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「脱石炭」は日本経済の破滅への入り口だ(下)
「みんなちがってみんないい」童謡詩人、金子みすゞ(1903-1930年)が作った「私と小鳥と鈴と」に出てくる有名な一節。いま脱石炭火力問題を考えるうえで大事なのは、この一節である。子育てや人材育成にかかわる人なら、だれしも「そうだ」「そうだ」とうなづくはずだ。国のエネルギー政策にも同じことが言えるはずだ。それぞれの国がそれぞれの地政学的な特徴や条件に応じて、それぞれ自国の利益にかなうエネルギーの組み合わせ(ベストミックス)を選択すればよいという考えに対して、おそらく大半の人は同意するだろう。フランス、ドイツ、英国、米国、中国、ロシアの6国のエネルギー政策を見みてみよう。どの国も自国の利益に従い、「みんなちがってみんないい」を実践している。世界で猛威を振るう新型コロナに置き換えてみれば、都市封鎖を行わず、経済を優先させたスウェーデンのような国があってもよい。同じようなことをエネルギー分野で日本が実行できないはずはない。しかしながら、こと石炭の話になるとメディアや政治の世界はまるで一色の論調がはびこる。新聞やテレビを見る限り、その背景には「石炭火力をやめても、太陽光や風力など自然エネルギーでなんとか賄える」という再生可能エネルギーへの過度の期待、楽観視があるのではと思う。自然エネルギーは「火力寄生」と呼びたい政府の第5次エネルギー基本計画では再生可能エネルギーを主力電源にすることが明記されている。だが、そもそも太陽光や風力は天候次第で稼働したり、休んだりで自立したエネルギーとはとても言えない。石炭やガスなど火力発電をあてにした寄生的な電源だということだ。再生可能エネルギーという言葉ではその本質は伝わらず、「火力寄生エネルギー」と呼んだほうがより事実に近い。この寄生性が国民に正しく伝わっていないために、石炭火力を全廃しても大丈夫といったイメージが流布しているように思う。また、太陽光や風力は需要に応じて出力を自在に制御できない欠点をもつ。このため、太陽光や風力が増えれば増えるほど、そのしわ寄せを食う火力発電は無理な調整運転を強いられる。そのことが火力発電所の経済性を悪化させ、火力発電所の寿命を短くするというような話は非常に重要なことではあるが、専門紙を除き、一般の報道ではほとんど報じられない。世界を見渡せば、再生可能エネルギーが普及している国ほど電気料金は高い。一般家庭にとっては、電気料金が多少上がっても、節約でやりくりできるだろうが、電力をたくさん使う化学や鉄鋼産業にとっては、電気料金の高騰は国際競争力を維持するうえで致命的な弱みとなる。そういう大事な側面も一般の人には意外に知られていない。世界が石炭火力から撤退するなら、むしろチャンスださらに気になるのは、脱石炭火力に関する新聞やテレビの論調で、脱石炭を加速させる欧州に対して、日本は出遅れているという言い方が目立つことだ。新型コロナの死者数を見れば分かるように、欧州が常にお手本とは限らない。エネルギー問題で欧州路線が正しいという保証はどこにもない。経産省の脱石炭方針の公表に対して、日経ビジネス(7月20日)は「『石炭火力休廃止』宣言の真意、エネルギー専門家の橘川氏が読む」と題したインタビュー記事で、橘川武郎氏の「高効率の石炭火力維持が本質ではないかとみています」との声を載せた。どのみち、環境市民団体も専門家も「日本は石炭火力維持だ」とみているのだから、堂々と「日本は、長期的には脱炭素社会を目指していくが、しばらくは日本が世界に誇る高効率の石炭火力をこれからも維持していきます。それが日本の国民の命、経済を守るエネルギー政策だ」と宣言すればよいのに、なぜ、そうしないのか。表向きは「脱石炭に向かっています」と言いながら、実は「高効率の石炭火力を維持する路線です」という言い方は、石炭火力の重要性を伝える点でリスクコミュニケーションの失敗である。石炭火力の重要性を強調する専門家は多くいるのだから、世間に媚を売る必要はなく、市民団体から批判されたら、逆に石炭火力の重要性を訴えるチャンスだと、なぜ思えないのだろうか。国やエネルギー産業界は論戦で勝つ自信がないのだろうか?と勘繰ってしまう。暴論と言われそうだが、欧米が石炭火力から手を引くならば、それはむしろ日本にとっては、高性能の石炭火力を世界に広めるチャンスでもある。他国と同じことをやっていては、世界の競争には勝てない。「みんなちがってみんないい」路線は最新高性能の石炭火力で勝負するチャンスでもある。中国が漁夫の利このまま安易に欧州の流れに乗って石炭火力を全廃してしまえば、中国が漁夫の利を得るのは火を見るよりも明らかだ。高性能の石炭火力の輸出に対して「東南アジアでは日本が建設を協力する発電所の地元住民から、環境汚染への不安から反対運動をしている例もある。政府に求められているのは、完全な撤退である」(一部要約・朝日新聞・7月12日の社説)という他人事的な論調もあるが、それを言うなら、ぜひ中国政府にも強く言ってほしいものだ。今後、原子力の十分な再稼働が見通せない中で何か危機的な状況が発生したときには石炭火力の出番(東日本大震災後に活躍したように)が十分に考えられる。にもかかわらず、日本の金融機関までが石炭火力への融資から手を引く動きを見ていると、いよいよ日本経済も破滅の入り口ではないかと素人ながら悲観的予感がよぎる。これが私の妄想でなければよいがと祈る。「あのとき石炭火力を残せばよかった」で済むか最後にもうひとつ、異論が出そうな見方かもしれないが、世の中は「人為的なCO2(二酸化炭素)の排出が地球温暖化の最大の原因だ」という大前提で石炭火力を廃止する方向で動いているが、もしCO2が温暖化の主因でなかったらとしたら、という別のシナリオも考えたうえで、石炭火力を残すかどうかも議論したほうがよいように思う。未来は常に不確定だからだ。石炭は石油と異なり、複数の国から安定して確保でき、熱量あたりの輸入価格も化石燃料の中ではもっとも安い(資源エネルギー庁ウェブサイト)という事実をもっと国民に知らせることが必要だろう。私が言うよりも、エネルギー問題の基本的なことは資源エネルギー庁のウェブサイトに書かれている。食のリスクや健康の問題を科学的に知るうえで食品安全委員会や厚生労働省、農林水産省、国立医薬品食品衛生研究所など公的機関のウェブサイトが欠かせないように、資源エネルギー庁のウェブサイトをもっと国民に読んでもらうよう広報活動を強化することも必要だろう。エネルギー問題の専門家でもない私があえて大仰な見出しで石炭火力問題に触れた訳は、石炭火力を全廃するかどうかが、日本の将来を左右する天下分け目の戦さだと直感したからだ。
- 25 Sep 2020
- COLUMN
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「脱石炭」は日本経済の破滅への入り口だ(上)
日本の石炭火力発電を取り巻く状況が厳しくなっている。その象徴的な出来事が昨年12月に日本が受賞した「化石賞」。新聞やテレビの報道では不名誉な賞とされたが、私は「名誉ある賞」だと強く言いたい。これは私の偏見だろうが、環境市民団体から賞賛されたら、むしろそのほうが危うい状況だと思っている。「エネルギー自給率が極めて低く、資源もない日本にとって、石炭火力は絶対に必要だ」との独自の戦略、姿勢を日本国民だけでなく、海外にも向けて訴えていくべきだろう。なぜ中国を批判しないのか不思議なぜ、こんな世論を逆なでするようなことを言うかといえば、長く毎日新聞の記者として取材してきた経験からの直感(皮膚感覚)だ。遺伝子組み換え作物や農薬などの問題で環境保護団体と政府、企業、専門家との議論、交渉、確執を見てきた結果、気づいたことが2つある。ひとつは、EU(欧州連合)の政策が正しく、米国や日本は悪という構図だ。もうひとつは、中国の悪口を言わないことだ。この2つは、環境市民団体(幅広く言えば消費者団体)の「思考の癖」といってもよい。国際NGO「気候行動ネットワーク」(CAN)は昨年12月、スペインで開かれたCOP25(気候変動枠組条約第25回締約国会議)で、脱石炭を示さない日本に「化石賞」を贈った。政府を批判することに使命感をもつマスメディアはすぐさま不名誉な賞として報じた。化石賞はロシア、豪州、カナダ、米国、ブラジルなども受賞している。EU(欧州連合)も一度、受賞しているが、受賞の回数(米国6回、豪州5回、ブラジル3回、日本やカナダ2回など)から見て、脱石炭を打ち出すEU諸国の政策が正しく、米国や日本は温暖化問題の解決に消極的だというイメージをマスメディアはふりまいている。いくら中国が石炭火力を増やし、二酸化炭素を大量に出そうが、中国に化石賞を贈ることはない。なぜなのか本当に不思議である。このことを見るだけでも、化石賞はどこかイデオロギー臭のするうさん臭さを感じる。中国をかばう賞なら、むしろ名誉ある賞だと思ったほうがよいと皮肉を言いたくなる気持ちもお分かりいただけるだろう。EUの政策が正しいお手本?この2つの思考癖については、もちろん、細かく見れば、例外的な現象は多々あるだろうが、ことあるごとに環境市民団体は「EUでは遺伝子組み換え作物の表示に厳しい」「EU並みにゲノム編集食品も遺伝子組み換えとみなすべきだ」「日本もEU並みに残留農薬の基準値を厳しくすべきだ」「EUはホルモン剤を使用した米国産牛肉の輸入を認めていない。日本も見倣うべきだ」「EUは家畜の福祉に熱心だ」などとEUの政策、価値観を正しい基準とみなして、日本や米国を批判している。農業の世界でも同様の癖が見える。日本の生産者(国や県の研究機関も含む)が知的財産権をもつ高級ブドウやイチゴが知らぬ間に中国や韓国で無断栽培される事件が相次いだ。韓国のイチゴの9割近くは日本の品種がもとになっているというから驚く。そこで農水省は今年、種苗法を改正して、生産者の自家増殖に対し開発者の許諾を必要とし、開発者の知的財産権をより守ろうとしたが、環境市民団体は「海外の巨大企業に日本の種子が支配される」などの理由で反対し、今年夏、法案改正は先送りになった。市民団体は中国や韓国を非難するのではなく、日本政府や米国の多国籍巨大企業を批判するという妄想に近い反対運動がマスメディアを賑わした。こういうEU理想主義、反米反日の特徴はゲノム編集など農業の世界だけかと思いきや、最近のエネルギー報道を見ていると、脱石炭を打ち出し、太陽光や風力など再生可能エネルギーを積極的に増やしているEUが正しく、それに比べて日本は遅れているという論調ばかりが目立つことに気づく。日本とEUは地政学的に異なる存在エネルギー問題に詳しくない私でさえ、少し考えれば分かるように、日本とEUの置かれた状況は地政学的に全く異なる。環境市民団体がほめそやすような政策を日本が真に受けて実施していけば、おそらく日本の国益が損なわれ、いずれエネルギー危機に襲われる経済的地獄が待っているだけだろう。資源のない日本の国民(もしくは国家)にとって、絶対にはずせないエネルギー供給の大原則がある。それは以下の5つの原則だ。エネルギーの安定供給エネルギーの安全保障(供給が途絶しないような安全保障政策の確立)コストの低いエネルギー資源の確保環境に大きな負荷を与えないエネルギーの組み合わせの確保世論の支持が得られるようなエネルギーの安定確保策この原則は、どの国も生きていくうえで必要な糧なので、EUにもあてはまるだろう。しかし、EUが脱石炭を進めるのは自国の利益にかなうからであり、また自国の産業を育成するためでもある。決してEUは地球の問題を解決するために犠牲的精神で脱石炭を進めているわけではない。脱石炭火力を進めても、さほど自国経済に打撃がなければ、再生可能エネルギーによる発電を進めていくだろう。EUは陸続きゆえに変動の激しい太陽光や風力エネルギーが余った場合には、お互いに余剰電力を融通し合うことが可能だ。しかし、海に囲まれた日本はそうはいかない。マスメディアは何かとドイツのエネルギー政策を理想視するが、中国に大量の車を輸出するドイツは、中国経済に極めて強く依存しているだけに、中国の悪口を言わない。中国を忖度しながら、自国の利益に沿ったエネルギー政策を進めているだけであり、ドイツと日本は置かれた地政学的な状況は全く違うことを知っておきたい。情けない新聞の社説今年7月3日、経済産業省は「旧式の石炭火力発電所の9割に相当する100基を2030年までに休廃止する」と発表した。この発表に関する主要新聞の見出しを見た人の多くは、「ついに日本も世界の流れにのって、脱石炭に向かうのか」と思ったに違いない。ところが、これに対し、環境市民団体「気候ネットワーク」(日本)は7月6日、「脱石炭にはほど遠い『石炭の長期延命策』であることが鮮明に」との見出しで反論をホームページに載せた。この気候ネットワークの分析結果を見て、私はむしろホッとした。日本ではこれからも石炭火力が生き残っていくのだという方向性が見えたからだ。この点に関して情けないのは各種新聞の社説だ。「気候ネットワーク」の代理弁護人かと思われるほどのオウム返しだ。読売新聞と産経新聞を除き、ほとんどの社説は共同通信社も含め、「石炭依存をやめられない日本は世界で厳しい批判を浴びてきた」「石炭火力の全廃が国際社会の一員としての務めである」「石炭火力の輸出から早急に手を引かねばならない」といった調子だ。要するに「世界の潮流に乗り遅れるな」というEU迎合的な評論家的スタンスだ。こういうスローガンだけのきれいごと社説を見ていると、かつての民主党政権のスローガン政治を思い出す。理想やスローガンを掲げれば、エネルギーが天から降ってくるとでもいうのだろうか。こういう社説は一種の念仏論だ。エネルギーの安全保障、安定供給には、そのエネルギーを海外から調達する(莫大な外貨がいる)ための涙ぐましい民間産業の育成、競争力の維持が必要である。石炭は石油と異なり、中東に依存していない。政治的にも安定した豪州をはじめ、インドネシア、ロシア、カナダなどから輸入できる。資源確保のうえでリスク分散は基本中の基本である。日本の産業や市民の生活にエネルギーを供給する構成も、石炭、石油、ガス、水力、原子力、自然エネルギー(太陽光や風力、バイオマス)を分散して確保していくのが、これまた基本中の基本である。特定のエネルギー源に依存し過ぎると、いざというときの備えに弱い。マスメディアと環境市民団体は、仮に日本がエネルギー危機に見舞われてエネルギーが途絶しても、その責任をとってくれるわけではない。環境市民団体やメディアは、国の富を創り出すことにほとんど関心がない。また富を創り出す具体的な政策案にも関心がない。エネルギー供給確保のリスク分散から見て、石炭火力を確保しておくのはごく常識的なことのように思えるが、マスメディアの思考は違うようだ。実は、石炭火力が必要な理由として、まだ触れていない重要なことがある。それが何かを後編で述べてみたい。(次回に続く)
- 02 Sep 2020
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コロナ報道に見る「見える死」と「見えない死」
新型コロナウイルス感染症(COVID-19)の拡大の勢いがようやく収まってきたようにみえる。これまでの報道(以下、略してコロナ報道)を見ていて、死が「平等」に報道されていないことに気づく。ある特定の死だけに過大な関心を向け過ぎると、知らぬ間に他の死亡リスクが増えていることもありうる。新型コロナウイルスによる死亡数は他の死亡リスクと比べて、どれくらい多いのだろうか。「子宮頸がん」の死亡者は新型コロナウイルスより多い若い女性で増加傾向にある「子宮頸がん」はウイルス(ヒトパピローマウイルス)感染で起きる。新型コロナウイルスとは異なるウイルスとはいえ、ウイルスによる感染という点では同じだ。その子宮頸がんで毎年約3,000人が死亡している。1日あたり8人だ。しかも毎年、約1万人が子宮頸がんにかかり、子宮を摘出する手術を受けている。1日あたり27人だ。新型コロナウイルスによる死亡者の数は5月17日時点で756人。子宮頸がんの死亡者数のほうがはるかに多い。きょうも明日も、子宮頸がんでだれかが死ぬだろうが、報道はゼロだ。「死」というものがみな平等な価値をもつというなら、そして年間3,000人という死亡者数の多さなら、コロナ報道と同様に報道されてもおかしくないはずだが、なぜか報道はほとんどない。子供の自殺は深刻みなさんは、子供の自殺が年間どれくらいあるか、お分かりだろうか。驚いてはいけない。警察庁と厚生労働省の調査によると、2019年の10~19歳の未成年者の自殺は659人にも上る。新型コロナウイルスによる死亡者数(756人)と大して変わらない。深刻なのは、10代の自殺者数は年々じわじわと増えていることだ。新型コロナウイルスによる死亡者は高齢者が中心なのに対し、これら10代の死亡は日本の未来を担う若い命だ。同じ命とはいえ、その重みは大きい。しかし、10代の自殺が毎日2人程度あっても、その都度報道されることはない。これが見えない死亡だ。報道される死亡は、無数の死のほんの一部に過ぎない。日本国内で起きている「死」は何も子宮頸がんや子供の自殺に限らない。それこそ無数の死が日常的に起きている。「無数の死亡」は全く報道されないでは、どんな死亡がどれくらい発生しているのだろうか。厚生労働省の人口動態統計(2018年)によると、日本全国の死者の総数は男女合わせて約136万人に上る。その内訳をみると、がん(腫瘍)が約38万6,700人(約28%)、次いで心血管・脳血管疾患が約35万2,500人(約26%)だ。驚くのは、新型コロナウイルス感染症と同じ分類に相当する呼吸器系疾患(肺炎、インフルエンザ、急性気管支炎、喘息など)による死亡者が約19万1,356人もいることだ。19万人といえば、1日あたり520人の死だ。新型コロナウイルスによる死亡者数は2月~5月半ばまでの累積で約800人だ。従来の呼吸器系疾患で死ぬ人はたった1日で平均500人もいるから、こちらのほうがはるかに多い。しかし、そのような死亡は報道されない。このほか、ウイルス感染という点では同じのウイルス性肝炎(B型とC型)による死亡者は年間3055人もいる。これも新型コロナ感染の死亡者より多い。いうまでもなく、ウイルス性肝炎による死亡が報道されることはない。しかし、これだって、もし毎日ウイルス性肝炎での死亡者を詳しく報じれば、おそらく人々の関心は高くなるだろう。さらに他の死亡例をみていこう。2018年の1年間の自殺者数は約2万人。1日あたり55人だ。交通事故死は4,595人。驚くべきことに転倒・転落・墜落で9,645人も死んでいる。さらに不慮の溺死だけでも8,021人も死んでいる。自殺、交通事故死、転倒、溺死、どれをとっても、新型コロナウイルス感染による死亡者よりもはるかに多い。しかし、だれも関心を示していない。特殊なケースを除き、報道されることはほとんどないからだ。同じ「死」でも価値は異なるこれらのどの無数の死も、それぞれの当事者、家族にとっては例外なく、痛ましいドラマ、悲嘆、挫折、絶望が伴うだろう。しかし、現実にはどれもニュースにはならず、どの死もみな人知れず忘却に消えていく。では、なぜ新型コロナウイルスの死亡だけはこれほど大きなニュースになるのだろうか。それは、新型コロナウイルスで死んだ場合にはニュース性があるからだ。どの死の価値にも差はないはずだが、報道(ニュース)の世界ではニュース性という視点が加わるため、「死」は偏った形で伝えられる。恐怖が死の価値を高めるでは、なぜコロナ報道ではバランスの良い「死の報道」が存在しないのだろうか。その鍵は「恐怖心」にある。ハーバード大学ロースクールのキャス・サンスティーン教授が著した「命の価値」(勁草書房)がそのヒントを与えてくれる。サンスティーン教授は米国司法省勤務などを経て、2009~2012年、オバマ政権のもとでホワイトハウス情報規制問題局(OIRA: Office of Information and Regulatory Affairs)局長を務めた行政経験豊富な法学者だ。サンスティーン教授は同著「命の価値」(第7章)で人々の「恐怖」がいかに思考停止、確率無視の行動に導くかを述べている。その恐怖状態の心理の特徴を3つ挙げている。ひとつ目は「多く報道された出来事は、非現実的なほどふくれ上がった恐れを引き起こす」という点だ。ある特定の死亡事例(怖い現象)が来る日も来る日も、あらゆるマスコミで報道されれば、人々の恐怖心はいやがうえにも膨れ上がるだろう。2つ目の特徴は、「人々は馴染みのない、コントロールしにくそうなリスクについては、不釣り合いなほどの恐怖を示す」という点だ。3つ目は、人々の間で「感情が強く作用しているときは、人々は確率無視の行為に及ぶ」という点だ。人は感情的になると確率を無視した行動に出るわけだ。国民が極度に感情的になった例は過去にたくさんある。9.11の同時多発テロのあと、新型インフルエンザ(2009年)が大流行したとき、何度かあった大災害や大森林火災のあと、中国産輸入品の残留農薬問題のあと、BSE(牛海綿状脳症)が発生したあと、子宮頸がんなどを予防するHPVワクチン接種後に起きた諸症状の報道のあと、などが思い浮かぶ。そういう大事件・大事故・大災害のあと、人々の恐怖心は頂点に達する。米国の同時多発テロのあと、人々は飛行機を恐れ、車に乗り換えた。その結果、車による事故死の件数が以前より増えたという例はあまりにも有名だ。この副作用ともいえる交通事故死の増加はあとになって統計的な死亡数として分かるまでだれも気付かない。人は恐怖心に怯えると低い確率を無視し、結果的に高いリスクのほうを選んでしまう場合が生じうるということだ。これが死のトレードオフ(何かを得ると別の何かを失う二律背反の関係)である。東日本大震災に伴う福島第一原子力発電所事故のあと、放射線による死亡リスクよりも、あわてて避難したことによる死亡リスクのほうがはるかに高かったのも、この例にあたるだろう。同じ死亡でも、「いま見える死」と「今は見えない死」があることが分かる。「恐怖」は世界を一瞬で伝わる確かに新型コロナウイルスによる死亡は恐怖を呼び起こす要素に満ちている。馴染みがなく、コントロールもできず、予測不能な振舞いで有名人をあっという間に死亡させる怖さ。まさに「新奇のニュース性」に富む要素を備えている。しかも、いまはインターネットの時代。世界中の人が恐怖におののく光景を、世界中の人々がリアルタイムで見ている。恐怖はインターネットを通じてウイルスよりも早く伝染する。恐怖心は飛行機よりも速く、そしてウイルスよりも速く伝わることが今回の惨劇で証明された。経済活動の縮小で自殺増加の可能性しかし、冷静に考えてみれば、大切な人を失った家族や友人にしてみれば、ことさら新型コロナウイルス感染による死だけが悲しみや嘆きの対象なわけではない。新型コロナウイルス感染による影響で職を失い、収入の道を絶たれ、だれかが自殺したら、その家族は新型コロナウイルス感染以上の悲しみに暮れるだろう。家族や友人から見れば、どの「死」も等価だからだ。新型コロナウイルスによる死亡だけを減らそうとすると、いつか目に見えない副作用が襲ってくる。4月30日朝、TBS「グッとラック」で藤井聡・京都大学教授は「このままだと1年後にコロナが収束しても、その後の20年間で自殺者が14万人増える」と話していた。経済の悪化で自殺者が増えるという試算だ。現在の年間の自殺者は約2万人。その数に7,000人が加わる計算だ。この7,000人の予測数は、新型コロナウイルスによる死亡者数(756人 5月17日現在)よりはるかに多い。経済悪化による悪影響は自殺に限らない。失業、貧困、盗難や強盗などの犯罪、会社倒産、精神的ストレス、家庭内暴力、虐待、教育格差などさまざまな副作用を生むだろう。人の命を支えているのは医療経済資源(医師関係者や医療器具、病院、医療制度など)だけではない。もろもろの経済活動もまた人の命を支えているという事実を忘れてはいけない。もちろん新型コロナウイルス感染を抑えることは重要だが、メディアの立場としては、今後の10年間も見据えた時系列的な全体の死亡数をいかにして抑えていくか、という視点も忘れないようにしたい。
- 18 May 2020
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日本の新聞は科学的な分析よりも政権批判が優先か!
新型コロナウイルスによる感染が国内外で深刻を極めている。この感染問題に対する日本の新聞報道をどう評価したらよいか、あれこれ考えているうちに、ひとつの重大な特徴に気付いた。科学的なリスクを的確に伝えることよりも、安倍政権への批判が優先している点だ。いわば科学と政治の混同だ。いったいどういうことか。安倍首相を「科学軽視」と批判ここでの考察は日頃、安倍政権に批判的なスタンスを貫く毎日新聞と朝日新聞を対象とする。私がまず驚いたのは、安倍首相が2月27日、全国の小中高校の一斉休校を要請したことに対する毎日新聞社の論調だ。毎日新聞社は3月10日付けの社説で「首相は科学的分析尊重を」の見出しで科学的分析という言葉を3回も織り交ぜて科学的分析の重要性を指摘した。その一部を紹介する。「全国の小中高校の一斉休校の要請も、中韓を対象とする入国規制強化も、安倍首相は専門家会議の意見を聞かずに打ち出した。・・科学的分析に基づかない判断は大きな副作用を招く恐れもある。・・政府の対策本部は拙速な判断を避け、科学的分析を踏まえて今後の対応を決めてほしい」日頃、多くの新聞メディアは科学的分析をさほど重視して報道しているとは思っていなかったので、新聞が時の首相に向けて「科学的な分析を尊重せよ」という言論はとても新鮮であり驚きであった。日本が一斉休校を要請した当時、英国は休校措置を取っていなかった。これを受けて、毎日新聞は「英国は入国制限や学校閉鎖の措置を取っていない。科学的な根拠に基づき政策決定しようとする英国とは対照的な(日本の)姿勢に、専門家は『科学が政治に負けた』と憤る」(3月18日付)と書いた。その紙面では英国のジョンソン首相の「スポーツイベントの禁止は、感染拡大防止には効果が小さいというのが科学的助言だ」との言葉も紹介している。メディア自らは科学を重視してきたか?これを読んで、そこまで安倍首相を批判するほど日本の新聞は過去に科学的分析を重視してきたのだろうかと大いに疑問を抱いた。私は毎日新聞の記者(東京本社で1986年〜2018年)として、科学的なリスクにかかわる様々な問題を追いかけてきたが、首相の言説に対して、新聞社が「もっと科学的な分析を尊重せよ」と厳しく迫った論調は記憶にない。この首相への科学軽視批判は、別の言い方をすると「私たちメディアは科学的な分析を重視して報道しているのに、安倍首相は軽視している」という物言いである。では、過去の新聞のリスク報道はどうだったのだろうか。福島第一原子力発電所の事故に伴う放射性物質のリスク。BSE(牛海綿状脳症)の感染リスクと全頭検査。子宮頸がんを予防するHPV(ヒトパピローマウイルス)ワクチンのリスクとベネフィット(便益)。福島第一原子力発電所のタンクにたまるトリチウム水のリスクと放出問題。遺伝子組み換え食品やゲノム編集食品の安全性に関する問題。放射線を当てて殺菌する照射食品の問題。これら一連の問題を振り返ると、政府がいくら科学的な分析・根拠を尊重したリスクを示しても、新聞メディア(もちろん新聞社によって濃淡はある)は、消費者の不安を持ち出したり、異端的な科学者の声を大きく取り上げたりして、常に政府を批判していた。決して科学的分析を尊重してこなかった。新聞はコミュニケーターの役割を果たしていない例を挙げよう。いくら政府の科学者たちがゲノム編集食品は従来の品種改良と変わりなく安全だと科学的に説明しても、朝日新聞や毎日新聞はどちらかといえば(同じ紙面でも社会面、経済面、生活面、科学面でやや異なるものの)、科学的な側面を軽視して、「それでも消費者は不安だ」「本当に安全か」などと書いてきた。もし本当に新聞社が科学的な分析・根拠を重視する姿勢をもっているなら、そうした分析結果を分かりやすく解説して、消費者にしっかりと理解してもらうのが科学者と市民の間をつなぐコミュニケーターとしてのメディアの役割だろうと思うが、そういうリスクコミュニケ—ションはしていない。日ごろは科学をさほど尊重していないのに、安倍首相を批判するときには「科学的な分析を尊重せよ」とカッコよく言われても面食らってしまう。結局、新型コロナウイルスでも、子宮頸がん予防のHPVワクチンでも、メディアは科学的な事実を正確に伝えようとする姿勢、つまり、科学的なリスクを的確に伝えるコミュニケーターとしての役割を果たしていないことが分かるだろう。これはおそらく政府を批判することが記者の使命、記者の正義だと思い込んでいる意識が多くの記者にあるからだろう。もちろん政治の問題で政府を批判することは大いに必要だが、科学的な分野は別のはずだ。緊急事態宣言では科学を度外視!このメディアの政治と科学を混同する姿勢は、3月14日に緊急事態宣言を可能にする新型インフルエンザ等対策特別措置法改正が参議院本会議で可決されたときにも如実に現れた。朝日新聞はさっそく「新型コロナの蔓延時などに、首相が緊急事態宣言を出し、国民の私権制限もできるようになる」(3月14日付一面トップ)と書き、感染拡大を抑えるリスク削減効果よりも、安倍政権による私権制限に危機感を抱かせるようなトーンに重きを置いた。同じ朝日新聞の3月20日付の「耕論」ではコメディアンの松元ヒロさんを登場させ、「独裁的な首相に、こんな権限を与えて大丈夫でしょうか。歴史を振り返ると戦時に歌舞音曲が禁止されました・・」などの見方を紹介した。リスクの問題がなぜ政治の話になるのだろうか。読売新聞が緊急事態宣言を「都道府県知事の行政権限を強めることが可能になる」(3月14日の一面トップ)と解説したのと対照的だ。いま重要なのは新型コロナウイルスの感染リスク拡大をいかにして食い止めるかである。そのような極めて科学的な判断が真剣に試される究極の場面でも、なお時の政権を批判することに重点を置いた論調を展開する。これでは科学を正しく伝えられないのではないか。読者が知りたいのは緊急事態宣言でどの程度感染リスクが削減されるかだ。感染症に対する緊急事態宣言(※旧民主党政権が新型インフルエンザに対してつくった極めて制限の緩い法律を踏襲した内容であることを知っておきたい)は戦前の治安維持法ではない。国民の健康、安全をどう確保するかという極めて科学的な分析を要するリスクコミュニケーションの問題である。それに徹した科学報道を期待したいが、朝日新聞と毎日新聞はどうも政権への批判が優先しているようだ。もちろん大手2紙にも良いところはたくさんあり、このコロナ報道だけで新聞の良し悪しを判断してはいけないことは承知している。ただ、科学と政治の問題を分けて報道することが大事だと強調したい。一斉休校は良い意味で予防原則だった話題を冒頭の科学的な分析の話にもどそう。毎日新聞が安倍首相を批判した当日の3月18日、ジョンソン首相は20日から学校を休校すると発表した。英国の判断のほうが甘かったのである。この休校問題に限れば、安倍首相の唐突な決断が結果的には、科学無視と批判されるような愚かなものではなかったことになる(もちろん、休校にかかわるさまざまな副作用は発生したが)が、それをフォローする記事は出てこない。「科学的分析を尊重せよ」は一時の首相批判に持ち出された道具に過ぎなかったようだ。「一斉休校」という安倍首相の決断は、善意に解釈すれば、科学的な判断が難しい場合に市民団体や野党の議員たちがよく口にする大好物の「予防原則」にのっとったものだった。しかし、嫌いな安倍政権が予防原則を実行するとメディアは「科学的根拠がない」と批判し、安倍首相が予防原則を実行しないときは逆に「早く予防原則を実行すべきだ」と迫る。結局いつも政権批判である。それほど科学的な分析・根拠が大事だというなら、新聞社自らが多数の専門家の意見を聞き、科学的な分析を駆使して、「感染を食い止めるためにはいまこそ、科学的な意味での緊急事態行動が必要だ」と具体的な対策項目を前面に押し出して国民に訴えればよいだろうと思うが、そういうリスキーなことはしない。政府が何をやっても「後手、後手だ」と批判するような野党的な感覚でリスク報道をされたのでは、読者はいつまでたっても的確な科学的情報を新聞からは得られない。福島第一原子力発電所で増え続けるトリチウム水のタンク。安倍首相に「科学的分析を尊重せよ」と訴えた誇り高き姿勢をこの問題でも示してほしいものだ。緊急事態宣言は6日か7日にも出されそうだ。安倍首相は専門家の意見を尊重して、ぎりぎりまで科学的根拠を重視していた。まさか「遅かった緊急事態宣言」と書かないだろうね!
- 06 Apr 2020
- COLUMN
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ゴーン被告「甘い国・日本」から「風と共に去りぬ」
コラムsalonのリニューアルで新しいタイトルを頂いたので、第1弾は風にちなんだ話を、と思っていたところに起きたのが、日産自動車前会長、カルロス・ゴーン被告の大脱走だった。これってまさに風、『風とともに去りぬ(Gone With the Wind)』じゃない?ゴーン イズ ゴーン。保釈条件を一方的に破り、財力にあかせて高跳びしたゴーン被告。保身と傲慢ぶりに腹が立つが、もう一つ腹の立つのが、大脱走で炙り出された「甘い国・日本」である。「甘い国」の“戦犯1号”はやっぱり裁判所だ。「人質司法」との非難を気にして保釈するなら、少なくともカナダで拘束された中国・華為技術(ファーウェイ)副会長の孟晩舟被告のように、GPS(衛星利用測位システム)装着が不可欠だった。ゴーン被告の反発を回避したかったのだろうか。昔、「雑音には耳を貸さない」と言って国民の顰蹙[ひんしゅく]を買った最高裁長官がいた。褒められはしないが、よほど毅然としていた。パスポートの所持を鍵付きケースで許可したのも失笑ものだ。鍵などその気になれば壊せる。壊さないと本気で思っていたとしたら、お人好しで甘いと思う。弁護団もいい加減で、これまたパスポートの管理が甘かった。在日外国人はパスポート携行が義務だからというのだが、保釈中や裁判の間は代替証明書を出せばよい。それにゴーン被告なら顔パスポートで十分では? 杓子定規で融通が利かず、逃亡防止への備えが足りないことは、最近、保釈中の脱走事件の多いことでも分かる。保釈金額15億円の判断も甘かった。保釈金は被告の収入や財産、罪の重さを勘案し、「被告人にとって戻ってこないと困る金額」にするという。そうだとすれば富豪ゴーン被告の15億円は安すぎる。検察は100億円を提示したとか。それでも逃亡したかもしれない。しかし没収された保釈金は雑収入として国庫に入るから、15億と100億では大違い。財政厳しき折り、ちょっと損した感じだ。ゴーン被告を箱詰めしたプライベート・ジェットを易々と飛び立たせた関西空港も“戦犯”を免れない。もし「御用」にしていたら、関空は世界にその名を残したものを、実際は不名誉を残した。運び屋たちは何十回と来日し、日本中の空港を調べた上で関空を選んだという。恐らく同程度の甘い空港は他にもあったに違いないが、地方では目立ちすぎるので避けたのだ。胸をなでおろした空港はどこだろうか。さて、これだけ失策を重ねながら、責任論がどこからも上らず、結局ウヤムヤになりそうなのも、いかにも甘い国・日本らしい。不祥事が露見すると、頭だけは下げる最近の謝罪も安易だが、お詫びもなければ、ないことへの追及もないことの不思議。その点でメディアの報道ぶりも甘かった。逃亡先レバノンでのゴーン被告の自己正当化と偏見に満ちた日本批判を鵜呑みにするような欧米メディアもある中、ここは事実を正確に伝えることがメディアの役割だし、ひいては一矢を報いることにもなる。同様に法務省はじめ政府の対応も甘いと思う。日本のメディアは検察が異例の速さで反論したと報じたが、発信の相手は世界、世界基準でも異例の速さだったのかどうか。日本の情報発信と情報戦略の立ち遅れはかねてから指摘されてきたこと。それが百戦錬磨のゴーン被告が相手で一段と浮き彫りになった。これからも本を書き、映画のモデルになり、手段を選ばず自己正当化を続けるのだろう。ここは日本も、中東の有力メディア「アルジャジーラ」の英語・アラビア語両放送を使い、発信力のある日本人(誰だろう?)が日本の立場や逃亡の犯罪性を主張するとか、レバノン政府と徹底的に引き渡し協議をする等攻勢に出ないと、官庁ホームページの反論程度では、限界は明らかだ。ゴーン被告の逃亡事件に限らず、何事も一見厳しそうに見えて実は抜け穴だらけ、というのが「甘い国・日本」の特徴である。「甘える」に相当する言葉が他の言語にはない、日本人特有の感情であることを指摘した『甘えの構造』(土居健郎著)は、代表的な日本人論として世界にも知られるロングセラーである。それは風土と歴史の中で時間をかけて出来上がったものでもあるから、一朝には改まらないし、必ずしも今、ゴーン被告逃亡事件で見てきたような負の側面だけではない。「甘い国・日本」は一面では優しい、思いやりの社会を形成して来た。ただヒト、モノ、カネが世界を自由に行き交い、異なる価値観の人間が共生する今日、「甘さ」が弱点を孕むことをもっと自覚すべきなのだ。関係当局が、ゴーン被告を「絶対に連れ戻す」気概をまずは態度で示すことが第1歩ではないか。
- 31 Jan 2020
- COLUMN
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危うい「市民ジャーナリズム」 ─ 根拠なき情報に対抗する第三の「プロフェショナル・ジャーナリズム」が必要
ネットの発達で市民が自由にいろいろな意見やニュースを発信する「市民ジャーナリズム」が活発になってきた。しかし、そこには第三者の査読や校閲の機能はほとんど見られない。そういう危うい市民ジャーナリズムに対抗する第三の「プロフェショナル・ジャーナリズム」が必要なときに来ているのではないだろうか。2019年8月、山田正彦・元農水大臣や国会議員の福島瑞穂さんらが集まって、衆議院会館で記者会見が行われた。国会議員を含む29人のうち19人の髪の毛から除草剤のグリホサート(もしくはその代謝物)が検出されたという内容だった。検出された量は0.1 ppm(ppmは100万分の1の単位なので、1グラムの中に1000万分の1グラムの割合)前後の微量だが、議員らは「(水俣病の)メチル水銀と同じように人体に蓄積していく可能性があり、後遺症や障害を起こすという証拠が出ている。禁止すべきだ」と声高に訴えた。検出量は安全な量の1000分の1確かにグリホサートはパンなど一部の食品から検出されるが、これまでの国の調査データ(厚生労働省)によると、日本人が平均的に摂取しているグリホサートの量は、生涯にわたって毎日食べ続けても安全といえる1日許容摂取量(ADI)の1000分の1程度である。安全な量の1000分の1だから、なんら健康上の問題はないと考えられる。しかし、市民団体が標的とする農薬や食品添加物などが、たとえごく微量でも、単に検出されたという事実だけで「危ない」「禁止すべきだ」だと糾弾するのが、こういう「市民ジャーナリズム」の特徴である。こうしたむき出しの情報が、ネット上のブログやヤフーニュースなどで、だれの査読やチェックもなしに拡散しているのがいまのネット時代だ。市民が思うがまま(好き勝手に)に自分のニュースを発信できるのは、ときの権力の横暴を抑える武器となり、自由な言論の象徴とも言える。その意味ではよい面ももっているが、こと科学や医学ににかかわるニュースとなると、おかしな情報を信じた人たちに無益な行動に走らせることにもつながっていく。たとえば、上記の例なら、グリホサートの使用を怖がって、やめてしまう行動がそのひとつである。内閣府食品安全委員会のリスク評価を見てもわかるように、毒性学的に見て、グリホサートほど安全な除草剤(いうまでもなく使用基準を守って使うことが前提)は他にないと思うが、それに怖さを感じた人は、より危ない別の農薬を使うことにもなりかねない。いや現実にそういうことが起きつつある。市民ジャーナリズムは責任なし市民ジャーナリズムは悪く言えば、素人ジャーナリズムだ。間違った情報でだれかに被害を与えても、市民ジャーナリズムは責任をとることはない。そもそも市民は素人なので、科学的に根拠のないことを言っても、その言動によって、責任をとらされることもない。これは考えてみれば不思議な現象だが、いまの市民社会では市民が主人公であり、市民には発言をする権利があり、知る権利があり、自由にものを言う権利がある。それでいて、間違った場合でも、許されるのが市民である。要するに、市民は神様なのである。ある市民(女性)が「長生きしたければ、肉を食べるな」という内容の本を書いてベストセラーになったことがある。食品添加物や白い砂糖などを避ければ、がんを克服できるといった本を書いてベストセラーになった例もある。どちらも根拠なき一個人の主張、体験に過ぎないが、そんなおかしなことをいいふらしても、責任をとらされることは全くない。この本の内容を信じて、まねして、早く死んでも責められることはない。市民ジャーナリズムは無敵なのである。間違っても、非難されないという特権をもっている。その一方、おかしなことを言えば、すぐに世間から悪のレッテルをはられて追放されるのが専門家である。市民は素人ゆえの恐るべきパワーをもっているのだ。原子爆弾はゲノム編集と同じなのか?元農水大臣の山田氏(弁護士)も、一市民であり、科学者ではない。一市民なので自由になんでも言える。山田氏のブログ(9月21日)を見ていたら、インタビューしたカリフォルニア大学のイグナシオ・チャペラ教授の話として、山田氏は最近、注目されているゲノム編集について「100%副作用が出るし、原子爆弾とゲノム編集は全く同じ物です」と書いている。どうみても言論が軽すぎる。人権に配慮するはずの元大臣の発言とは思えない物言いである。自分に都合のよい専門家の話を引用して、ゲノム編集の危険性を広めたい気持ちは分からないでもないが、どうみても原子爆弾を例に挙げるのは原子爆弾の被爆者の心、尊厳を傷つけるものだ。一度に数十万人の生命を奪う原子爆弾と、単なる品種改良のひとつに過ぎないゲノム編集技術を同列に扱うとは、被爆者の生命(いのち)をあまりにも軽く見過ぎる発言にしかみえない。狙った遺伝子を思うように書き換えるゲノム編集技術が、仮に原子爆弾と同じような危険性をかかえているとすれば、医療分野でゲノム編集による治療に取り組んでいる医師や学者は、危険性に全く気付いていない大愚者なのだろうか。ノーベル賞の候補ともいわれるゲノム編集技術で動植物の品種改良に挑んでいる研究者は無学の徒とでもいうのだろうか。このように何を言っても許されるのが市民の強みである。それが市民ジャーナリズムの武器でもある。第三の「専門家ジャーナリズム」が必要これに対し、科学者はそうはいかない。根拠なき言論で市民を惑わせ、市民の気持ちを逆なでしようものなら、「御用学者」「インチキ学者」とレッテルをはられ、世間から追い出される。科学者の世界では査読やピアレビューがあり、おかしな説や根拠なき理論は淘汰されるというメカニズムが働く。だからか、科学者の物言いは慎重になる。「絶対に危ない」とか「100%安全です」とか断定調の言葉を発信することに慎重になるのだ。その結果、なんでも自由にものを言う市民(素人)のパワーに負けてしまう。そして、市民社会では素人が勝ち、専門家が負ける。ゲノム編集や遺伝子組み換え作物、農薬のグリホサート、食品添加物、福島のトリチウム水などに関するネット情報界隈の生態を見ていると、そういう危ういけれど、強い影響力をもつ市民ジャーナリズムの姿がしばしば見える。そうはいっても、市民ジャーナリズムが科学的にどこまで的確なことを言っているかをちゃんと知りたい市民も多いことだろう。しかし、いまのところ、市民ジャーナリズムの言論を厳しくチェックする専門家の集団はほとんど存在しない。専門家による第三のジャーナリズムの出現を期待したい。
- 26 Dec 2019
- COLUMN
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農薬をめぐるバイアス記事の好例
除草剤グリホサートをめぐる恐るべき事態が勃発 ─ 科学者へ、決して他人事ではありません ─悪意に満ちたバイアス(偏った)記事がいまなお健在だという好例の記事を見つけた。知識層が最も好むとされる大手新聞(8月24日付)の朝刊記事だ。グリホサートという除草剤が発がん性や胎児への影響をもたらすと指摘する記事だが、先進国の公的機関は明確に否定している。こういう記事が続く限り、活字メディアはいよいよ専門家から見放されるだろうとの思いを強くする。記事の冒頭の前文は、記事全体の顔だ。まずは、記事の冒頭を以下に記す。──発がん性や胎児の脳への影響などが指摘され、国際的に問題になっている農薬が、日本では駐車場や道ばたの除草、コバエやゴキブリの駆除、ペットのノミ取りなどに無造作に使われ、使用量が増えている。代表的なのが、グリホサートの除草剤とネオニコチノイド系の殺虫剤だ。海外では規制が強化されつつあるのに、国内の対応が甘いことに、研究者は懸念を抱いている。──この前文を読むと、世界中の科学者がグリホサート(製品名ラウンドアップ)という除草剤が、がんを起こすことを認めているかのような書きっぷりだが、事実は全く違う。さらに、同記事は「国内の対応が甘いことに、研究者は懸念を抱いている」と書いているが、私がこれまでに農薬問題を約30年間取材した経験から言って、この種のリスクの問題で「懸念を抱いている」とみられる研究者は100人の科学者のうち、多くて数人だろう。そのたった数人の研究者の異端的な意見を、さも大多数の研究者が抱く懸念かのごとく、記事の前文で報じることに作為的な悪意を感じる。この前文を読むだけで、この記者は科学的で正確な事実を読者に伝えようと努力していないことが読み取れる。米国で恐るべき訴訟同記事にも出てくるが、いまグリホサートをめぐって、米国では恐るべき訴訟が起きている。科学を重視する科学者にとっては、背筋が寒くなるような訴訟ビジネスの実態だ。──どんな訴訟なのか?グリホサートを使っていた市民たちが「白血球のがんになったのはグリホサートが原因だ」とカリフォルニア州地方裁判所に訴訟を起こしたのだ。これまでの3件(2018年8月~2019年5月)ではいずれも原告側の市民が勝訴している。なんとこの3件で陪審員は補償的損害と懲罰的損害を合わせて、約300億円、約80億円、約2200億円(1ドル100円で換算)もの賠償金の支払いを命じた。のちに判事の裁定でそれぞれ約80億円、約25億、約90億円に減額されたものの、途方もない賠償金に違いはない。被告の農薬メーカーは旧モンサント社(現在はドイツのバイエル)。控訴中でまだ決着はついていないが、恐るべきは、同様の訴訟が米国内で18000件以上も起きていることだ。グループ分類の意味訴訟が起きた背景には、2015年3月に国際がん研究機関(IARC)がグリホサートを発がん性分類で「グループ2A」にしたことが大きく影響している。おそらく陪審員たちは弁護士の巧みな論法に説得され、グループ2Aという印籠にひれ伏してしまったのだろうと推察する。しかし、がんのグループ分類は、実際の危険性やリスクの高低とは、全く関係がない。ちなみに、発がん性分類は「グループ1」(発がん性あり)▽「グループ2A」(おそらく=probably=発がん性がある)▽「グループ2B」(発がん性の可能性あり)▽「グループ3」(発がん性と分類できない)▽「グループ4」(発がん性なし)の5段階ある。いうまでもなく、この分類は発がん性の証拠の強さの順番に並んでおり、グループ1はがんの証拠が十分にそろっているという意味だ。そのグループ1には「ダイオキシン」「たばこ」「ハム・ソーセージなどの加工肉」「アルコール」「カドミウム」「ヒ素」などがある。アルコールを毎日、たくさん20~30年も飲み続ければ、がんになるリスクが高くなるという証拠が十分にそろっているという意味だ。逆に言えば、アルコールをときどき適量に飲んでいれば、がんのリスクはゼロに低い。グループ2Aには「熱い飲み物」もグリホサートに反対する市民グループは、このグループ2Aを盾に「グリホサートは発がん性」と主張しているが、実は、その同じグループ2Aには「肉類(鶏肉を除くレッドミート)」、「アクリルアミド」(ポテトフライやト―ストの茶色く焦げた部分などに含まれる)、「65度以上の熱い飲み物」などがある。言い換えると豚肉や牛肉も、外食産業で食べるポテトフライも、毎日自宅や喫茶店で飲む熱い飲み物も、みなグループ2Aである。ちなみにポテトフライに含まれるアクリルアミドは毒劇物取締法では「劇物」に指定されているのに対し、グリホサートは同じ法律で「普通物」扱いだ。これを知るだけで「グループ2Aだから危ないとは言えない」ことが中学生でも分かるだろう。仮にグリホサートの使用者ががんになって、10億円を超す賠償金を獲得できるならば、毎日ポテトフライを食べていて、がんになった人も、ポテトフライを売る会社を相手取って訴訟を起こせば、10億円を勝ちとれるという理屈になる。熱いコーヒーを出す喫茶店からも高額の賠償金をもぎ取れるだろう。すでに察しがつくように、グループ1はグループ2Aよりも証拠がそろっているのだから、アルコールを売る会社やハムソーセージを売る会社にも訴訟を起こして、莫大な損害賠償を勝ち取ることも可能になるだろう。こういうたとえ話を聞けば、この訴訟のおかしさが分かるはずだが、米国の陪審員は科学者のような思考には慣れていないのだろう。勝訴で勢いづいた弁護側はいまテレビに広告(CM)を流し、「グリホサートを使っていて、がんになった人は訴訟に加わりましょう」と原告を募集している。見たこともない大金がもらえるなら、原告に加わる人も出てくるだろう。がん患者を食いものにする訴訟ビジネスの寂しい一面でもある。この訴訟の背景にはグリホサートに発がん性の警告表示が必要だとするカリフォルニア州特有の「安全飲料水および有害物質施行法(プロポジション65)」がある。そういう意味ではこの種のリスクに敏感な民主党の強いカリフォルニア州特有の動きともいえるが、この恐るべき訴訟がいつ日本に来ないとも限らない。正当な意見は無視さて、上記の大手新聞の記事は、こういうグループ分類の科学的な解説には全くふれず、グリホサートで発達障害や腸内細菌の異常、生殖毒性まで起きているとする海外の団体の偏った主張だけを載せている。市民グループの意見は長々と載せているのに対し、世界中の科学者の多数意見ともいえる欧州食品安全機関(EFSA)や米国環境保護局(EPA)の見解については、「発がん性を否定」しているというたった一言で済ませている。要するに記事の大半は、農薬に反対する市民グループとその市民グループに味方するごくごく一部の研究者の意見や主張だけが占めるという構図だ。こういう記事を書くときは、「私が共感する市民グループの意見だけを紹介する」と前置きして書くべきだろう。記事はいかにも客観性を装う内容にみえるが、単なるプロパガンダに過ぎない。よくあるパターンだと言ってしまえば、それまでだが、週刊誌ならまだしも、日本で最も信頼されているとされる新聞でこの状況である。この米国の訴訟の判決に対して、米国の環境保護局(EPA)は8月8日、「米国政府はグリホサートの発がん性警告表示を全く認めていない。国際がん研究機関よりもはるかに包括的に研究文献を精査した結果、発がん性の根拠はない」とするプレスリリースを出した。こういう重要な動きを記事は全く伝えていない。さらに言えば、IARCは2015年にグリホサートのほか、マラソン(殺虫剤)、ダイアジノン(殺虫剤)もグループ2Aにした。しかし、同じグループながら、マラソンやダイアジノンは全く話題にも上らない。訴訟にもなっていない。なぜかグリホサートだけが攻撃される。市民グループの恰好のターゲットとなっている旧モンサント社がからむからだろう。市民グループの主張だけを取り上げて、よい記事を書いたと自己満足している記者がいまも存在するということをぜひ知っておきたい。ここで強調したいのは、反対運動自体を問題視しているのではなく、科学的な根拠に基づく正確な情報を伝えない報道の目に余る偏りが問題だということだ。こうした海外の動きを受けて、日本の市民グループや国会議員もグリホサートへの反対運動を強めている。次回で続編をレポートしたい。 ※文中に出てくるグリホサートは除草剤の有効成分です。現在、世界で数多くの会社がグリホサートを含む除草剤を製造・販売していますが、米国での訴訟の対象になっているのは旧モンサント(現在はドイツのバイエル)の商品のラウンドアップです。ただ、記事では分かりやすくするため、成分名のグリホサートで統一しました。
- 19 Sep 2019
- COLUMN
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メディア・ハラスメントの誕生 ─ 今後、メディアの信頼回復策はあるのか
いったいメディアはいま、どんな情報を市民に届ければ、信頼される存在になるのだろうか。新聞やテレビ、週刊誌などのメディアへの信頼性がますます低下する中でメディアの生き残り策はあるのだろうか。私は、読み手に「反論権」をあらかじめ与えるのが生き残り策のひとつだと考える。どういうことかを述べてみよう。一部週刊誌の非科学的言説最近の一部週刊誌の食品のリスクに関する記事を見ていると、もはや言論というよりも、非科学的な言説の一方的な垂れ流しであり、言論の自由の範疇に収まり切れない要素をもっているのではないかと感じることがある。「食べてはいけない国産食品の実名リスト」との派手な見出しで事業者と製品名を挙げて、「これが危ない食品のランキングです」といった週刊誌の記事のことだ。たとえば、「食品添加物が子供の自閉症の原因になっている」とか「うま味調味料のグルタミン酸ナトリウムが脳の障害を起こす」とか「パンに使うイーストフードは体に悪い」とか「アルミニウムは子供の発達障害と関連がある」とか、およそ科学的とは言いがたい言説を平気で記者たちが書いている。この種の記事に登場するコメント諸氏は、私から見れば、いつも偏った評論家か学者、市民活動家ばかりだ。その名前をリストに挙げることは簡単にできる。その数が10人程度と少ないからだ。名指しされた事業者は反論の機会も与えられず、ただただ泣き寝入りするしかないようだ。もちろん、この種の記事に対しても、無添加表示で商売をもくろむ一部の事業者は大喜びだろうし、食品添加物を敵視する一部市民は喝采を送るだろう。しかし、食品の科学に詳しい学者に聞けば、だれ一人として、そうした記事を称賛する人はいない。そうした記事は、科学論文のように第三者のレフリーの目(査読)を経たわけではない。いうなれば、雑誌側の記者たちと一部の評論家諸氏が勝手に作り上げた粗雑な物語といってもよい。では、なぜ、この種のひどい記事がいつまでも存在し続けるのか。モノを売買する市場では、欠陥商品を売る評判の悪い店や会社はいずれ淘汰されてもよいはずだが、なぜか生き残っている。メディア・ハラスメントではないか名指しで非難された事業者からみれば、一方的に書かれっぱなしのままであり、反論する術もない。私はいつしか、これは言論によるハラスメントではないかと思うようになった。相手の言い分を聞くかのようなポーズを見せながら、最初から結論ありきの記事を一方的に書きまくる。言論による「いやがらせ」としか思えないようなスタンスである。これを「メディア・ハラスメント」と呼びたい。そもそもハラスメント(Harassment)とは何か。ネットで検索してみると、分かりやすい大阪医科大学の定義が出てきた。どんな内容かを以下に記してみる。「いろいろな場面での『嫌がらせ、いじめ』を言います。その種類は様々ですが、他者に対する発言・行動等が本人の意図には関係なく、相手を不快にさせたり、尊厳を傷つけたり、不利益を与えたり、脅威を与えることを言う」本人の意図に関係なく、つまり、相手の言い分をよく聞かずに一方的に相手の嫌がることをしたり、不利益を与えたりする行為である。週刊誌による一方的で横暴な言論はどうみても、この定義にあてはまるように思える。勇気をもって行動し、評判をつくるでは、ハラスメントを受けたら、どう対処すればよいのか。大阪医科大学は先ほどの説明のあと、次のような提言をしている。「一人で我慢せず、勇気をもって行動し、はっきりと自分の意思を伝える。受けた日時を記録し、相談窓口に助力を求める」つまり、泣き寝入りせず、勇気をもって行動することが大事だといっている。これは通常のセクシャルハラスメント(セクハラ)などではごく常識的な対処法だろうが、この言論によるハラスメントの世界では、この種の対処法が全く機能していないことに気付く。私と唐木英明・東大名誉教授が共同代表を務めるメディアチェック団体「食品安全情報ネットワーク」(個人で集まったボランティア集団)はこれまでにおかしな記事を見つけたら訂正を申し入れるなどの活動をやってきたが、これからは「この記事は不正確です。ミスリードする内容が多く、信頼性は低い」といったような評価作業を行い、その評価結果を当該メディアに送り、なおかつ他の多数のメディアにも送るというアクションを起こすことを決めた。試験的に、ある新聞の食品添加物に関する記事をみなで読み、「ミスリードする内容で不正確」との評価をくだした。評価する基準は主に「科学的な根拠が適切に示されているか」「大げさに伝える誇大な見出しになっていないか」「事実関係の説明に誤りがあるか」の3つだ。この評価に基づく評判を世間一般に知らせることによって、その評価にふさわしい報いを受けてもらおうという活動である。決して言論を否定するわけではない。目的はあくまで評価を通じた評判作りである。そもそも、この種のメディアチェック活動が必要なのは、当該メディアが読み手に対して「この記事への反論を載せます。ご意見をお寄せください」という反論権を認めていないからだ。メディアが読み手に反論権を与える姿勢に転じれば、その時はそのメディアは市民から信頼され、守るべき市民の代理人としてのメディアに格上げされるだろう。反論を載せることこそが言論メディアの生き残る道だと考える。
- 19 Jul 2019
- COLUMN
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SNS時代にふさわしいメディアチェックとは ― おかしな記事を評価して、世間に知らせる活動をもっとやろう
おかしな新聞記事やテレビニュースを見つけたときに、まずだれもが思いつくのが「訂正の要求」か「抗議文の送付」だろう。しかし、相手が完全に無視したら、どうすればよいのか。そのひとつが相手の評判を落とすアクションだ。どのメディアも世間の評判には弱い。そのやり方を私なりに考えてみる。私が共同代表を務めるメディアチェック団体「食品安全情報ネットワーク」(もう一人の代表は唐木英明・東大名誉教授)は、科学的な根拠がないか、あるいは乏しい記事を見つけたら、その媒体に訂正を求めたり、意見書を出したりする活動を続けている。学者や記者、企業の品質保証担当者、公的機関の研究者など約50人が集まったボランティア団体である。会費もなく、おかしな記事を見つけたら、みなで手分けして検証して、訂正の内容をメディアに送るという純粋な検証団体である。ボランティアだから、自由にモノが言えるし、どの媒体に対しても等距離に身を置ける利点がある。2008年から活動を続けてきたが、一番の悩みは相手から無視されたときだ。幾度質問を繰り返しても、相手から全く音沙汰なしだとあきらめるしかなかった。そのときの気持ちは、一言で言えば「悔しい」だった。新聞系雑誌は「無視」知名度のない弱小ボランティア団体ゆえに無視されたのだろうと思うと本当に歯がゆい思いを何度も味わった。たとえば、2018年2月、週刊朝日が「健康寿命を延ばす食品選び」というタイトルで、どうみても非科学的な記事を載せた。添加物を避ければ、健康寿命が延びるかのような非科学的な言論を吐く評論家や市民団体は昔からあったが、それが堂々と新聞系の雑誌に載ったとあっては、黙って見過ごすわけにはいかない。さっそく質問状とその理由を書いて編集部に送ったが、全く返事は来なかった。しびれを切らして私たちの担当者が電話したところ、相手からは「特定の相手にだけ時間を割くことはできない・・」などといった冷淡な言葉だった。その後も、別の複数の週刊誌の記事に対して、何度か訂正を求めたが、ここ1、2年は「回答なし」が目立つようになってきた。ニュースの真偽を検証するこのまま敗北するわけにもいかない。どうすればよいかを思案していたときにヒントになったのが、最近、世界で大流行している「ファクトチェック活動」だ。ファクトチェックとは、簡単に言うと記事やニュースの真偽を検証することだ。たとえば、米国のトランプ大統領の発言とそれが掲載された記事がどこまで真実かを検証して、「大統領の発言はフェイクです」などとSNSなどを通じて、みなに知らせる活動である。欧米を中心に100を超えるチェック団体がすでに存在している。検証または評価のやり方はそれぞれ国や団体のカラーで異なる。たとえば、記事の評価を「ねつ造」「不正確」「やや不正確」「正確」と単純に分ける方法もあるだろうし、その一方、「科学的な根拠がなく、嘘に近い」「信じてはいけない真っ赤な嘘」「科学的な根拠があり、信じてもよい」という言い方で評価する方法もあるだろう。評価結果の知らせ方は、これまた国や団体で異なる。ただ基本的には、あらかじめ評価項目とその判断基準を決めておき、それぞれの団体がくだした評価結果を自らのウェブサイトに載せるという点は一致している。その評価結果を当該メディアに送るほか、他のメディア媒体(新聞、テレビ、雑誌など)にも送り、さらにそれぞれの団体会員が個々にSNSに投稿するという形をとれば、影響力は大きいはずだ。欧米では、メディアチェック団体と提携した既存のメディアが評価結果を記事として載せるケースもある。既存メディアが協力すれば、確かに一般の人の目に触れる頻度は高くなる。これが理想的なあり方だろう。「評価結果」は他の媒体にも知らせるここで大事なことは、たとえば、週刊朝日の例なら、週刊朝日の記事に関する評価結果を他のメディア媒体にも送るということだ。実は私たちの団体も2018年から、他の媒体(全部で約20社)にも送っていた。おかしな記事を書いていないAという媒体に「B社の記事は、非科学的です。信じてはいけないという評価がくだりました。SNSにも投稿されています」という評価結果が届けば、他社の出来事とはいえ、おそらく、変な記事を書くブレーキになるのではと思う。この「おかしな記事の評価を他社にも知らせる」というアクションは、実は、ずっと以前に一般社団法人「日本アルミニウム協会」がやっていたことだ。「アルミニウムの摂取がアルツハイマー病の原因になる」といった記事が約20年前にはやっていた。私もそうした記事を書いた記憶がある。いまでは信じられない話だが、台所でアルミ鍋を使っていた主婦たちが恐怖のあまりアルミ鍋を捨てるという行為まで見られた。日本アルミニウム協会は、科学的な根拠の低い記事を見つけるたびに、どの部分が非科学的かの理由を明記して訂正要求リリース文を作り、当該の媒体のほか、他の新聞社にも送っていた。私の記憶では、この活動は10年近く続いた。その地道な活動の要因だけではないだろうが、アルミニウムがアルツハイマー病に関係するという記事は少しずつ減っていったように思う。どのメディアもNHKを除き、客商売なので、世間の評判を気にする。世間の評判が落ちたら、購読数(視聴者数)の減少に直結する。この商の論理は傍若無人ぶりの週刊誌も免れない。いま世界で流行しているフェイクニュースのチェックは、どちらかといえば、大手メディアが流すニュースの真偽よりも、政府要人など有名人の発言が真実かどうかをチェックすることに重きを置いている。個人的な意見では、日本では主要なメディアの流すおかしなニュースに翻弄されているケースのほうがより深刻だと思っている。ぜひ、それぞれの組織の有志たちでメディアチェック団体をつくり、おかしなニュースを見つけたら、その評価結果をあらゆる媒体に知らせていく活動を始めてほしいと思っている。5~10人いれば、できるはずだ。どんなことも、初めの一歩がなければ、成し遂げられない。私たちの団体もまもなく評価活動を始動させる。
- 25 Apr 2019
- COLUMN
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メディアへの訂正要求は多角度から試してみよう
おかしな記事やニュースを見たとき、だれに、どうやって訂正を求めればよいのか。また、どんな方法で抗議をしたらよいのか。日本のメディア(新聞やテレビなど)には残念ながら、欧米のメディアと異なり、反論を載せてくれるコーナーや番組が存在しない。では、どうすればよいか。狙ったメディア内で、できるだけ多くの人(記者も含め)に周知してもらう作戦がよい。その具体的なやり方を紹介しよう。七つのルート新聞社やテレビ局などに訂正を求める場合、限られたルートしかないようなイメージがあるが、実は案外と多い。思いつくだけでも、以下の七つの方法がある。記事を書いた記者本人に抗議し、訂正を求める。記者の直属の上司(多くは部長か課長クラスのデスク)に訂正を求める。広報を担当する社長室に訂正を求める。社長あてに抗議文を出して訂正を求める。読者センターにメールか手紙で間違いを指摘し、回答を求める。新聞社内で紙面を審査する担当窓口にメールか手紙を出す。新聞社に設置されている外部の第三者委員会にメールか手紙を出す。意外に多いと思った人が多いのではなかろうか。ひと口に抗議や訂正といっても、実は、記事の間違いの程度いかんで対応は異なる。ちょっと表現(言葉)がおかしいとか、記者への説明と記事の内容が少々食い違うといった軽いミス(許容できる間違い)の場合には、記者本人に伝えて、「今回は目をつぶるけれど、次回はちゃんとこちらの言い分を書いてくださいね」とか「もう一度、記事を書いてくださいよ。ただ、今度は正しく書いてくださいね」とか言って、恩を売っておくのもよいだろう。私の経験から言って、記者は「もう一度、記事を書くから、今回は大目に見てほしい。次回の記事では正しく書くから」という受け入れ策を好む傾向がある。訂正記事を出すよりも、そのほうが記者個人の汚点にならないからだ。正直な話、私も記者生活40年間の中で、何度かこの手を使ったことがある。しかし、今回の話は、そういう恩を売っておくという程度で済むような間違いではないケースだ。間違いは全社的な話題にもっていく具体的な例を挙げたほうが分かりやすいので、前回で取り上げた毎日新聞の一面トップ記事の「もんじゅ設計廃炉想定せず ナトリウム搬出困難」(2017年11月29日付)を例に説明したい。前回は事実関係に絞って訂正を求めたほうがよいと書いたが、今回は、だれに、どのような方法で訂正を求めるのがよいかという問題だ。この記事をめぐっては、日本原子力研究開発機構の担当者は、記事を書いた記者の部署の直属上司(部長クラス)と面談して、訂正を申し入れたようだが、結局は、「取材源の秘密」を理由に「記事に間違いはない」と言われ、訂正やおわびを勝ち取ることはできなかった。一般的に言って、外部から訂正要求がくるということは、その記事は間違いだという可能性は高い。どんな人でも、記事が間違ってもいないのに、訂正を求めるようなことはしないからだ。そういう意味で、外部から「この記事は間違いです」と指摘されたメディア担当者(このケースでは部長クラスの上司)は、まずはなんとか自社組織の中で大きな火種にならいよう、ことを丸く収めようと内心で思うはずだ。訂正を求めるときは、その担当者の意識の弱さを突くことを考えたい。つまり、訂正を求める場合は、その間違いを全社的な問題(話題)にもっていくのがよい。一部署との交渉だけでは、その部署だけで問題が終わってしまう可能性があるからだ。外部からの通報で間違い記事に気づいた部長クラスの上司がまず気にするのは「社内にいる他の部長クラスのみんなが知ったら、まずいなあ。立場が弱くなるなあ」という自身への風当たりだ。つまり、その間違い記事が全社的な話題になってしまうことを恐れるのだ。間違いの指摘は社長室か読者センターへということは、訂正を求める場合は、第一段階として、記事を担当した記者や部署ではなく、広報担当の社長室か読者センターに通報するのがベストである。間違い記事に関する回答書を求められた読者センターは、すぐに関係する部署のほか、社長室にも連絡をする。そして、「これこれの間違いが外部から指摘され、訂正を求められている。訂正するかどうかの判断はそちらに任せるが、とりあえずは関係部署の上司と記者の釈明書を書いて、こちらに送ってほしい」と回答書の提出を指示するだろう。こうなると、間違い記事は一部署から一挙に広範囲に知れ渡る。おそらく部長クラスが集まる部長会議の議題にもなるだろう。私の経験からいって、間違い記事を指摘された部署は当然ながら、訂正の掲載に抵抗するだろうが、他の部署は意外に冷静な目で判断する傾向がある。間違ったときは潔く訂正を出したほうが読者の信頼を獲得でき、社会的な信頼度も上がると考える新聞人が最近は増えてきているので、その間違い記事とは関係のない部署の記者たち(部長クラスの記者たち)からは、意外にも訂正を出すことに賛成する意見が出てきやすい。開かれた新聞委員会も活用したいもうひとつの方法は、新聞社内に設けられた第三者委員会にメールか手紙で間違いを指摘し、そこで議論してもらうことだ。第三者委員会はどの新聞社にもあるわけではないが、毎日新聞社の場合は、著名なジャーナリストの池上彰さんら複数の外部識者で構成された「開かれた新聞委員会」がある。紙面に寄せられた抗議や訂正要求などを議論し、その審議内容を紙面に定期的に載せている。その中で「これこれの訂正要求が来ているが、これは訂正に値する間違いだ」といった内容の論評記事が出たりする。これはいわゆる訂正記事ではないものの、識者の意見として「あの記事は裏とりが不十分だった」との記事が載るため、事実上、訂正記事に近いものになる。この論評付きの意見は、簡単な訂正掲載よりも、記者が間違った背景も分かり、読者には親切である。残念なのは、こういう外部の意見を審議する第三者委員会をもっている新聞社がまだ半分にも満たないことだ。その意味で毎日新聞の開かれた新聞委員会は専門家からも高い評価を得ていて、おそらく新聞社の中ではもっとも先進的な例ではないかと思う。そういう意味では、この「もんじゅ設計廃炉想定せず」の記事は、第三者委員会に通報してもよかったケースだと言える。ちなみに第三者委員会の会議には部長クラスの上司はみな出席する。これまで述べてきたように、訂正要求にもいろいろな方法があることが分かるだろう。ただどんな場合でも、少なくとも相手の組織図を知っておくことは最低必要条件である。そしてもうひとつ、確実に実行したいことは、自社のホームページに「○○社の記事は○○の部分が間違いです。この記事は誤報です」といったメッセージを必ず載せることを忘れてはいけない。訂正を求めるという面倒な行為をしなくても、ただホームページに載せるだけでも、だれかがそれに気づいて、その間違い記事を拡散してくれる効果も狙えるからだ。何もしないのが最悪の行為である。次回は、間違いを指摘しても、メディアから無視された場合の対処法を考えてみたい。
- 28 Feb 2019
- COLUMN
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メディアの間違いにどう対処すればよいか ― 記事の弱点を突き、照準をしぼることが肝要
新聞やテレビをはじめメディアの“誤報”にたびたび苦杯をなめてきた体験をお持ちの方は多いはずだ。しかし、誤報と分かっても、たいていは文句も言えず、泣き寝入りで終わるケースがほとんどだろうと察する。では、どうすればよいか。果敢に訂正を求めるアクションを起こすしかない。ただアクションを起こすからには賢い方法を身に着けておくことが必要だ。どんな方法か?賢い方法のヒントは、日産自動車のカルロス・ゴーン前会長が逮捕された事件にある。東京地検は金融商品取引法違反(有価証券報告書の虚偽記載)の疑いで逮捕し、立件を進めている。犯罪を立件するなら、背任や横領のほうがニュース価値は高いが、なぜ、有価証券報告書の虚偽記載という微罪で逮捕したのか。虚偽記載なら、虚偽の記載という厳然たる事実があれば、立件しやすいからだ。まずは相手の確実なエラー、弱点を突き、追い込んでいく。これがメディア対応の基本である。もんじゅ「欠陥」の記事具体的な例をあげよう。2017年11月29日、毎日新聞の一面トップに「もんじゅ設計廃炉想定せず ナトリウム搬出困難」(東京版)との見出しの記事が大きく載った。大阪版の一面は「ナトリウム回収想定せず もんじゅ設計に『欠陥』 廃炉念頭なく」との見出しだった。東京版に比べ、「欠陥」という文字が大きく見出しにとられた。これを受けて、翌30日には福井新聞にも「一次取り出し困難」と題する記事が掲載された。これに対し、日本原子力研究開発機構は11月29日、ホームページに記事解説を載せた。毎日新聞の記事の概要を記したあと、その記事に関する事実関係について、「概ね事実」「一部事実誤認」「誤報」「その他」の4分類のうち、「誤報」に〇印をつけた。そのうえで「・・原子炉容器内のナトリウムの抜き取りについては、原子炉容器の底部まで差し込んであるメンテナンス冷却系の入口配管を活用するなどにより抜き取ることが技術的に可能と考えている・・」などの解説を記し、記事の主要部分が間違いであることを強調した(ちなみに、この記事解説はいまもネットで読める)。さらに、「事実関係を十分に取材せずに掲載されたものであることから、当機構としては甚だ遺憾であります。今後、このようなことが起こらないように強く抗議するとともに善処を求めてまいります」との見解を公表した。その後、同機構側は、記事を載せた関係部署の担当責任者と直接会って、訂正を求めたが、「記事は間違っていない」と言われ、結局、求めた訂正は実現されなかった。明らかな間違いに照準訂正を求めるときの最大の要諦は、記事の中で「明らかな間違い」を見つけることだ。その間違いに照準を定め、「ここは明らかに間違っています。間違った情報を信じた読者に対して、再び、正確な情報を流すのが報道機関の使命と考えます。読者のためにも、訂正をお願いします」と強く主張することだ。もんじゅの一面トップの記事の前文を読むと、「・・液体ナトリウムの抜き取りを想定していない設計になっていると日本原子力研究機構が明らかにした。・・・・廃炉計画には具体的な抜き取り方法を記載できない見通しだ」となっている。私が記事を読んでまず気づくのは、欠陥ともいえる設計になっていることを「同機構が明らかにした」という記述になっている点だ。つまり、「抜き取りが想定されていないことが毎日新聞の調査で分かった」という言い方ではなく、「同機構が明らかにした」という言い方になっている。同機構が公的にそんなことを言うわけはなく、また、そんな見解を述べた文書があるわけでもなく、これは明らかに間違いだと言える。さらに記事を改めてよく読むと、《同機構幹部は取材に対し、「設計当時は廃炉のことは念頭になかった」と、液体ナトリウム抜き取りを想定していないことを認めた》となっている。「ナトリウム抜き取りを想定していないことを認めた」という文章は、記者の地の文であり、幹部が抜き取りを想定していなかったと証言したという文章ではない。つまり、抜き取り想定せずは幹部の言葉ではなく、記者の拡大解釈だ。仮に幹部の一人がそのようなニュアンスを記者にもらしたとしても、それは一意見であり、「機構自体が明らかにした」という断言調の言い方は明らかに間違いだと言える。幹部がだれだったかは「取材源の秘密」で明かせないと言われたそうだが、それは関係ない。機構自体が明らかにしたという事実が全くないことを強く主張すれば、訂正は勝ち取れるはずだ。もうひとつ勝ち取れる点があった。「抜き取り方法を記載できない見通しだ」という表現である。そもそも記載する必要がないから記載していないだけで、記載することは十分に可能なのは明らかなことから、これは「間違いです」と突っ込める。記事には、他にもおかしな点は出てくるが、まずは訂正を勝ち取ることができる部分に絞ることが肝要である。これはゴーン氏の逮捕容疑と同じである。記事に抗議するとか、善処を求めるといった主張は必要ない。あくまで的をしぼって訂正を勝ち取ることを目標にしたい。記者は補助に軌道修正実は、毎日新聞はあのあと、記事の内容を軌道修正している。たとえば、2017年12月7日、もんじゅの廃炉に関する続報を載せた記事を見ると、その見出しは「もんじゅ廃炉課題山積 核燃料回収 複雑な手順」だった。この記事は、「同機構が12月6日、廃炉計画を原子力規制委員会に申請した」という記事の中で改めて解説を加えたもので、11月29日の記事では、「数百トンは抜き取れない構造」と書いていたのに、12月7日の記事では同機構の見解として「技術的には十分可能」との内容を載せた。もし技術的に十分可能なのであれば、そもそもあの一面トップの記事は特ダネとして成立しなかったことになる。最初の記事と8日後の記事には大きな矛盾が生じているが、ほとんどの読者はそんなことには気づかなったに違いない。さらに言えば、2017年12月6日の毎日新聞の朝刊では、同機構が福井県と敦賀市に廃炉計画の概要を示したとの記事が掲載されたが、その記事には欠陥を思わせる記述は全く出てこない。11月29日の記事を書いた記者とは別の記者が書いているからだ。記者たちはやや勢い余って「書き過ぎたかな」と思うと、前に書いた記事のトーンを少しずつ修正していく習性がある。私の見方では、これもその一例である。いったい何が事実なのか。混乱するのは読者だけだろう。メディアという媒体はどこも訂正を出すことを極度に嫌う。記者も嫌う。私も過去に平均して2~3年に一度は訂正記事を出してきたが、訂正のあとはいつも憂鬱な気分になったものだ。しかし、読者にとっては、訂正の掲載は正確な情報の担保条件であり、信頼の証でもある。あとで振り返れば、訂正を出してよかったと思ったのも事実である。訂正を求めるときはこう言おう。「訂正は読者のために必要です。報道機関として、読者に間違った情報を届けたままでよいのでしょうか」。次回のコラムは、メディア対応の次の手を紹介したい。
- 06 Dec 2018
- COLUMN