称して日本からの水産物の輸入を禁止した。これは言い換えると「日本の沖合で取れた魚介類は核汚染水で汚染されていて危ないから、中国の消費者には食べさせない」という国家の意思表示である。 ところが、中国の漁船は日本の沖合に堂々と来て、魚介類を取り、中国で販売している。同じ太平洋の海で捕獲しながら、日本の漁船が取って、日本に持ち帰った魚は危ないが、中国の漁船が取って、中国の港に持ち帰った魚は安全だという中国の論理は、どうみても自己矛盾の極みである。 中国の禁輸措置を批判する場合、いろいろな言い方はあるだろが、私は、大手新聞がこの自己矛盾をどう報じたかに注目した。朝日新聞は地図入りで矛盾を指摘 すると、なんと朝日新聞は八月二十四日付朝刊の一面トップで「処理水放出 漁続ける中国 日本産禁輸でも近海で操業」という大見出しで中国の自己矛盾を大きく報じた。 記事によると、当初、中国は日本の汚染水は放出から八か月で中国の沿海に届くと言っていた。この通りだとすれば、中国の漁船が中国の沿海で漁をすることは不可能になる。ところが、そんな事情にお構いなく、中国の沿海では八百隻を超える漁船が漁を続けている。中国の漁師は「もし汚染があれば、国(中国政府)は我々に漁をさせない」と意に介さない様子だ。福建省全体からは日本沖の太平洋に向かう漁船が毎日出漁している。 さらに日本の近海でも中国の漁船が多数出漁し、北海道の東方沖の公海にはサンマ、サバ、イワシなどの中国漁船が活発に活動している。そうした中国漁船の操業状況がひと目で分かるよう、朝日新聞は「明るい部分ほど盛んに操業」との解説を入れた日本周辺の海図を載せた。この記事を読んだ朝日新聞の読者はきっとこう思ったに違いない。 「中国は言っていることと、やっていることが全く矛盾している。日本産水産物の輸入を禁止したのは、食の安全とは全く関係ないことがこれで分かった」。 この朝日新聞の記事は、中国の矛盾した態度を鋭く突く、拍手喝采ものの傑作だろう。産経新聞も朝日新聞と同様に鋭く突いた 驚いたのは、産経新聞の八月二十五日付朝刊の一面トップ記事と、三面の特集記事を見たときだ。朝日新聞とそっくりの内容なのだ。三面の見出しは「中国、禁輸でも日本沖で操業」と、朝日新聞の「日本産禁輸でも近海で操業」とほぼ同じ内容だ。 産経新聞の三面記事の前文の締め言葉は、「中国は禁輸措置の一方、中国漁船が日本沖で取った海産物を自国産として流通させる矛盾した対応を取り続けている」と厳しく断じた。 そして、産経新聞も朝日新聞と同様に、「中国漁船が操業している日本周辺の水域」と題した地図まで載せた。そのうえで、はっきりと「中国漁船が福島県や北海道の東方沖の北太平洋でサンマやサバの漁を続けている。同じ海域で日本漁船が取ったサンマは日本産として輸入を認めない半面、中国漁船が中国の港に水揚げすれば、中国産として国内で流通させている。日本政府関係者は不合理としか思えないと批判する」と書いた。 言わんとしていることは産経も朝日と同じである。おそらく新聞の題字(ロゴ)を隠して記事を読み比べたら、どちらが産経か朝日か見分けにくいだろう。毎日新聞も社説で矛盾を指摘 おもしろいことに、毎日新聞も八月二十四日付社説で中国の矛盾した態度を指摘した。社説は後半で「中国政府は『食品の安全と国民の健康を守る』と禁輸を正当化しながら、中国漁船による三陸沖の公海などでの操業は規制していない。これでは矛盾していると言わざるを得ない」ときっぱりと言い放った。 朝日、毎日、産経が横並びで中国の禁輸措置を「矛盾」と形容して批判する記事は、そうそうお目にかかれない。朝日新聞の記事を喜ばない読者もいる! 最後に、この一連の報道に関する、私のちょっとした考察を述べてみたい。 普段は真逆の朝日と産経が的確な記事を報じたわけだが、それぞれの読者層からは、いったいどう評価されているのだろうか。今回の朝日の記事を私は高く評価するが、左派リベラル層はおそらく苦々しく思っていることだろう。 朝日新聞が一年前に中国の禁輸に対して「筋が通らぬ威圧やめよ」と書いたところ、「朝日はおかしくないか。批判すべきは海洋放出を強行した政府ではないか」と主張するネット記事が出た。そう、左派リベラル層が朝日に期待しているのは中国への批判よりも、日本政府や巨大企業への鋭い批判である。だとすると、朝日新聞が地図まで示して中国の矛盾を鋭く突けば突くほど、朝日の読者層は「最近の朝日はおかしくないか」との思いを募らせるであろうことが想像される。一方、産経の論調は首尾一貫しており、読者層は「よくぞ書いた」と喝采を送っていることだろう。 朝日新聞の記者とて、矛盾が明らかな以上、中国の禁輸の矛盾を書かないわけにはいかない。ただ、記者が鋭い記事を書いても、それを喜ばない読者層がいることを思うと、記者の悩ましいジレンマが伝わってくる気がする。 処理水の報道をめぐっては、もうひとつ重大なことに気づいた。それは次回に詳述する。
- 06 Sep 2024
- COLUMN
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読売新聞の〝一強時代〟は オールド左派リベラル層の衰退の兆しか!?
二〇二四年八月二十一日5紙は過去二十年で半減 ネットを見ていて、衝撃の数字に背筋が寒くなった。一般社団法人日本ABC協会によると、二〇二四年一月時点の全国紙の販売部数は多い順に以下のとおりだ(週刊現代「TV局の歴史」など参照)。読売新聞=約六〇七万部(約一〇〇三万部) 朝日新聞=約三四九万部(約八三一万部)毎日新聞=約一五八万部(約三九八万部)日本経済新聞=約一三九万部(約三〇一万部)産経新聞=約八八万部(約二一一万部)5紙の合計=約一三四一万部(約二七四四万部) カッコ内の数字は二〇〇三年当時の部数だ。どの新聞も危機的といってよいほどの減少ぶりである。どの新聞も、過去約20年間でおよそ半分に減ったが、朝日新聞と毎日新聞の減少率は50%を超える。私が毎日新聞社の現役の記者(二〇一八年退社)として活動していたころの部数は、おおよそ四〇〇万部を維持していたが、二〇一〇年を過ぎたあたりから急激に減り、なんとか二〇〇万部を維持できるかと思っていたら、あっという間に一五八万部にまで落ちてしまった。 毎日新聞社は七月十七日付朝刊(北陸版)で、九月末で富山県内での配送を休止すると発表した。二三年の富山県内の販売部数は八四〇部(推計)だったというから、運送費や印刷費などのコストを考えれば、一民間企業として、採算の合わない配送をやめるのは理にかなっているだろうが、全国紙としての地位陥落はさびしい。東海3県を拠点とするブロック紙の中日新聞が一七七万部なので、いまや毎日新聞は中日新聞にも負けてしまったことになる。いよいよ読売一強か 朝日新聞の減り方も尋常ではない。朝日新聞と言えば、私のイメージでは「八〇〇万部の朝日」だったが、いまや三四九万部に落ちた。減少率を見ると、毎日新聞と同様に急激に落ちている。これではもはや「天下の朝日」という形容は難しい。 数字をながめていて分かるのは、読売新聞の健闘である。読売新聞の約六〇七万部は朝日、毎日の合計の約五〇七万部を上回る。読売新聞は最近、媒体資料の中で盛んに「読売新聞は『朝日+毎日』を大きく上回ります」と宣伝している。さらに「朝日+日経」をも上回ると豪語する。そして、読売新聞の一都三県(東京、神奈川、千葉、埼玉)の部数は、朝日新聞の東日本全体(一都三県を含む静岡県以東の東日本全体)の部数よりも多いと強調する。広告を載せるなら、読売しかないと言いたいのだろう。 つまり、新聞界は読売の一強時代になったといえる。それを象徴するのが号外の発行である。昔は、どの新聞もビッグニュースが発生したときは号外を発行し、東京の大手町や新橋駅前などで配ったものだが、いまでは号外を出す余力をもつのは読売新聞だけになってしまった。先日岸田総理が退陣を表明したときも、テレビで報じられていたのは読売新聞の号外発行の様子だった。テレビに登場する号外発行の光景は、いまでは読売新聞だけの風物詩になった感がある。リベラル派の衰退の象徴 なぜ、新聞を読む人が減ったのか。いうまでもなく最大の要因はネットでニュースが無料で読めるようになったからだ。新聞を有料で購読していなくても、何一つ困ることがない。私の友人にも新聞を購読していない人が目立つ。 もうひとつの要因は、これは私の勝手な推測だが、朝日新聞や毎日新聞を好むリベラル層の減少である。新聞を政治的に色分けすれば、朝日新聞と毎日新聞、東京新聞を好む層は左派リベラル層であり、政党で言えば、立憲民主党や社会民主党、共産党を支持する人が多い。これに対し、読売新聞と産経新聞を好む層はいわゆる保守派で、政党で言えば、自由民主党や日本維新の会を支持する人が多いように思える。 政治資金パーティー収入の裏金問題で、最近の自民党は劣勢となっているが、過去40年の政党の推移を見ると、旧社会党(一九九六年に解散)が消滅し、社会民主党へと党名を変えて生まれ変わったあとでも、いわゆる社会党的な政策、イデオロギーを支持する人たちは徐々に減っていった。これがいわゆる左派リベラルと言われる層だが、このリベラル層の衰退とともに朝日、毎日の人気も陰ってきたように私には思える。 左派リベラル層は六十代以降の高齢世代に多い。そういったオールド左派リベラル層が後期高齢化とともに時代から去っていけば、それと歩調を合わせるかのように、いずれ朝日、毎日のようなリベラル新聞も表舞台から消え去る運命にある。ずっとそう思っていたが、この傾向自体は今後も続くように思う。 最近は、政権交代を望む声が強いようだが、これは左派リベラル層が増えたというよりも、カネに汚い自民党的な政治に嫌気がさしたという面が強い。政権交代が実現したら、朝日、毎日新聞が息を吹き返すのか興味はあるが、おそらく難しいだろう。独自色を放つ産経新聞 新聞の減少で個人的に残念だと思うのは産経新聞の八八万部である。産経的な論調を好む層は一定数いるので、まさか一〇〇万部を切るとは思ってもみなかったが、現実は厳しいようだ。左派リベラルの目から見ると、読売と産経は同じ右派的グループに見えるようだが、産経は独自の記事が多く、日々の記事を見ている限り、やはり読売とは異なる光彩を放っている。産経新聞の社会部記者だった三枝玄太郎氏が最近著した「メディアはなぜ左傾化するのか」(新潮社)を読んで、ますますその意を強くした。 この本を読むと、埼玉県川口市でクルド人が近隣住民とトラブルを起こしているようだが、その実態を事実としてしっかりと報じているのは産経新聞だけのようだ。三枝氏は同本で「僕の肌感覚では、(記者の)自由度は、産経>東京>毎日>朝日>読売>日経といった感じだろうか。だが、あまり世間の人は信じてくれない」と書いている。 私の肌感覚では5紙の中では毎日新聞の自由度がダントツであり、論調に一定の制約のある産経新聞には記者の自由度は少ないのではと思っていたが、この本を読んで産経新聞の良さ、自由さを見直した。 5紙の販売部数にあまりにも差があっては、健全な言論空間は築かれない。対中国問題などで独自報道を放つ産経新聞はぜひとも一〇〇万部奪還を目指し、新聞相互にけん制できる言論世界をつくってほしいものだ。 特に原子力への見方では、反原発の朝日・毎日と、原発肯定の読売・産経が対峙する。読売一強が今後の原子力の動向にどう影響するのか興味をもって注視していきたい。
- 21 Aug 2024
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石炭火力報道
日本の産業を守ろうとしないメディア二〇二四年五月十七日 温室効果ガスの今後の削減対策などをめぐって、イタリア・トリノで開かれた先進7か国(G7)気候・エネルギー・環境相会合が四月三十日に閉幕した。その報道を各紙で比較したところ、やはり読売・産経と朝日・毎日・東京(もしくは共同通信)ではニュアンスがかなり異なり、気をつけて読まないとだまされてしまうことが分かった。見出しからは「石炭火力廃止」? G7で何が決まったかを報じた5月1日付新聞の見出しを見比べてほしい(写真1)。右から順に毎日、朝日、読売、産経、東京(共同通信)の見出しだ。石炭火力を廃止する年限に関して、「30年代前半廃止」と「35年までに廃止」と分かれた。どちらにせよ、共同声明では「石炭火力は廃止される」ことで合意したと読める。 これらの見出しを見て、ついに日本は世界でもトップレベルの環境性能を誇る石炭火力を手放すのか?アンモニアを混焼する脱炭素型石炭火力も放棄するのか?そんな絶望的なヒヤリ感を覚えた。写真1 ところが、丁寧に読み進めると読売新聞は前文で「35年以降の稼働を認める余地も残しており、石炭火力で多くの電力を賄う日本に配慮した形だ」とある。産経新聞も「石炭火力の依存度が高い日本は、燃焼時に二酸化炭素(CO2)が出ないアンモニアなどを活用して対応する」と報じた。これで単純に石炭火力を廃止するわけではないことが分かる。 そのことは東京新聞(トリノ、東京・共同)を読んで、確信に変わった。東京新聞は「環境団体は『排出削減対策が講じられていない』という条件が残る点を問題視し、『抜け穴』だと指摘する」という談話を載せた。環境団体が「抜け穴」だと批判しているということは、明るくて良いニュースだと考える習性を持つようになった私は、これらの記事でようやく、排出削減対策のない石炭火力は廃止するが、そうではない石炭火力は残りそうだ、と理解できた。 この点については、読売新聞の見出しだけは他紙と違い、「各国に配慮 日本は継続可」と「継続可」を強調していた。これは日本が誇る高性能の石炭火力は継続して残るという意味だ、と読み比べてようやく分かった。高性能の石炭火力を残すかどうかが焦点 そうであるならば、単に「石炭火力の廃止」という見出しはどう見ても、読者を惑わせる表現である。よく読むと、毎日、読売、産経、共同通信も「二酸化炭素の排出削減対策が講じられていない石炭火力を段階的に廃止」と書いている。さらっと読むと、その意味が理解できずに単に石炭火力が廃止されるんだと思ってしまう。日本が誇る脱炭素型で高効率の石炭火力を残す道が、明示的ではないにせよ認められたのであれば、それこそが価値あるニュースであり、私が見出し編集担当であれば、「日本の高性能石炭火力は廃止せず」との大見出しを飾ったであろう。 これらの記事を見ていると、記者たちの視点が、石炭火力の削減しか眼中にない欧米的思考に染まり過ぎているように思える。なぜ中国やインドを批判しないのか! 興味深かったのは朝日新聞だ。本文(五月一日付)の中で「今回の共同声明でも、廃止の対象に例外を設けたり、年限に解釈の余地を残したりすることで、各国が妥協した形だ」と書いたが、その詳しい意味がよく分からない。なぜ曖昧に書いているのだろうと思っていたところ、翌日の新聞にその解説版ともいえる大きな記事が載った。見出しは「脱石炭 孤立する日本 狭まる逃げ道 政府・電力、従来姿勢崩さず」だった。本文を読むと経済産業省の話として、今回の「排出削減採択のない施設」の定義について、「各国が合意したものではない。アンモニアの混焼、発電効率の高い石炭火力は対策を講じた施設と理解している」という内容が載った。これで昨日の記事の意味がより深く理解できた。 つまり、日本政府は高性能の石炭火力を何とかして残そうとしているが、他国からは批判を浴びている。この日本の奮闘ぶりを朝日新聞は環境団体のコメントを交えながら、「孤立する日本」と形容したわけだ。 この状況に対して、私なら「高効率石炭火力は、日本のエネルギーや電力の安定供給にとって不可欠だ。自国(他の先進国)に有利な政策を日本に押し付けてくる国際交渉の場でよくぞ自国の主張を貫き通してくれた」と絶賛する記事を書いたであろう。そもそも中国やインドはいまも電力の約六~七割を石炭火力に頼っている。日本が孤立するなら、中国やインドはとっくに孤立しているはずだが、いまもって国際交渉の場で堂々と渡り合っている。日本のメディアはなぜ、欧米側だけに立って、日本を責めるのだろうか。 石炭火力が電力の一~二%しかない英国やフランスが「石炭火力を全廃しよう」と提唱したところで自国にとっては痛くもかゆくもない。そのような国に対して、日本が高効率の石炭火力で対抗するのは理の当然である。どうやら日本のメディアは西欧の理念だけに共鳴し、自国の産業が滅んでも平気のようだ。なぜ、文化まで欧米人の視点を意識するのか? 日本人が欧米人の目を気にする習性は、何も外交交渉に限ったわけではない。 五月二日(日本時間三日)、米国のドジャー・スタジアムで行われた球団主催のチャリティーイベントに大谷翔平選手と妻の真美子さんがそろって登場した。その場面をテレビで見ていて、ご存じの方も多いだろうが、真美子さんは大谷選手の一歩、二歩と下がり、後ろから遠巻きに眺めていた。その光景を見て、あなたはどんな印象をもっただろうか。 六日のTBSテレビの情報番組「ひるおび」でゲスト出演していた落語家の立川志らくさんは「日本女性の謙虚な所って、外国の人が見たらどう思うんですかね。何で夫人は後ろに下がってんだろ、って(思わないかな)」とコメントした。 女性が男性の後ろに立つという日本的光景をどう感じるかは、人それぞれが自身の人生観や価値観で判断すればよい話だ。なぜこの場面で「外国の人が見たら、どう思うだろうか」というおかしな発想が出てくるのだろうか。ここでいう外国人は欧米人であって、中国やインドのようなアジア人ではない。 夫婦関係も含め、日本の伝統文化を重んじた行動をとる日本人がいたところで何の不思議もない。日本人がいちいち欧米人の気に入るような行動をとったら、そのほうがむしろ異常である。立川氏のコメントを見ていて、やはり日本人には、欧米人の視点が正しく、日本人の伝統的な価値観は劣っているという深層心理のようなものがあるのではないかと感じた。 話を石炭火力に戻す。石炭火力が電力の多くを占める国と、ほぼ石炭火力のない国が同じエネルギー戦略を採用することはそもそも無理だ。今世界各国が目指している共通目標は、「二酸化炭素の削減」のはずである。目指すは石炭火力をどうするかではなく、二酸化炭素をどう減らすかである。であるならば、石炭火力を残しながらも、二酸化炭素を減らす技術(CCSやバイオマス利用も含む)を日本は堂々と進め、主張していけばよい。無責任なメディアの論調を気にしていては、日本の産業は本当に滅んでしまう。
- 17 May 2024
- COLUMN
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原子力発電所の〝耐震安全性〟報道に 第三者的なファクトチェックを!
二〇二四年四月二十二日 「原子力発電所の耐震性は民間住宅よりも劣る」。こんなまことしやかな言論がいまも聞こえてくる。このことを記事にする記者も後を絶たない。能登半島地震をきっかけに、ようやく電気事業連合会が「Enelog」(vol.63)で解説したが、やはり誤解に満ちたニュースに対しては、第三者的なファクトチェックの重要性を改めて痛感する。樋口氏はいまもメディアで人気 今年一月、「小島さん、原子力発電所の耐震性は民間住宅よりも劣ることを知っていますか」。旧知の食品科学者が驚いた様子でこんなことを尋ねてきた。ニュースで見たという。情報源を聞くと、二〇一四年に関西電力大飯原発の運転差し止めを命じた樋口英明裁判長(当時)の主張だった。樋口氏はいまなお各地で講演会を続け、大活躍している。 今年に入ってからも、一月に茨城県つくば市で、三月には京都府京丹後市で、四月には新潟県柏崎市で講演会を行っている。その都度、地元の新聞記者が取材し、樋口氏の主張をそのまま記事にしている。四月八日付け朝日新聞デジタル記事によると、「原発を再稼働させない柏崎刈羽の会」主催で四月七日に行われた講演会は約百六十人の満席だった。記事からはどんな内容の講演だったか分からないが、樋口氏の主張は「地震大国日本では原発に高度の耐震性が求められる」との言葉で紹介されていた。 京丹後市で三月二日に行われた講演会は毎日新聞が地方版で報じた。見出しは「原発の本質は国防だ」だった。ロシア軍に占拠されたウクライナのザポリージャ原発にふれ、「原発は人が管理し続けないといけない。そして暴走した時の被害はとてつもなく大きい」との内容が載っていた。原発の耐震設計は民間住宅より劣る? このように樋口氏は「原発を止めた裁判長」として、朝日新聞、毎日新聞、東京新聞(東海地方では中日新聞)などでは常にヒーロー並みの扱いで記事になる。私も直接、樋口氏の講演を聞いたことがあるが、いつも気になっていたのは、以下のような内容だ。 「大飯原発の耐震設計基準は、東京電力福島第一原発事故後、当初の四〇五ガルから八五六ガルに引き上げられた。原子力規制委員会は厳格化した新規制基準に適合すると判断したが、大手住宅メーカーには三〇〇〇ガル台や五〇〇〇ガル台の地震に耐える一般住宅があり、それに比べると原発は著しく低い」(二〇二一年五月六日毎日新聞経済プレミア)。 ガルとは地震の強さを表す加速度の単位だ。樋口氏の主張は、一般住宅が三〇〇〇ガル以上の地震に耐えられるのに対し、原発は九〇〇ガル以上に耐えられないという理屈である。二〇二一年当時、数多くのメディアの記者たちはこの主張に驚き、次々に記事にしていた。 その後、しばらく落ち着いていたかと思ったら、能登半島地震で志賀原発の変圧器などが壊れたことで再び、樋口氏の主張が注目され、ニュースが増え出した。その中で私の知人の食品科学者は初めて樋口氏の主張を知った。「これって本当なのか」。驚いた知人はネットで調べたが、原発の耐震設計が民間住宅より劣るかどうかについての適切な解説は見つけ出せなかった。それで私に尋ねたというわけだ。電力会社の回答 実は三年前、私も樋口氏への反論がないかネットで探そうとしたが、見つけられなかった経験がある。電力業界のウェブサイトを見ても、それらしき反論は見当たらない。そこで東京電力と関西電力に聞いてみたところ、「原子力発電所は固い岩盤に建っているのに対し、一般住宅はそれほど固くない地盤の上に建っている。硬さの異なる地盤地点における数値(ガル)を比べることは適切ではない」との回答を得た。 要は、岩盤での加速度(数値)と柔らかい地盤での加速度(数値)を同列に論じることはできないということなのだが、十分に納得した気持ちにはなれなかった。以来、ずっと分かりやすい解説がほしいと思っていた。固い岩盤は軟らかい地盤の二分の一~三分の一 そうしたもやもや感を抱いていたところ、つい最近、発行された電気事業連合会の冊子「Enelog」で、能登半島地震規模の地震が発生した場合の耐震安全性に関するQ&Aを見つけた。そこに以下のような記述が見られた。 「一般建築物が建設される地表面に近い表層地盤の方が、原子力発電所が建設されている強固な岩盤よりも地震による揺れが大きく増幅されることから、志賀原子力発電所の岩盤面の揺れの大きさとして設定された現在の基準地震動(六〇〇ガル)と、表層地盤の上に設置する一般建築物の揺れの大きさ(ハウスメーカーが耐震実験を行っている約五〇〇〇ガルなど)を単純に比較することはできません」図1©FEPC このQ&Aの解説には、イラスト図(図1参照)が添えられ、「堅固な地盤(岩盤)での揺れは、表層地盤に比べて、1/2~1/3程度」という解説があった。これなら確かに理解できる。第三者的な解説が必要 そして、改めて関西電力のウェブサイトを見ていたら、「巨大地震に備える」という項目で以下のような解説があった。 「平成二十八年四月に大きな揺れが観測された熊本地震において、熊本県益城町では、四月十四日の前震(マグニチュード六・五)において、軟らかい地盤の地表で観測された揺れの強さは、一五八〇ガルでしたが、地下の硬い岩盤の中では最大で二三七ガルでした。原子力発電所は、大きな揺れになりにくい硬い岩盤の上に建設しており、地震が多い日本ではその他にも、耐震安全性を確保するために、各種対策を実施しています」 この説明だと、一般住宅が建つ表層地盤と固い岩盤とでは、ガルの数値に約七倍の差がある。これを読めば、原発の耐震と一般住宅の耐震を数値だけで比較しても意味がないことがさらに理解できる。 残念なのは、地震学や地質に詳しい第三者の専門家による解説がないことだ。ネットを幅広く調べれば、どこかにあるのかもしれないが、これだけ樋口氏の主張がニュースになっていながら、原発関連会社や団体のウェブサイトにちゃんとした解説(反論)がないのは不思議でしようがない。日頃から、原発やエネルギー関連ニュースで誤解を与えるような言論を見つけたら、すぐに第三者の専門家に分かりやすい解説を依頼して載せるというファクトチェック活動が必要だろう。そうしないと誤解はいつまでも人々の記憶に残り続ける。
- 22 Apr 2024
- COLUMN
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福島の山菜は本当に危ないのか? 基準値の意味を正しく伝えたい
二〇二四年三月二十五日 福島県内で採れる山菜を食べたら、本当に危ないのだろうか。毎日新聞が三月十二日付け朝刊で「『山菜の女王』復活へ試行錯誤 福島・飯舘村セシウム減らせ」と題した記事を載せた。基準値の意味を正確に伝えていないため、あたかも山菜を食べたら健康に影響があるかのような印象を与える、ミスリーディングな内容だ。では、記事のどこがおかしいのだろうか。コシアブラは依然として一〇八五ベクレル 記事を見てまず引っかかったのは、小見出しの「依然基準値の10倍」(写真1)だった。記事の骨子はこうだ。飯舘村が測定した山菜(ワラビ、ウド、フキなど)の放射性セシウムの濃度(二〇一四年~二〇二三年分)は二〇一一年の原発事故から低下しつつあるが、コシアブラだけは二〇二三年になっても、一キログラムあたり一〇八五ベクレル(二〇一四年は同二〇五五八ベクレル)を示し、基準値の十倍に上った。写真1 その理由は、森林の大部分が除染されていないため、多年生植物のコシアブラはセシウムの多い地表から十数センチのところに根をはり、しかもセシウムは根などに蓄積して植物体を循環するため、シーズンをまたいでも減りにくいのだという。そこで記事は「基準値を下回るにはさらに10年以上かかるだろう」という地元住民の言葉を載せた。 さらに、「山菜を塩水でゆでたあと、一時間、水に浸すとセシウムの量は調理前の三五~四五%程度に低減する」という方法を紹介している。 ちなみに、ベクレルは放射性物質が放射線を出す強さを表す単位で、一ベクレルは一秒間に一つの原子核が崩壊することを表す。セシウムの基準値は各国で異なる 放射性セシウムの現状を伝える記事自体に誤った記載があるわけではない。ただ全体を読んでいて誤解を与えかねないと感じたのは、一〇〇ベクレルという基準値にこだわるあまり、一〇〇ベクレルを超えた山菜を食べると健康に影響するかのような印象を与える点だ。 知っておきたいのは、基準値は健康影響をはかる指標値ではないということだ。そのことは各国の放射性セシウムの基準値を見ればすぐに分かる。図表1を見てほしい。日本の一般食品の基準値が一キログラムあたり一〇〇ベクレルなのに対し、EU(欧州連合)は一二五〇ベクレル、米国は一二〇〇ベクレル、コーデックス委員会(世界食糧機関と世界保健機関によって設置された国際的な政府間機関・百八十八か国加盟)は一〇〇〇ベクレルだ。 なんと欧米諸国の基準値は日本よりも十倍も緩い。記事は「コシアブラの一〇八五ベクレルは基準値の10倍」と書いたが、このコシアブラは欧米諸国では堂々と流通できる。確かに日本では一〇〇ベクレルを超えると出荷制限(販売禁止)がかかるが、欧米では基準値以下なのでそのまま流通するのだ。ということは、仮に欧米人が一〇八五ベクレルの山菜を食べても、健康に影響することはないことを意味する。 いうまでもなく、基準値の緩い(数値が高い)欧米の人たちがセシウムの影響を受けにくい体質をもっているわけではない。毒性は食べる「量」いかんで決まる もうひとつ押さえておきたいのは、基準値の一キログラムあたり一〇〇ベクレルという意味だ。これは一キログラムあたりの数値なので、一キログラムあたり一〇八五ベクレルのコシアブラの場合、十グラムしか食べなければ、体内に摂取されるセシウムはその百分の一の約10ベクレルで済む。逆に基準値以下のコシアブラでも、2~3キログラムも食べれば、体内摂取量は100ベクレルを超えてしまう。 この例でわかるように、基準値以下の食品でも大量に食べれば、基準値を超える。食べた人に健康影響が生じるかどうかは、食べる「量」によって左右され、基準値を超えたかどうかではない。つまり、一〇〇ベクレルという数値は、健康に影響するかどうかの指標ではなく、生産者に対して「出荷の際に気をつけてもらうためのシグナル」なのである。年間一ミリシーベルト以下が上限 では、健康影響をはかる指標値は何か。図表1の二段目にある「追加線量の上限設定値」の年間一ミリシーベルト(シーベルトは放射線が人体に及ぼす影響を表す単位)である。もちろん一ミリシーベルトを超える放射線を浴びたからといって健康影響が生じるわけではない(低線量による影響はいまも科学的な議論が続く)が、放射線の影響を管理する数値としては、年間一ミリシーベルトが世界的な標準管理値となっている(ただし米国は年間五ミリシーベルト)。 ここで強調したいのは、セシウムの基準値は各国の事情によって異なるが、健康影響の指標はほぼ同じという点である。欧米人も日本人も同じ人間なので、健康影響を測る数値が大きく異なるはずはない。一〇〇〇ベクレルの山菜を食べても影響はない では、仮に一キログラムあたり一〇〇ベクレルのセシウム(半減期が約三十年のセシウム137と仮定)が検出された山菜を一キログラム食べた場合、人体への影響(内部被ばく)はどれくらいになるだろうか。計算すると〇・〇〇一三ミリシーベルトである。一〇〇〇ベクレルのコシアブラを一キログラム食べた場合は、十倍の〇・〇一三ミリシーベルトとなる。仮に一〇〇〇ベクレルのコシアブラを一キログラム(そもそも一キロも食べる人はいないだろうが)食べても、一ミリシーベルトをはるかに下回り、健康への影響はないことが分かる。 EUの基準値が一二五〇ベクレルでも、西欧人の健康を守ることができるのはこれで分かるだろう。そもそも私たち日本人は自然界から年間約二ミリシーベルトの被ばくを受けながら生活をしている。それと比べても、山菜から摂取するセシウム量は極めて少ない。 実はこうした考え方は農薬も同じである。農薬の残留基準値は各国の気候や風土で異なるが、健康影響をはかる指標値の一日許容摂取量(ADI)は世界共通である。このあたりのからくりは、拙著「フェイクを見抜く」(ウエッジ)をお読みいただきたい。「安全・安心」のために一〇〇ベクレルを設定 では、なぜ日本は欧米よりも十倍も厳しい基準値を設定したのだろうか。福島第一事故後にセシウムの基準値がどのように決まっていったかを、私は現役(毎日新聞)の記者として当時、熱心に取材していた。そもそも事故が起きる前の一般食品の暫定基準値は、一キログラムあたり五〇〇ベクレルだった。厚生労働省や食品安全委員会などで活発な議論が行われたが、結局、「より一層、食品の安全と安心を確保する観点から」という理由で一〇〇ベクレルに決まった。 許容していた年間追加線量も、事故前は年間五ミリシーベルトだったが、一ミリシーベルトに引き下げられた。一〇〇ベクレルが導き出される計算式の裏には、日本国内の食品(流通する食品の半分と仮定)はすべてセシウムに汚染されているという非現実的な仮定があった。これに対し、EUの一二五〇ベクレルは、流通量の一割が汚染されているという現実的な条件で計算されている。当時は旧民主党政権。結局は政治的な思惑もあって、「安心」を重視した政治的な決着となったのだ。一九六〇年代はもっとリスクが高かった 原発事故から十三年もたつと、セシウムの基準値が政治的に決められていった経過を知る記者は、少なくなっている。毎日新聞の記事について言えば、一〇〇ベクレルは健康影響をはかる指標値ではなく、たとえ一〇八五ベクレルのコシアブラを一キログラム食べたとしても健康への影響はない、という解説を入れてほしかった。 今後、セシウムの影響を伝える場合は、中国などが核実験を行っていた一九六〇年代のほうがよほど健康へのリスクは高かったという事実を、記者たちは頭の片隅に刻んでおいてほしいものだ。福島第一原発の処理水の海洋放出は今のところ順調に進むが、魚介類からいつ何時一〇〇ベクレルを超えるセシウムが検出されるかもしれない。その際に冷静に「一〇〇ベクレルを超えても健康影響とは関係ない」と、記者たちがしっかりと書いてくれることを期待したい。
- 25 Mar 2024
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能登半島地震と志賀原発報道 ファクトチェックはいかにあるべきか
二〇二四年二月十三日 大手電力会社で構成される電気事業連合会のサイトを時々見ているが、一月二十四日のプレスリリース・お知らせに目が止まった。 その中身は、同日付け日本経済新聞5面(朝刊)に載った「電力供給、進まぬ分散 大手寡占で災害時にリスク」との記事に対する見解だった。その見解は、以下のような内容だ。「本記事では、大手事業者があたかも一般送配電事業を寡占化し、送配電事業への新規参入を阻害しているかのような印象を与える見出しとなっているほか、能登半島地震により発生した停電長期化の原因が電力の供給網のもろさにあるかのような印象を与える内容になっていると考えております。<中略>一般送配電事業は、周波数を維持し安定供給を実現するとともに、電柱や電線など送配電網の建設・保守のスケールメリット、一元的な管理による二重投資の防止、などの観点から、規制領域とされている許可事業であり、大手の寡占との指摘はあたらない。今回の能登半島地震においては、輪島市、珠洲(すず)市を中心に道路の寸断(土砂崩れ、道路の隆起・陥没・地割れ等)や住宅の倒壊等により立入困難な箇所が多数あることなどが思うように復旧作業が進まない要因だと承知しており、停電長期化の原因が『電力供給のもろさ』にあるという指摘はあたらない。」新聞記事は電気の地産地消を推奨 今回のように、新聞記事に対して、その日のうちにコメントや見解を述べる行為は実にスピーディーであり、ファクトチェックのお手本のような例である。まずは称賛したい。 筆者は日本経済新聞を購読していない。さっそく地元の図書館へ行って、その記事を読んだ。冒頭の文章に「再生可能エネルギーを使って供給を分散できれば広範囲の停電リスクが下がるが、送電網の事業への新規参入は進んでいない」とあり、さらに「小型の電源が分散し狭い地域でエネルギーを地産地消できる体制が整えば、広範囲の災害でも電気を順次復旧しやすい」とあった。小型電源の主力は太陽光や風力だという。 また、記事では、大手電力の送電インフラを使わず、自前で新たに供給網をつくる「特定送配電事業」が存在することにふれ、二〇二三年末時点で33事業者が登録されているという。その登録事業者数が少ない理由は、自前で電柱や電線のインフラを整備するのは巨額の費用がかかるからだという。 要するに、各地域で自前の太陽光や風力、そして電柱や送電網をつくれば、災害に強い地域になるという内容だ。こういう電気の地産地消を推奨する記事は日本経済新聞に限らず、たびたび大手新聞に登場する。太陽光での自前電源はそもそも不可能 では、多くのメディアが推奨しながら、電気の地産地消(各地域での自前電源の整備)が進まないのはなぜだろうか。それは、日本経済新聞の記事が触れたように、コストがかかりすぎて採算が合わないからだ。 ちょっと考えれば分かることだが、太陽光や風力で自前の電源を整備するほうがコストが安いのであれば、世界のメーカーと競合せねばならぬ日本の製造メーカーは、大手電力会社に頼らずに、こぞって自社敷地内に自前電源をつくっているだろう。そうはならないのは、天候に左右されて、設備利用率が二〇%以下となってしまう太陽光だけでは、自前電源にならないからだ。ましてや巨額のコストがかかる蓄電池まで自前で用意すれば、コストはさらに増え、メーカーの競争力は逆に弱くなるだろう。太陽光が有効に機能するのは、他の電源(火力、原子力、水力など)のバックアップがあってこそだ。 記事は最後に「再生エネが拡大すれば、火力発電を減らし…」と書き、太陽光や風力を増やせば、問題が解決するかように締めている。日本では太陽光発電はここ十年間で大きく増えたが、火力発電は一向に減っていない。仮に太陽光を増やしたところでパネルの約八割は中国産なので、自前には程遠く、エネルギーの自給率アップにもならない。なぜ、日本の大手メディアの記者はかくも太陽光に幻想を抱くのか不思議でしようがない。太陽光を絶対視する「太陽光信者」としか言いようがない。大規模分散が現実的か では、仮に能登半島の集落ごとに太陽光と風力が設置されていたとしよう。今回の地震のようにこれだけ道路網や送電網、住宅が損壊すれば、たとえ地域の所々で太陽光発電(奇跡的に損壊が免れたとして)が部分的に機能したとしても、出力が安定しないため送電網(これも奇跡的に破壊されずに残ったとして)を乱すだけでなく、太陽光が働かない夜や雪の日も含めて、日常生活に必要な電気をまかなうのは到底不可能だろう。 今回の能登半島地震では全国の電力会社から、延べ二千五百人(一月十九日時点)を超える応援があり、復旧に努めた。大手寡占のどこが災害リスクにつながるのか日本経済新聞の記事の説得力は全く感じられない。 逆に、もし各集落に自前電源をもつ事業者が多数いたらどうなっていただろうか。事業者間の連携は期待できず、地域住民が避難を強いられる中で集落ごとの電源の復旧など到底できず、半島全体の復旧はいまよりもさらに遅れたであろうことは容易に推測できる。地産地消という言葉(理念)だけでうまくいくかのような設計主義の危うさは、旧ソ連の社会主義の崩壊で実証済みである。 キヤノングローバル戦略研究所の杉山大志研究主幹が夕刊フジ(二〇二三年十月七日)などで述べているように、災害時に強いエネルギー供給のあり方については、火力による大規模な発電所と広域の送電網からなる「大規模分散」のほうが、より現実的で災害に強いように私には思える。ファクトチェックの意義は公開にある 本コラムで強調したいのは、地産地消と災害リスクの関連を論じることではなく、電気事業連合会が日本経済新聞の記事に納得できないところがあると指摘して、その理由を公開したことである。この電気事業連合会のファクトチェック公開がなければ、私は日本経済新聞の記事に気づくことはなかった。欲を言えば、電気事業連合会にもっと詳しい解説を期待したいところだが、それはさておき、スピーディーなファクトチェック活動が科学リテラシーの度合いを高めることは間違いない。 地震の影響で北陸電力志賀原発(石川県志賀町)で起きた「変圧器の破損」「油の漏れ」「外部電源の一部途絶」「情報の二転三転」などのトラブルがたびたびメディアで報じられた。リスクコミュニケーションにも詳しい唐木英明・東大名誉教授はウェブマガジン「ウェッジオンライン」(一月十六日)に「能登半島地震で国民を不安にさせる報道の特徴とは?」と題して、論稿を載せた。そこで「多くのメディアの論調は柏崎刈羽原発の報道とほとんど同じであり、安全上問題がない変圧器の破損があたかも重大な問題であるように誤解させ、不安を煽るものだった」と書いている。確かにそういう面が強い。 唐木氏はこの記事で一月二日に羽田空港で起きた日本航空516便と海上保安庁の航空機が衝突した事故について、興味深い指摘をしている。あの事故で日本航空の搭乗員全員が助かったことは海外からも「奇跡」と称賛されたが、脱出までに約十八分もかかった。国際基準では脱出シューターが開いてから九十秒以内に搭乗者全員が脱出することが求められている。だとすれば、厳密に言えば、対応が成功したとは言えず、単に運がよかっただけなのかもしれない。これが原発だったら、猛批判を浴びていたに違いない。 新聞記事を読んでも日航機への批判は見られない。志賀原発のトラブルに対する報道は、多くのメディアの原発嫌いを反映していることが分かる。であるだけに、原発関連報道のどこまでが的を射ているかを判断するのは相当に難しい。やはり専門家が集まった第三者的なファクトチェック活動が不可欠である。 幸い、電気事業連合会は特設サイトを設けて、報道記事にあるような「外部電源の一部が失われ、不安だ」といった数多くの疑問や不安に対して分かりやすい見解(北陸電力へのヒアリングを基に作成)を載せている。報道では分からないことがこの解説で理解でき、これもファクトチェックの良い例だと言える。この掲載のタイミングもよく、とても参考になる。 しかし、なかには電力会社の言うことを鵜呑みにしていいのかという人もいるだろう。確かにその通りである。一月下旬、私は唐木氏との共著で「フェイクを見抜く」(ウェッジ)を刊行した。これもファクトチェックの一環である。原子力や放射線を含め電力・エネルギー問題に関する報道の真偽をきめ細かくチェックする作業は専門家でないと難しい。科学者が多数参画する第三者的なファクトチェック団体の誕生を強く望みたい。
- 13 Feb 2024
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遺伝子組み換え作物が「脱炭素の優等生」なのをご存じだろうか?
二〇二四年一月二十六日 「脱炭素にとって、原子力は必要だと思うが、遺伝子組み換え(GM)作物は危険なイメージがあり、どうも好きになれない」。そんな声を聞いたことが現にある。遺伝子組み換え作物と言えば、いまも否定的なイメージが強いようだが、実は脱炭素の優等生であり、SDGs(持続可能な開発目標)にも貢献している。この話、実は原子力と決して無縁ではない。土壌中には莫大な炭素が 多くの人は大気中の二酸化炭素の発生源は化石燃料だと思っているだろうが、実は地球を覆う土壌も大いなる発生源である。いやむしろ逆である。深さ一メートルの土壌には大気中に存在する炭素量の二倍、植物体の三倍もの炭素(腐植や炭酸カルシウム)が蓄積している。つまり、土は陸地で最大の炭素貯蔵庫であり、大気中の二酸化炭素の安定性に大きく貢献しているのである(「大地の五億年」藤井一至著から引用)。言い換えると、土の中の炭素がすべて大気中に放出されると、大気中の二酸化炭素はいまの三倍の濃度になってしまうのだ。脱炭素は「不耕起」がカギ であれば、農業を考える場合に最も重要なことは土の中に炭素をいかに閉じ込めておくかである。そして、炭素を土壌に閉じ込めておくためには、できるだけ土を耕さないこと、つまり「不耕起」が最適といえる。おそらく多くの人は「土を耕すことはよいことだ」と思っているだろうが、それは違う。土を耕すと土の表面の植物の被覆がなくなり、腐植(おおよそ有機物と考えてよい)が分解して、風雨による土壌の浸食(土壌が失われる)が激しくなり、炭素が大気中に逃げてしまう。土壌中の腐植量と炭素量には強い相関があり、腐植の約六割は炭素が占めることも意外に知られていない。 もうお分かりだろう。同じ作物を栽培するなら、できるだけ土壌に炭素量を閉じ込める栽培法、つまり不耕起栽培が地球の温暖化防止に寄与するということだ。このことは気候変動枠組条約締約国会議でも認められている。GM作物でなぜ不耕起が可能なのか 結論を先に言おう。遺伝子組み換え(GM)作物というバイオテクノロジー(遺伝子工学技術)が、この不耕起栽培を実現する強力な武器となるということだ。私は二〇〇二年から二〇一六年まで、ほぼ一年おきに米国中西部のGM作物畑を取材してきた。農業生産者たちは常に「以前に比べて農薬の使用量が減った」「収穫量も増えた」、そして「GM作物のおかげで不耕起栽培が可能になった」と話していた。 除草剤耐性GM大豆やトウモロコシを例に説明しよう。このGM大豆は、グリホサートなどの除草剤を撒くと、周囲の雑草は枯れるものの、大豆は枯れずに収穫できる。一般的に農家は播種(種まき)の前に雑草を取り除くために土を耕すのだが、除草剤耐性GM大豆なら、雑草が少々生えている大地でもそのまま種子をまくことができ、大豆がある程度成長した段階で除草剤をさっとまけばよい。もちろん収穫に悪影響はない。 播種前の耕作はトラクターで行うため、もし耕作が不要になれば、トラクターの動力に使う化石燃料が節約できる。同時に不耕起だと土壌が失われることもなくなる。つまり、GM作物の普及は土壌中の炭素を守り、同時に化石燃料の削減にも貢献する。加サスカチュワン州では不耕起が約95% 大豆やトウモロコシだけではない。カナダのナタネ(カノーラ)栽培は脱炭素のお手本のような例である。昨年十二月、カナダで遺伝子組み換え(GM)ナタネを大規模に栽培する女性のシェリリン・ニーゲルさん(44)が夫と子供2人とともに来日した。「日本バイオ作物ネットワーク」(徳本修一理事長)主催の「東京カンファレンス23」で基調講演をするためにやってきた。右から二人目がシェリリンさん シェリリンさんはカナダ・サスカチュワン州南部にある約六千ヘクタールの農地でナタネや小麦、ひよこ豆などを栽培する。約六千ヘクタールの三分の一は除草剤耐性GMナタネだ。シェリリンさんは二〇二一年に農業で最も影響力のあるカナダのトップ50人に選ばれた一人である。 シェリリンさんはスライドを見せながら、不耕起栽培の様子を説明した。すでに大豆で説明したように、ナタネがある程度成長したときに除草剤のグリホサートをまくだけで、周囲の雑草を枯らし、ナタネはそのまま収穫できる。シェリリンさんの畑は不耕起のため、春先の播種の時期には枯れた前年の作物や雑草が農地を覆っている。それでもそのまま播種して、ちゃんと収穫できる。 不耕起自体は父の考えで始まったというが、GM作物の導入が不耕起を容易にしたという。シェリリンさんは不耕起栽培のメリットとして、「水分が土壌に残る」「炭素が土壌に残る」「化石燃料の使用が減る」の三つを挙げた。そして「自分たちが実践している不耕起が環境保全に貢献しているという強い意識も持っている」と話した。 すでにカナダ・サスカチュワン州では農家の約95%は不耕起栽培を実践しているという。現在、不耕起栽培は、GM作物の普及が進むアルゼンチンやブラジルでも増えている。不耕起で生産性は上昇 日本では不耕起だと生産性が落ちると思っている人がいるかもしれないが、その逆である。カナダ・サスカチュワン州では過去約三十年間で収量は二倍に増えた。国立研究開発法人農業・食品産業技術総合研究機構(農研機構)が世界の穀物収量と土壌データを解析した調査結果によると、世界の農地の七割を占める乾燥・半乾燥地域では「農地の土壌に含まれる炭素量が多いほど干ばつ被害が少なく、収量の減少が抑えられている」(二〇二〇年二月公表)との試算結果もある。土壌中の炭素が多いと収量も多いのだ。 GM作物と温暖化問題の関連などを研究している米国カリフォルニア大学バークレー校のデイビッド・ジルバーマン氏(農業資源経済)は、「GM作物は不耕起栽培を通じて、土壌に炭素を貯蔵することを可能にした。これは温暖化問題の解決に大きく貢献できる潜在能力をもっていることを示す」(学術誌「グローバル・チェンジ・バイオロジー」2015年)と述べている。共通項は反対運動 もはやGM作物が環境保全に貢献し、脱炭素の優等生なのは明らかだと思うが、こうした良い話はメディアではほとんど報じられない。そのせいか、いまもって日本ではGM作物を誰一人として栽培できない状態が続いている。もちろん安全性が確認され、環境への影響もないことから、法的にはだれでも栽培できる。 なぜ、栽培できないかと言えば、反対運動があるからだ。かつて一部の農家が試験的に野外でGM大豆を栽培しようとしたが、反対派によって茨城県内の畑がショベルカーでつぶされてしまった。以来、だれも栽培に挑戦していない。 反対運動によって何もかもが阻止される。いまはそういう時代なのだろうか。すでにこのコラムで書いたが、カドミウムをほとんど含まない画期的な米の新品種((編集部注=小島さんが司会を務める「あきたこまちR」に関するオンラインセミナー(参加無料)が、二月七日午前十一時~十二時半で開催される。お申し込みは 食の信頼向上をめざす会 から。<終了しました>))「あきたこまちR」でさえ、反対運動に遭っている。福島第一原発事故で発生した除染土の再利用も環境への影響はないにもかかわらず、なかなか前へ進まない。GM作物が原子力と無縁ではないと冒頭で述べたのは、こういう似た背景があるからだ。 GM作物に関しては、ようやく「日本バイオ作物ネットワーク」の生産者たちがカナダから先進的農家を招き、不耕起栽培を実現させる手段としてGM作物の栽培に意欲を示し始めている。不耕起を通じて土壌に腐植を増やせば、大気中の二酸化炭素を減らすことができる。その意味でGM作物と原子力は脱炭素を目指す盟友である。原子力・エネルギー関係者もぜひGM作物に関心をもってほしい。
- 26 Jan 2024
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自由の格差
2020年から始まったコロナ禍と、福島の原子力災害。2つの災害に共通する点は何か、と考えた時、真っ先に思い浮かぶのが、社会の不安や分断を煽る情報の流布、所謂「インフォデミック」の存在です。偏った報道、偏った情報に社会が振り回されるたび、報道やSNSの在り方やメディアリテラシーの低さを批判する声が数多上がりました。しかしその批判の声は、具体的解決策を示せないまま、災害の収束と共に縮小してしまっているように見えます。しかしインフォデミックの芽は、平時にこそ摘んでいく必要があるのではないでしょうか。悪者を攻撃する社会抑止力こそがメディアの役割である。そう考える人は少なくありません。メディアの生む勧善懲悪的なストーリーが社会を安心させることもあるでしょう。しかし分かりやすい悪を断罪する報道は一方で、一部の人々の声を奪い、自由の格差を生んでいるように見えます。ハラスメント報道は自由を生んだのか最近虐待やいじめ、ハラスメントに関する報道をよく目にするようになりました。コロナ禍が明け、人流の回復と共に密室化していた問題が白日の下に晒されるようになったのかもしれませんし、リモートワークが加害者と被害者を物理的に隔離することで、被害者の精神的安全を確保できたためかもしれません。このような報道にはもちろん良い側面もあります。ここ20年ほどの報道のお蔭で、飲み会への出席を強要されたり結婚や女性らしさについて説教を受けたり、という場面は近年激減しました。これは報道による社会抑止力の賜物とも言えるでしょう。では種々のハラスメントが抑止された分、若者や弱者は生きやすくなったのでしょうか。周囲を見ていると、私生活の自由度が増したな、と感じる一方で、見ていて辛くなるほど世間を気にする若い方もまた、増えているように思われます。なぜ差別やハラスメントが取り締まられても若者は自由にならないのか。私はその一因が、取り締まりや報道自体が未だ強権的手段を行使していることにあるのでは、と感じています。強権的報道という矛盾ハラスメントや虐待の「加害者」として俎上に上げられる人々が、身近にいる上司や同僚、あるいは自分自身とよく似た立場の人だった。私と同年代やそれ以上の方々の中には、そんな経験をした方は少なからずいるのではないでしょうか。実際に、報道でみるほとんどの加害者は、私の目には「どこにでもいる人」のように映ります。しかし「立場上理解できる部分もある」という感想は決して口にすることは許されません。少しでも加害者の肩を持った発言をすれば、加害者の一味として自分も即断罪されてしまうからです。空気を読んで口を噤む。私たちはそんな世界を日常として生きています。もちろん「形だけでも口を噤むべし」という社会的抑止力が、ハラスメントを減少させてきたこと自体は否定しません。問題は、その抑止力自体が強権的性質をもっていることを自覚せず、正義の鉄拳がふるわれてしまうことです。厚生労働省が定義するパワーハラスメント(パワハラ)の分類には、「精神的な攻撃」「人間関係からの切り離し」という項目があります。個人へを断罪し、それに味方する人ごと社会から抹消しようとするような一部の報道の在り方は、まさにこれに当てはまるのではないでしょうか。繰り返しになりますが、ハラスメント自体を肯定・許容しているわけではありません。しかし、個人の犯した社会的問題の根底には、必ずといっていいほど、システムエラーが常に存在します。そしてシステムエラーは罰則や啓蒙だけでは回避できません。出てきた杭だけを叩く一面的で一方的な報道は、そのようなエラーの温床をあえて見過ごしているように見えます。加害者と被害者の悪循環医療の現場も、20年前頃までは女性蔑視や過労の強要が日常的な職場でした。しかし今振り返ると、当時の加害者側の人々こそが、診療やカウセリングを受けるべき被害者だったのではないか、と思えることがあります。過労や極度の睡眠不足により精神の不調を来していた人、あるいは初期の脳血管障害や認知症を呈していたと思われる人…思い返せばそんな方もいたからです。また「空気を読む」ことを強要された職員が、過去を踏襲した結果、パワハラで訴えられた事例、「ハラスメント教育」と声にすら出せない組織の中で、教育不足により起きた事例など、むしろ時代の被害者と言える方もいたのではないか、と思っています。しかし私にとって、こういった同情的な発言をすること自体が、非常な恐怖を伴う行為です。この発言によって、いつ何時「犯罪擁護者」と社会的に叩かれるかも分からないからです。罰を恐れて「あちら側の人間」への理解を示すことが許されない──その恐怖心は、強権的な上司に怯えていた時の恐怖に酷似しています。誰が口をつぐむのか弱者の代弁者としての報道の重要性は、論を待ちません。これまで声を上げられなかった弱者にとって、暴露記事が救世主になったことも多々あるでしょう。しかし一方で、監視社会はむしろ弱者を黙らせてしまう、という側面も忘れてはいけないと思います。多くの社会的抑止力は、将来が未確定で、かつ「空気を読める」世代にこそ強く作用してしまうからです。将来自分が責任ある立場になったら、一つのミスで社会的に抹消されるかもしれない。その認識は、生まれた時から大量のメディア情報に暴露されて育った若い世代にこそ根強く浸透しています。彼らは狭い世界で安穏としているのではなく、むしろ色々なものが見えているからこそ、未来を見据えて口をつぐんでいるのではないでしょうか。つまり弱者を代弁しているつもりの勧善懲悪的報道が、一方で若者や弱者に「周りに合わせて空気を読む」ことを強要する文化を植え付けているのです。反対に、監視による抑止力は、ハラスメントを自覚すらしていない方や、社会的地位を十分に確保した「逃げ切り体制」の方々への抑止力にはなりません。自由な発言が許されるそのような「特権階級」が、それを自覚せずに「若者は冒険をしなくなった」「若者は発言をしなくなった」と嘆いていたとしたら──と考えると、釈然としないものを感じてしまいます。負の文化遺産の回収をもちろん若い世代が声を上げない理由はそれだけではないでしょう。高齢化に伴い声高な年長者が増え、常に言い負かされてしまうこと。見通しの立たない不況により自己や自国への肯定感が低くなったこと。SNSの浸透により一億総監視社会に陥っていること…これまでに書かれてきたものだけでも列挙すればきりがありません。重要な点は、それらが全て、私やその上の世代が無意識に作り上げてきた「負の遺産」である、ということです。勝ち組目線からの報道や発信は、そのような負の文化遺産の一つである、と私は感じています。原子力災害やコロナ禍で、私たちは集団で悪を叩くことの危うさを、繰り返し学んできました。目の前の加害者を攻撃することで、むしろ弱い人々が傷つけられてしまう。あるいは穏やかで良心的な方々が口をつぐむ結果、偏った過激な発言が横行してしまう。その学びは、平時に負の遺産を払拭する、一つの足掛かりになるのではないでしょうか。有事からの些細な学びではありますが、私たちが取りこぼしてきた負の遺産を少しずつでも回収するため、今、ここから何かを始める糧にならないか。平時の報道を見ながら、そう感じています。
- 27 Nov 2023
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高レベル放射性廃棄物の処分場をめぐる「コロンブス連載」は解決ヒントの宝庫!
二〇二三年十月二十四日 原子力発電所から出る高レベル放射性廃棄物の最終処分場の選定が難航している。長崎県対馬市の比田勝(ひたかつ)尚喜市長が九月下旬、文献調査に応募しない考えを表明したことで、その難航ぶりがうかがえる。しかし、実は、選定をうまく進める方策のヒントはすでに出尽くしている。いったいどういうことか。提言の宝庫の「コロンブス」 結論を先に言おう。地方を元気にする情報満載の月刊経済誌「コロンブス」(東方通信社発行)に連載されている「原発ゴミの処理と地域振興に関する研究会」の記事(写真参照)のことだ。毎回三~四ページにわたり、処分場の選定を成功させるヒントを数多く載せている。連載は二〇一五年から始まり、今年十月号で96回目を迎える。タイトルにもあるように処分場の選定と地域振興をセットにして論じているのが特徴だ。 最近では、毎回、古川猛・編集長がインタビューする形で、さまざまな分野の専門家や行政関係者の個性的な意見や提言を見事に引き出していく。そこにあるのは、処分場の選定を通じて、地域をいかに振興していくかという視点である。地方の経済を元気にさせる方策のひとつとして、処分場の選定を考えていこうという明確なスタンスがあるため、読んでいて「なるほど、こういうアイデアもあるのか」とうなずくことしきりだ。そして、その論考に対して、複数の専門家がどの部分に共感し、どの部分に問題があるかをコメントするという贅沢な連載だ。新聞の社説はまるで評論家気取り これに対し、処分場の選定をめぐる新聞報道は総じて反対運動の声を大きく取り上げたものが多い。いくら記事を読んでも、何をどうすればよいかのヒントはほとんど見つからない。 たとえば、長崎県対馬市が九月下旬、文献調査の受け入れを拒否したことに関しても、中國新聞の社説(九月三十日)は「カネ頼みの適地選定の限界を認識し、改めるべきだ。多額の原発関連の交付金を得て活性化した地域があるのか。交付金が発展にはつながらないことを多くの自治体は学んでいる」と書いた。北海道新聞の社説(九月二十八日)も「巨額の交付金で市町村を誘導する処分場選定手続きを抜本的に見直すべきだ。...地震国の日本に遠い将来まで地盤が安定した適地など本当にあるのだろうか。」と書いた。 ネットで読める地方紙の他の社説も読んでみたが、どの社説を読んでも、国や自治体のやり方を批判するだけで、処分場の選定をどう進めるべきかに関する提言やアイデアは全く見当たらない。まるで他人事意識の評論家のような論調だ。北海道新聞の同社説は「地方振興の政策と処分場の選定は切り離すべきだ」とさえ主張している。交付金もダメ、地域振興も考えるな。いったい何を言いたいのだろうか。地域の振興や発展につながらない処分場を受け入れる自治体があるとでも言うのだろうか。 批判することはたやすい。それに比べ、困難な状況を打開する建設的な提言は、はるかに知的な営みを必要とする。上記のような社説の言い様は以前からの社説と同じ内容であり、新鮮味がないばかりか、蓄積された知的な営みも全く感じられない。熱く語る大学生に耳を傾けたい これに対し、コロンブスの連載記事はどうか。事態をなんとか解決しようとする真摯な提言と斬新なアイデアに満ちている。上記の社説とは正反対で、読んでいて胸が熱くなる。 第79回の連載(二〇二二年六月号)は、東京都市大学理工学部原子力安全工学科4年の橋本ゆうきさんが登場した。橋本さんは原子力発電環境整備機構(NUMO)主催の、第三回私たちの未来のための提言コンテスト「どうする?高レベル放射性廃棄物」で最優秀賞を受賞している。 東京都江東区にある「夢の島」はかつてゴミの最終処分場だったが、いまでは熱帯植物園やスポーツ施設が立ち並ぶ夢の島に変わった。そう言う橋本さんは「原子力ムラというとマイナスのイメージで見られますが、もっと呼び名も含め、地域住民が誇りをもてるようなポジティブなイメージ戦略を展開すべきではないか」と述べる。 そしてさらに、国際原子力機関(IAEA)の廃棄物の定義から、次のように話す。 「放射性廃棄物は、化学的毒性をもつ廃棄物の処分と何ら変わらないので、これまで人類が経験してきた処分の延長線上にあると思う。放射性廃棄物のガラス固化体を地下深くに埋設するという手法は安全性もしっかりと担保できているはずだ。放射性廃棄物を再利用するという形の発想も必要だ。福井県の美浜原子力発電所を見学した際は、地域の人たちが自分たちの歴史や文化を守るという姿勢と心が感じられた。みなの合意形成には原子力に関する基本的な知識の共有も大切だ」(筆者で要約)。 空論的な発想もあるかもしれないが、事態をどう前進させるかに関して、熱き思いが伝わってくる。神恵内村の村長の心情は何だったか 過去には、最終処分に関する文献調査を受け入れた北海道寿都町の片岡春雄町長や神恵内村の高橋昌幸村長も登場した。文献調査を受け入れると国から二十億円の交付金が支給される。高橋村長は現在の公募方式などに対して次のように語っている。 「...二十億円で村民の命を売るのかと批判されてしまう。しかし、たった二十億円で神恵内村を売るつもりはないし、その金額が百億円になろうが、売るつもりはない。日本はこれまで原子力発電の恩恵を受けてきた。高レベル放射性廃棄物をどうにかしなければならないという意識を持っていたので、最終処分場問題に一石を投じるためにも、文献調査を受け入れる必要があると判断した」(筆者要約)。 この連載を読んで、高橋村長の真の胸の内を初めて知った。新聞はこういう心情をなかなか素直に報じない。高橋氏は「村では、文献調査に同意してくださる方のほうが多数を占めているのに、反対の声のほうが大きいこともあって、マスコミは反対意見ばかりを取りあげる」とも言っている。処分場をめぐる新聞記事がいかに偏っているかが分かる。連載をぜひ一冊の本に 九十六回もの連載の内容をここですべて紹介することは不可能だが、ざっと思い出すだけでも、以下のようなものがあった。 「処分場の候補地をエコツーリズムの対象にして、地域振興に結びつけたらどうか」「候補地を名乗り上げてもらうのではなく、国と第三者によって科学的な観点から適性候補地を選定すべきだ」「地層処分と地域振興にかかわれるファシリテーターとしての若い人材の育成にもっと力を入れるべきだ」「ハイテク都市として成功した米国のオースティン市のように、処分場のある地域に研究機関や民間企業を呼び、最先端テクノロジーの町として振興することは可能だ」。 一番新しい96回目の記事では、中澤高師・東洋大学社会学部教授が、放射性廃棄物の地層処分施設を建設しているフィンランドと、文献調査を受け入れた北海道神恵内村の事例を詳しく述べている。日本では経済産業省やNUMOが地層処分事業を推進しているが、フィンランドでは電力会社が推進しているという。 これまでの連載記事をすべて精査すれば、おそらく処分場をうまく選定する方策のヒントは、どこかの連載記事ですでに語られていることだろう。それくらい重厚な内容である。ぜひ、この連載をテーマ別に並べ替えて、一冊の本にしてほしい。だれにとっても、末永く参考にできる良質のテキストになるだろうと確信する。そして、行政関係者やメディア関係者にとっては必読の本となるだろう。出版社の出現を期待したい。
- 24 Oct 2023
- COLUMN
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「社説ワースト3」その後 共通項は「福島への温かい眼差し」の欠如
二〇二三年九月二十七日 福島第一原子力発電所の処理水の一回目の海洋放出が無事終わり、近く二回目の放出が始まる。懸念された国内の風評被害はいまのところ、起きていない。だが、安心は禁物だ。メディアが風評に加担する恐れがあるからだ。以前に書いた「地方紙の社説ワースト3」は、その後、どう変わったのだろうか。いまなお「汚染水」にこだわり このコラムで今年一月、地方紙の社説を取り上げた。ワースト1は琉球新報の社説(二〇二二年五月二十一日)だった。当時、琉球新報は「『汚染水』放出は無責任だ」と主張し、「汚染水」という言葉を使っていた。それから一年余りたった今年七月四日の社説の見出しは「原発『処理水』放出迫る 強行は重大な人権侵害だ」だった。「汚染水」から「処理水」に変わっていた。しかし、中身を読むと処理水という言葉について、「『希釈した汚染水』というのが妥当ではないか」となおも汚染水という言葉にこだわりを見せていた。 さらに、「中国政府の『日本は汚染水が安全で無害であることを証明していない』という批判を否定できるだろうか」と書き、中国政府の心情をくみ取った形で「汚染水」という言葉を使った。やはり何としても「汚染水」と言いたい心情が伝わってくる。 そして、放出が翌日に迫る八月二十三日の社説では、中国の輸入禁止措置にも触れ、「放出開始前の対抗措置は強硬な手段だが、それだけ懸念が根強いのだろう」と書き、ここでも中国の心情に寄り沿うかのような内容だ。さらに「いくら安全だと説明されても、放射性物質が及ぼす影響への恐れは簡単に払拭されない」と書き、海洋放出に納得できない心境を吐露する。 この八月二十三日の社説には、さすがに「汚染水」という言葉は出てこない。ここへ来て「汚染水」という言葉を使い続けると世論の反感を買うと考えたのだろうと推測する。「トリチウムが残る限り汚染水である」と言っていた昨年五月二十一日の社説に比べると、言葉の上では改善された跡が見られるが、社説の論調自体は依然として、海洋放出によって魚介類に影響があるかのようなニュアンスを伝えている。立憲民主党の一部議員と通底 中國新聞はどうか。昨年七月二十四日の社説では「処理水に含まれる放射性物質トリチウムなどが健康被害をもたらす可能性は否定できない。…政府は『原発の排水にも含まれている物質』と危険性の低さを強調するが、体内に蓄積される内部被曝(ひばく)の影響まで否定できるものではない」と書いていた。まるで内部被ばくが起きるかのような論調だ。 一年余りたった今年八月二十三日の社説では、内部被ばくという言葉は出てこないが、相変わらず漁業者の反対を楯に「このまま放出に踏み切れば、将来に禍根を残す」と手厳しい。そして、「約千基のタンクが廃炉作業の妨げになっているのは確かだ」と言いつつも、「政府もIAEAも『国内外の原発の排水にも含まれる物質』と説明するが、通常運転の原発の排水と、デブリに触れた水では比較になるまい。トリチウム以外の放射性物質も完全に取り除けるわけではない」とやはり放射性物質の影響があるかのような主張だ。 「比較になるまい」という突き放した言い方がとてもひっかかる。この言葉から類推すると、中國新聞は「事故を起こした日本の処理水は海外の処理水に比べて危ない」と言いたいことが分かる。立憲民主党の一部議員は「海外の処理水と日本の処理水は異なる」という理由で「汚染水」という言葉を使い続けている。中國新聞は汚染水という言葉こそ使っていないものの、立憲民主党の一部議員と相通じる思考をもっていることが分かる。説明責任はメディアの側にある 中國新聞は九月四日の社説でも処理水問題を取り上げた。「処理水を巡っては、国際原子力機関(IAEA)が「国際的な安全基準に合致している」と評価したと殊更に強調するだけでは、好転しない。トリチウム以外の放射性物質も含まれる点や、その長期的な影響など、重ねて検討が必要な要素は多い。海洋放出が妥当なのかを検証しつつ、責任を持って説明を続ける姿勢が日本政府には求められる」と書く。処理水という言葉を使っているものの、長期的には処理水の影響が人や環境に及ぶかのような内容だ。 海洋放出が妥当かどうかはすでに政府内で検証され、政府は幾度も海洋放出の妥当性に関する説明を行ってきた。いまこの時点で中國新聞が「海洋放出が妥当ではない」と主張したいならば、その根拠を示す説明責任は中國新聞の側にある。海洋放出を批判する論説があってもよいだろう。だがそれを書くからには、どのような長期的な影響があるかについて科学的なデータを示しながら、詳しい情報を示してほしいものだ。「さすが中國新聞は違う」と科学者を唸らせるくらいの重厚な社説なら大歓迎である。 しかし、ただ脅すような言葉を並べているだけの主張では、福島産の魚介類に悪いイメージ、つまり風評被害をもたらすだけだ。海洋放出は社会的合意の問題 佐賀新聞はどうか。昨年七月二十三日の社説では、処理水について「トリチウムなど取り切れない放射性物質が含まれる汚染物質であることに変わりはない」と書き、さらに「海洋放出に関してより重要なのは、これらの科学的、工学的な評価ではなく、社会的な合意という問題だ。東電は『地元の合意なしには放出はしない』としている…」と書いていた。 約一年たった今年八月二十三日の社説では、昨年の「地元の合意なしには放出はしない」という部分が「関係者の理解なしには、いかなる処分も行わず…」となり、誤りだった「合意」は正しい「理解」という言葉に訂正されていた。ただ、どの読者もそうした知らぬ間の訂正に気づいていないだろうと思う。筆者は昨年と同じ共同通信の論説委員だ。 今回の社説は東京電力と政府への批判が大半を占めた。「…詳細な科学的、技術的な議論もないまま、三百四十五億円もの国費を投じて建設された凍土壁の効果も限定的だ。今回、過去の約束をほごにせざるを得なくなった最大の原因は、政府や東電が長期的なビジョンなしに、このようなその場しのぎの言説と弥縫(びほう)策を繰り返すという愚策を続けてきたことにある。…被災者の声を無視した今回のような事態を目にし、復興や廃炉を進める中で今後なされる政府や東電の主張や約束を誰が信じるだろうか。首相は今回の決断が将来に残す禍根の大きさを思い知るべきだ」。 海洋放出の問題は社会的合意の問題だとして、政府や東京電力の姿勢を批判するのはよいとしても、問題が科学的な評価ではないというならば、海洋放出に反対ではあっても、「福島産の魚介類に風評を起こしてはいけない。食べて応援しよう」くらいの一文があってもよさそうだが、この社説からは福島への温かい心情が全く伝わってこない。 不思議なことに同じ佐賀新聞でも、九月八日の社説は同じ処理水を論じていながら、論調はかなり違っていた。日本からの水産物の全面輸入禁止措置をとった中国に対して、「今回の中国の措置は、科学的根拠を欠き、貿易によって圧力をかける「経済的威圧」で、責任ある大国にふさわしい振る舞いにほど遠い。日本側が即時撤回を要求したのは当然だ。交流サイト(SNS)をきっかけに、中国から日本への嫌がらせ電話が殺到したのも常軌を逸しており、それを抑えようとしなかった中国指導部の姿勢も合わせ〝嫌中感情〟が増幅した…」と書いた。最後の筆者名を見ると、先に紹介した2つ(昨年七月二十三日と今年八月二十三日)の社説とは異なる記者だと分かった。同じ共同通信でも筆者が違うと、こうも論調が違うのかと驚くばかりだ。福島への温かい眼差しが見えない 今年一月のコラムでも書いたように、地方紙はおしなべて海洋放出に批判的なトーンが目立つ。北海道新聞は社説(八月二十六日)で「政府は風評被害で水産物需要が落ち込んだ際に、漁業者団体の一時的買い取りや冷凍保管を基金から全国的に支援するという。これでは問題の先送りだ。食卓に並ぶ見込みもつかぬまま金だけ渡すやり方は漁業者の誇りを傷つけよう。人材難に拍車がかかり水産業を衰退させかねない」と書いた。 政府はお金だけを渡すやり方をしているわけではない。各地でさまざまな支援イベントを行い、福島産などの水産物が食卓に並ぶよう努めている。北海道新聞の社説はどう見ても傍観者的である。水産業の衰退が心配なら、新聞社自らが支援キャンペーンをはって、漁業者が誇りをもてるようにすることのほうが大事なのではないだろうか。 地方紙の社説の多くを読んでいて常に感じるのは、すべての責任は政府や東京電力にあり、自分たち(メディア)は関係ないといった傍観者的な立ち位置だ。海洋放出に関して、「汚染」と書けば、結果的に「福島の海は汚染され、そこの水産物は危ない」という差別的なメッセージを送ることになるという想像力が足りないように思う。福島に自分の家族や友人・知人が住んでいたら、軽々に「汚染」と口にするだろうか。結局のところ、福島への温かい眼差しが足りないのだ。これが地方紙の多くの社説に見る最大の問題点だと悟った。
- 27 Sep 2023
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もはや「ポリコレ」扱いの処理水、そのリスクの相場観を知っておこう!
二〇二三年九月十三日 「処理水」か「汚染水」かをめぐって、政治の世界で争いが起きているようだが、この件は立憲民主党代表の一声で決着がついたといえよう。これからは、処理水の海洋放出によるトリチウムのリスクをいかに分かりやすく伝えていくかが課題だ。新聞ではあまり報じられていないリスクの相場観を考えてみたい。泉氏の発言は歴史的な転換点 八月二十四日、福島第一サイト内のタンクに貯蔵されている処理水の海洋放出が始まった。その一連の報道で一番注目したのは、野村哲郎農相(当時)が八月三十一日に「汚染水」と失言したことへの野党の反応だった。立憲民主党の泉健太代表は九月一日の会見で「不適切。今、放出されているものは処理水だ。所管大臣として気が抜けた対応で資質が感じられない」(産経新聞など参照)と批判した。 いつものことながら、岸田政権を批判する狙いで言ったのだろうが、「大臣としての資質が感じられない」という言い方を聞いて、とっさに同じ立憲民主党の中で堂々と「汚染水」と呼んで反対デモを行っている議員の姿が思い浮かんだ。 同じ政党にいる仲間よりも先に与党の大臣に向かって、「汚染水ではない。処理水でしょう」と詰め寄った意義はとてつもなく大きい。個人的には、この泉氏の発言は処理水報道の歴史に残る大転換点だとみている。 敵方の与党大臣に向かって、「資質が感じられない」と言った以上は、「汚染水」と呼んでいる仲間に対しても「あなたたちは議員の資質が感じられない」と言わねば帳尻が合わない。おそらく泉氏は、韓国の野党と一緒になって、処理水の海洋放出に反対するデモに加わっている一部議員に対しても、暗に「資質が感じられない」と内心では思っていたのだろうと勝手に空想をふくらませた(もっとも一部議員から見れば、泉氏の発言のほうが失言だと思ったかもしれないが)。 野村農相の失言に対して、中国政府は「事実だから」と擁護した。だが、さすがに社説で海洋放出反対を書いた主要な新聞でさえも、「野村農相の発言は事実なのだから、謝罪する必要はない。汚染水と呼んでいる一部議員のほうが正しいのだから、泉氏の批判は的外れだ」といった論陣を張ったケースは見られなかった。主要新聞は泉氏と同じく「処理水」に同意したわけだ。 政府を批判する立場の最大野党の立憲民主党代表が「処理水だ」と断言(お墨付きを与えた)してくれたおかげで、もはや「処理水」は最近のはやり言葉で言えば、良い意味でポリティカル・コレクトネス(直訳すると政治的正しさ=ポリコレ)並みに昇格したと言ってよいだろう。九月八日に開かれた衆参両院の閉会中審査で野村農相が再度、謝罪した際に野党から追及がなかったことを見ても、もはやポリコレ確定となったようだ。 泉氏の発言は、野村農相の失言がなかったならば、聞けなかった可能性が高い。その意味では野村農相の失言は、泉氏の歴史的な発言を引き出した点において、偉大なる怪我の功名といえよう。 泉氏の発言とそれを批判しなかった主要新聞のおかげで今後、言論と政治の世界では「処理水」は確たる言葉として流布していくだろうと予測する。トリチウムは核実験で一九六二年がピーク とはいえ、メディアに身を置く私としては、一部議員や記者、市民が「汚染水」だと公言すること自体は言論の自由があり、認めたい。発言まで禁止したら、それこそ自由のない、どこかの独裁国家と同じ三流国家になってしまう。大事なのは、汚染水だといっている人たちの言動に煽られないことだ。 では、海洋放出に伴うトリチウムのリスクを分かりやすく伝える方法はあるのだろうか。ここで大事なのは、リスクのおおよその大きさをイメージできる「リスクの相場観」をもつことである。 そこで紹介したいのが、二枚の図だ。ひとつは、環境省がホームページの「第2章 放射線による被ばく 身の回りの放射線」という解説欄に載せている「トリチウムの放射性降下物の経時的推移」と記された図だ(図1)。これを見ると、中国などが核実験を盛んにやっていた一九五〇年代~六〇年代には、いまとは比べものにならないくらいに、トリチウムを含む放射性降下物が地球全体に降り注いでいたことが分かる。トリチウムによる個人の平均被ばく線量がピークに達したのは一九六二年で、その量は七・二マイクロシーベルトに達していた。当時は、放射性セシウムやストロンチウムなども環境中に放出されていた。 一九六二年と言えば、東京オリンピックが開かれる二年前だ。愛知県犬山市に住んでいた私は小学五年生だった。学校の先生や親から「雨に当たらないように。髪の毛が抜けるから」と言われていたのを思い出す。当時はトリチウムが雨に混じって落ちていたのだ。現に一九六三年には、降水中のトリチウムの濃度が一リットルあたり百ベクレルを超えていた(日本原子力学会誌「アトモス」Vol.60など参照)。また、私たちはいまよりも濃度の高いトリチウムが含まれた飲み水を飲んでいたのだ。 その後、個人の被ばく線量は少なくなり、一九九九年になって、ようやくピーク時の七百分の一の〇・〇一マイクロシーベルトに下がった。つまり、私のケースで言えば、生まれてから高校を卒業(一九七〇年)するまで、いまよりもはるかに多いトリチウムにさらされていたということだ。核実験でも悪影響はなかったようだ では、一九六二年のピーク時に浴びていた七・二マイクロシーベルトとは、どれくらいの大きさだったのだろうか。資源エネルギー庁によると、福島第一の処理水が海に放出されたあとの被ばく線量は、多めに見積もっても、おおよそ〇・〇二マイクロシーベルト(〇・〇〇〇〇二ミリシーベルト)と推計されている。私が子供のころに浴びた七・二マイクロシーベルトは、その約三六〇倍にあたる。 ちなみに、〇・〇二マイクロシーベルトは、私たち日本人が自然界で浴びている自然放射線(宇宙線やラドン、大地、食物など)からの被ばく量(約二・一ミリシーベルト)のおおよそ十万分の一前後に過ぎない。処理水放出によるトリチウムのリスクがいかに小さいかが分かるだろう。 核実験で降り注いだトリチウムの影響について、環境省は同ホームページ(二〇二一年三月三十一日更新)で次のように解説している。 「トリチウムの公衆被ばくの影響に関して、これまでの疫学研究からは、トリチウム特有のリスクは確認されていません。また、一九六〇年代前半の核実験が盛んな時期以降においても、小児白血病の増加が認められていないことより、トリチウムの健康リスクが過小評価されている可能性は低いとされています」。 核実験の影響をもろに受けた私は幸いながら、新聞社を退職(二〇一八年)するまで健康を害することもなく、仕事を全うすることができた。「当時のトリチウム濃度が高かったのだから、いまの程度なら我慢すべきだ」と受忍論を主張しているのではない。海洋放出後のトリチウムのリスクを知る上で、過去の状況を知ることは、リスクの相場観を持つのに役立つのだということだ。イオンの自主基準は七千ベクレル もうひとつの図は、流通最大手イオンが公表している図だ(図2)。「福島鮮魚便」と称して、福島県内で水揚げされたヒラメなどを積極的に販売しているイオンは八月下旬、「これからも福島県産水産物を応援してまいります」とコメントしたうえで、トリチウムの自主検査を実施して、その結果をサイト上で公開すると公表した。 注目したいのは、国際的な基準よりも厳しい「自主基準」を設定した点だ。その自主基準を超えた場合には販売を見合わせるという。 イオン独自の自主基準値は、一リットルあた七千ベクレルである。世界保健機関(WHO)の飲料水に関する一リットルあたり一万ベクレルよりも低い。魚に含まれる水分をどのように測定して検査するかまでは分からないが、イオンのホームページによると、仮に七千ベクレルを毎日摂取し続けたとしても、国際的に安全管理目安とされる年間 一ミリシーベルト(追加被ばく線量)の十分の一になるよう設定したという。つまり、イオンの自主基準はより安全サイドに立った数値といえる。公開された図では、国際的な基準値と自主基準値と魚介類のトリチウム濃度の数値が視覚的に分かる。 これまでに福島県沖で検査された魚介類のトリチウム濃度はいずれも検出限界(百ベクレル)以下である。食品に関するトリチウムの公的な基準値はない。イオンが自主基準を設定して安全な魚介類を提供することは、消費者に安心感を与える上でもその意義は大きい。 東京電力は処理水に含まれるトリチウムの濃度を一リットルあたり千五百ベクレル未満で放出している。イオンの自主基準と比べても低いことが分かる。これもリスクの相場観を知る上で参考になるのではないか。
- 13 Sep 2023
- COLUMN